(3)

文字数 3,204文字

 会食を終え、ホテルの自室に引き上げてからも、シュナウザーの言葉は繰り返し翼の心の奥深くに波紋を投げつづけた。

「あんな根暗で辛気臭い考えかた、とてもついてけないね。あんたもいちいち真に受けて、気にすんじゃないよ、翼」

 別れぎわ、翼の心意を見透かすかのようにレオが言った。わかっていると頷くその内心で、だが、と翼は思う。

 解放されていながら、閉塞した空間。

 シュナウザーの言うとおり、一度、ドームの外へ出てみるべきなのかもしれない。否、むしろスラムに囚われるあまり、地上に来ていながらそのことに思い至らなかったこと自体が間違っていたのだ。今回の取材とは直接関わりのないことでありながらも、考えれば考えるほど、翼の中でその思いは強くなる一方だった。

 明日、早々にレオに話を持ちかけてみようか。

 上着を脱いだだけの格好でベッドに寝転がりながらそんなことを考えていた翼は、不意に、ドアをノックする音で現実に意識を引き戻された。
 頭を起こしてベッドサイドの時計に目をやると、すでに23時をまわっている。レオなら、なにかあれば部屋の内線か通信機に連絡してくるはずだった。不審に思う翼の耳に、やはり、インターホンではなく、直接ドアをノックする、控えめな音が響いた。

「は、はいっ」

 返事をして、念のためベッドサイドのパネルを操作し、セキュリティ・システムの画像をオンにする。そこに、ドアのまえに佇む、見知らぬ女の姿が映し出された。

「あの、どちらさまでしょう?」
「夜分に失礼。新見翼さんでいらっしゃいますわね? 折り入ってお話ししたいことがあって伺いましたの。怪しい者ではありませんのよ、どうか開けてくださらない?」

 モニター越しに、やや低めのアルトが、やわらかにそう告げた。
 ツバのひろい帽子を目深(まぶか)にかぶったその人物の顔は、この角度では口許しか映らない。しかし、ほっそりとした顎と深紅のルージュに(あで)やかに彩られた口唇(くちびる)の完璧な輪郭から、その女性が、絶世のといっても過言ではない美女であることが充分に窺えた。

 自分にこんな知り合いはいない。あらためて確認したことで、いっそう不信感は強まったものの、翼の中でなにかがひっかかった。

 レオに事態を報告すべきではないか。理性が発する警告は、しかし、強い好奇心に結局勝てなかった。
 翼はベッドから離れると、ロックを解除してドアを開けた。

「ごきげんよう」

 モニターに映った美女が、翼に向かって艶冶(えんや)に笑いかけた。

 美しく結い上げた黄金の髪。最高級のシルクで仕立てた、シックでゴージャスなデザインの白のスーツ。象牙か雪花石膏(せっかせっこう)を思わせる胸もとと耳を飾るプラチナと真珠。細身のタイトスカートからは長い足がすらりと伸び、アクセントに繊細な金鎖(きんさ)の細工を施したパール・ホワイトのヒールは、足先で品良くポーズを作って並んでいた。先端まで丁寧に手入れされた指は、10カラットはありそうなブルー・ダイヤの指輪さえもが気後れしそうなほど長く、しなやかだった。
 その指が、優美な仕種(しぐさ)で帽子の角度をわずかに押し上げる。顔の上部を覆っていたツバの奥で、(つよ)い光を湛えた美しい双眸(そうぼう)が、思わせぶりに覗いた。

 現れたのは、宝石よりも鮮やかで、目映い耀きを放つ青紫の――


「あああ~~~っっっ!!!」


 瞬間、翼は大きく()け反り、目から眼球が、口から内臓が、耳から脳が飛び出そうな絶叫を放って美女を指さした。

「バカッ、シッ!!」

 美女はすばやく翼の口を片手で塞ぐと、周囲に目をやった。そして、あたりに人の気配がないことを確認すると、翼を抱えたままスルリとドアの隙間から部屋に入りこみ、ほっと息をついた。同時に、腕の中でおとなしく口を塞がれ、目を白黒させながら押さえこまれている部屋の主と目が合う。美女は手を放すや、

「このバカッ、なんて声出しやがる!」

 先程とは打って変わった調子で翼を叱り飛ばした。

「だっ、だって……っ!」

 翼は、まだ半分夢でも見ているような情けない表情で、自分より頭ひとつぶん長身の美女を見上げた。

「だって、いきなりこんな、とても信じられないよ。君、ほんとにルシ――」
「シッ!」

 美女は翼の言葉を鋭く遮って、そのままでいるよう合図した。青年が黙ってそれに従うと、深夜の招かれざる客は、部屋の内部を手慣れた様子でなにやら点検し、今度こそ緊張を解いて脱いだ帽子をテーブルの上に(ほう)り投げ、みずからは乱暴な挙措でソファーに座りこんだ。

「あの……」
「ああ、もういいぞ。普通に(しゃべ)って」
「普通にって、あの、どういう……?」

 おどおどと自分を見つめる青年に、美女は口の()を片側だけ上げてみせた。

「この部屋には、小型の監視カメラが仕掛けられてた。最新式の超高性能のやつだ。それを先刻、おまえの留守中に俺の手下に取りはずさせた」

 その言葉に、翼は目を剥いた。

「まさか! だって、いったいだれがそんな……」
「あまり、シュナウザーを信用しないことだな」

 美女は、そう言って声をたてずに笑った。

「シュナウザー局長が? そんな、とても信じられないよ。だって、なんのために彼が僕なんかを――」

 言いかけて、翼はハッと口を噤んだ。

「そういうことだ。奴の直接の標的は、おまえじゃなく、この俺だ」
「ひょっとして、それで行方(ゆくえ)を眩ましちゃった?」
「まあな、プロの監視が、ぴったりとおまえたちをマークしてたからな」
「どうしても諦めきれなくて、あれからずっと君を捜してた……」
「知ってる。だからこうして、わざわざ会いに来たんだろう。いつまでもそんなとこにボサッと突っ立ってないで、こっちに来い」

 促されて、翼は美女の傍らに歩み寄った。

「……ルシファー?」

「ああ」
「ほんとに?」
「ああ、夢じゃないぜ。うまく化けてるだろ? 結構苦労したからな、これでも」

 スカートの裾がまくれ上がるのも気にせず、たかだかと足を組み、ソファーの背凭(せもた)れに腕をかけてぞんざいにふんぞりかえる絶世の美女を見下ろして、翼はくすくすと笑った。

「あんまりだな、その格好。せっかくの貴婦人が台なしだよ」
「おまえのまえで気取ってもしょうがないだろう。カモフラージュする意味がねえんだから」

 憮然と応じる美女におかしみをおぼえつつ、翼は部屋に備えつけのキチネットに立った。

「なにか飲む? っていっても、ミネラルウォーターとインスタント・コーヒーぐらいしかないけど」

「翼」

 呼ばれて、青年はカップを手にしたまま「え?」と振り返った。

「そんなものはいいから、こっちへ来い。話があると言ったろう。遊びでこんな格好して、こんなとこまで来るほど、俺は暇でも酔狂でもねえんだよ。ぐずぐずしてる時間も余裕もない。本題に入るから、こっちへ来て、さっさとここに座れ」

 命じられるまま、翼はカップを置いて、示されたルシファーの横に腰を下ろした。

「おまえ、俺を記事にしたいと取材協力を申し込んできたな。いまもその気持ちに、変わりはないか?」
「変わらない」

 正面から自分を見据える、恐いくらいに鋭い青紫の双眸を見返し、翼はきっぱりと頷いた。

「いいだろう。なら、協力してやる」
「本当に?」
「ただし、そのかわりと言ってはなんだが、こっちにも条件がある」

 条件――

 手招きされて、翼は相手のほうへさらに顔を寄せた。その耳もとに、美しい貴婦人がなにごとかを低く囁く。


 その夜を境に、翼はひとり、忽然(こつぜん)と姿を消した――
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