(十二・二)夢そして救世主

文字数 5,852文字

 吸い込まれるように、抱き寄せられるように、夢へと落ちてゆく雪。体中に付着した男たちの唾液や体液、傷の痛み、空腹すらすべて忘却し。
 夢の始まりはいつも同じであった。夜明け前何処とも知れないその場所に、雪が降り頻っていた。何処とも知れない、けれど眠りの主は既にそこが何処なのか知っている、或いは思い出している。それがいつかさえ、そして自分が誰なのか、既に思い出している。
 少女は高校三年。少女は十二月二十四日生まれの為、この時まだ十七歳である。少年Cの件は表立った騒動にはならず、時の経過と共に少女は何とか平静を取り戻す。しかしその矢先、少女の運命は決定的に転換するのである、或るひとつの出来事によって。
 それは平凡な夏休みの一日、晴れた夏の日の午後である。少女は聖書を通じて友人となったみさきと共に、いつもの川の川岸に佇んでいる。蝉時雨が聴こえ燦々と日が照り付け、水遊びに興じる親子連れや暑さを忘れてじゃれ合うカップルで河原は賑わっている。突然みさきが少女を誘う。
「ねえ、雪ちゃん。この川の上流って行ったことある」
「ううん、ないけど」
「じゃ、行ってみない」
「ええけど、何で」
「うん。雪ちゃん、霧下神父って知ってる」
「知ってるで。『懺悔の時間』の神父さんやろ」
「うん、その人の教会が川の上流にあるんだって」
「ほんま、なら行ってみよか。なんか有難い話聴けるかも知れへんし」
「うん、行こう」
 こうしてふたりは軽い乗りで、川の上流へと歩き出す。上流へ上流へと進んで行けども教会は現われない、ふたりは汗びっしょり。
「まだ」
「もう少し」
「場所知ってんの」
「大丈夫、大丈夫。任せといて」
「ほんまかいな」
 本当に知っているのかいないのか、みさきの足取りは覚束ない。
「な、もう随分川から離れてるで」
 いつしかふたりは、川のせせらぎの音も聴こえない場所まで足を踏み入れる。それでも歩みを止めないみさきの背中に、仕方なく付いてゆく少女。
「ここら辺だと思うんだけどなあ」
 突然歩みを止め、みさきが辺りを見回す。
「なんも、見えへんで」
 立ち止まり、一緒に見回す少女。どきどき、どきどきっ、突然少女の鼓動が高鳴り、気付いたら冷や汗。
「どうしたの、雪ちゃん」
「うん、何や知らんけど、見覚えあんねん、ここ」
「来たこと、あるんじゃない」
「あらへん筈やねんけど、何でやろ」
 きょろきょろと見回しながら、宛てもなく歩き出す少女。確かに昔来た覚えがあるような無いような、ここは一体何処なんやろ。
「何処行くの、雪ちゃん」
 今度はみさきが後から付いてゆく。
「あった、ほらあそこ」
 先に教会を見付けたのは、みさき。
「ほんまや」
 ぴたっと足を止めるふたり。教会は雑木林の中にひっそりと建っている。しかも教会とは思えない、四方を有刺鉄線が取り囲む物々しさ。そして教会の隣りに、何とも言えない不気味な建物がある。大きな物置なのか、灰色の壁には窓ひとつない。どきどき、どきどきっ、再び少女の鼓動が高鳴る。と同時に少女の中で、お雪さんが叫ぶ。
『だれか、こいつらをころして』
 どうしたん、お雪さん。動揺する少女。
「大丈夫、雪ちゃん」
 みさきが心配するのも無理はない、少女の顔はすっかり血の気が引いてまっ青。何やの、この建物、な、お雪さん。懐かしさと恐怖、少女を襲った感情である。あの中にいたんちゃうやろか、そんな気がしてならない。でも、なぜ。な、なんか知ってんなら教えて、お雪さん。
「雪ちゃん」
 みさきの声に我に返る少女。
「どないしたん」
「折角だから行ってみる、あそこ」
 教会を指差すみさき。
「そやな、行ってみよか」
「でも、なんか気味悪くない、ここら辺。幽霊とか出てきそう」
 改めて教会の周りを見回すみさきに、
「そやな、そう言われてみれば」
「場所も分かったことだし、今日はこのまま帰ろうか」
「そやね、もう薄暗くなって来たし」
 確かに、気付いたらもう日没。ふたりは向きを変え、引き返すことに。帰路を辿りながら少女は思う、あそこにはなんかある。何か、自分とお雪さんの大事な秘密がある筈や。
 家に帰り着くや少女はインターネットを駆使し、何者かに取り憑かれたように夢中で調べる。検索キーワードは、『十七年前』或いは『十八年前』、さっき見た教会の住所である『東京都台東区弁天町』、そして『桜毒』。
 するとひとりの少女の情報が得られる。十七年前、変死体で発見された少女の記事である。その少女に関して写真はおろか氏名も伏せられており、発見された場所だけが東京都台東区弁天町付近と僅かに明記されているばかり。しかし情報が伏せられるにはそれなりの事情があったようで、少女の死因は桜毒である。しかもその桜毒こそ、日本、ということは即ち世界に於ける桜毒発症の第一号だったのである。しかし知り得た情報は残念ながらこれだけで、なぜその少女が桜毒に感染したかは未だ不明である。またその少女が何らかの事件に巻き込まれたのではないかと疑われつつも、結局何ら手掛かりはつかめないまま未解決事案として放置されていることも分かる。
 そこで少女は続けて検索する。キーワードは『少女』、『性犯罪』、『行方不明』。すると行方不明となった夥しい数の少女、幼児から高校生までの幅広い情報が得られる。しかもその少女たちの殆どがまだ発見されず、今日に至っているという。
 それにしてもと、少女の関心を引いたのは日々幼女、少女を襲う性犯罪の多さである。被害に遭った少女たちの悲しみを思い、暴行され殺害された少女たちの無念に胸を痛める多感な少女は、熱い正義感に燃え上がる。何てひどい世の中や、何て野蛮で残酷で堕落した世界なんやろ、許せへん、このままでは絶対あかん、加害者である獣、悪魔のような男たちと闘い、少女たちを救いたい、こんな乱れた世の中を少しでも良くしたい、そんな思いに駆られる少女である。
 しかしか弱きひとりの乙女に過ぎない少女に出来ることは、ただひたすら祈るだけ。自分の無力を自覚し手を合わせ神様に祈る、それしかないと少女は懸命に祈りを捧げるのである。祈りの場所は何処かのチャペルなどではなく、いつもの川の前。夜の河原にひとり佇み、川のせせらぎの音に耳を傾け、銀河を仰ぎ見ながら、はい合掌。
「どうぞ神様、一日も早く世界中からすべての罪と悲劇とがなくなりますように。もうこれ以上悪が栄えませんように。そしてこの世界が美しく清らかなものとなりますように」
 更に純真なる祈りは続く。
「神様、まじで頼んます。もしその為にわたしになんか出来ることがある言いはるなら、わたしは何でもさせてもらいます。どうか貴方の良き僕として遠慮なく、わたしを自由にお使い下さい。わたしは身も心もお捧げする覚悟で御座います、はい」
 しかし考えてみれば、人類に於いて何らかの宗教発生以来恐らくは多くの宗教者たちが同様の祈りを捧げ来たにも関わらず、今もってこの世界は悪が支配する邪悪な世の中である。そこで少女は祈りに付け加え、銀河に向かってちゃっかりとこんなことまでお願いしてしまうのである。
「けれどそれが叶わぬ願いであると仰るならば、どうか神様、この地上にお裁き、最後の審判をばお与え下さい。神様、貴方の裁きによって、この汚れたる人類社会を滅ぼして下さい」

 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……ピポピポピー……。その時いずこより聴き慣れない妙な音が少女の耳に届くのである。はっ、何やこの音。と同時に見上げると銀河の彼方にひとつの光、それはあたかも吉原のネオンライトの眩しさにも似た七色の光が瞬くのを少女は見逃さない。何やろ、あれ。銀河の瞬き、光の河の中にあって、それは一際きれいであり、つい見惚れてしまう程。しかもその煌めきは、僅かずつ移動しているようにも見えるのである。はーっ、何で動いてんの、あれ。夜間飛行する飛行機か、はたまた、まさかの未確認飛行物体。祈りも忘れ、その移動する光に目が釘付けの少女。すると再び少女の耳に何かが聴こえ来る、宇宙空間のノイズに紛れながら。

 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……ピポピポピー……ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。ピポピポピー、銀河系太陽系第三惑星、Yoshiwara駅に属する雪隊員に告ぐ。こちらはメシヤ567号。祈りの言葉、ご苦労さん。今宵、折角のそなたの祈りなれど、生憎受付嬢がデート多忙で欠勤の為、救世主自ら、お答え致す、ピポピポピー。

 はっ、なんか今聴こえたで、何や今の声、空耳かいな。それとも何処かに誰かいてんの、きょろきょろとおっかな吃驚河原を見回す少女。けれど人の気配はなし。それにも関わらず、再びその声が……。
 ピポピポピー、我は救世主である。雪隊員、そなたの願い、了解した。
 了解……、はあ、何のこっちゃ。雪隊員って、もしかしてわたし。しかも救世主て、んな、あほな。誰、あんた一体、誰やねん。恐る恐る、その声に問い掛ける少女。しかし相手はマイペース、さっさと自分の話を続けるのである。

 ピポピポピー、ただし直ぐにという訳にもいかぬもの。何しろこの大宇宙には宇宙なりの壮大なる計画が御座る故。全宇宙にて発生し営まれるすべての現象は、その計画の為である。そなたの存在もそなたの身に起こる如何なる些細な出来事もまた、同様也。従って幾ら救世主と言えども、歯痒いのは山々なれども、この現象世界に対し安易に干渉は出来ぬこととなっている次第。とは言えど雪隊員、確かにそなたの暮らす銀河系太陽系第三惑星に於ける第三惑星人の不徳は少々目に余るもの有り。そこで早速ではあるが第三惑星に於ける悪に対し裁き即ち最後の審判をば執行すべきや否や、その調査を行うこととする。何しろ調査次第では第三惑星人の滅亡も視野に入れねばならぬ故、慎重の上にも細心の慎重を期さねばならぬのである。

 ピポピポピー、という訳で前置きがなごうなったが、これより我らメシヤ567号は、そなたの待つ銀河系太陽系第三惑星、Yoshiwara駅を目指し、大宇宙航海の始発駅、無よりもまた更なる無、ゼロよりもゼロであるところの、無限パワーステーションをば出発することとする。ただしその前に雪隊員にひとつ問いたい。
 はあ、何やいきなし、訳分からん。
 ピポピポピー、他でもない、そなた、美しく清らかなる世界をばお望みのようであるが、では率直に問う。そなた売春は如何致す、如何にすべきやと。そなたを育てたるは他でもない花街、吉原。して吉原とは宇宙でも名立たる売春のメッカなり。では吉原も滅ぼせと、売春も滅ぼせとそなた申されるか、そなたを育てたるこの両者をば。これは難問なり、これは弱った弱った……。返答を待つ、以上。ピポピポピー。
 はあ、何が弱った弱った、やねん。でも確かに、言われてみればその通りやな、流石鋭い救世主はん。銀河を仰ぎ見ると、移動する七色の光の瞬きがまだ少女の目に幽かに映る。恐らくはあれがメシヤ567号とかいう救世主の乗ってはる宇宙船かいな。少女は救世主から問われた難問に腕を組み、深刻な顔で考え込む。しかし現役女子高生の少女に、答えの得られる容易き問題ではない。そこで少女はこう答える。
「ですから救世主様、そこいら辺も含めてすべてお任せします。どうぞ、お裁きを」

 ピポピポピー、こちらはメシヤ567号。では仕方がない、すべて我に任せてもらおう。で雪隊員、先程宣言されたるそなたの誓いと決意に変わりはあるまいか。僕として身も心も捧げる覚悟、最後の審判の使徒として第三惑星、Yoshiwara駅にて積極的に働く覚悟は出来て、おるのかーーっ。
「はい、勿論です、救世主様。何なりとお申し付け下さい」
 ピポピポピー、よし、ではそなたの望む通り、我は裁きの為、そなたに使命を課す。これから早速そなたは我らメシヤ567号到着までに、第三惑星に於ける最後の審判の準備に取り掛からねばならない。それは決して難しくはないが、大変辛く苦しき試練と犠牲の連続である。なぜなれば我が裁きをば阻止、妨害せんとして数千年の遥か昔より第三惑星に巣食うたる邪悪なる者どもによる攻撃が、使命を帯びたそなたを待ち受けているからである。しかし我らメシヤ567号は必ずや到着致す故、それまで何卒辛抱致されよ。
「はい」
 銀河に向かって答える少女。
「では最後の審判の準備として、具体的にわたしは何をすれば宜しいのですか」

 ピポピポピー、良く聴くがよい。そなたはこれから自らの意志によりて、ネオンの光瞬く吉原はエデンの東という名の店の娼婦となり、第三惑星人の衣を被った邪悪なる者たちを相手にしつつ、エデンの東にて我らメシヤ567号の到着を待たれよ。以上である。ピポピポピー、ピポピポ……ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。

 こうして少女の返事も待たず、救世主の声は宇宙空間のノイズに掻き消され、いつか銀河に瞬いていた宇宙船の光もまた失われる。しかし純真なる少女は躊躇うことなく救世主の言葉に従い、吉原の娼婦となることを決意し、高校を中退するのである。
 少女は吉原の街にエデンの東という名の店を捜し求めたけれど、生憎そんな店は見当たらない。困った少女は母親の営む店の名がエデンの園であることを思い出し、ここやと閃く。母親に店で働かせてくれるよう懇願するも、はいそうですかと簡単に承知する筈はない。あんた、頭おかしいんちゃうと一笑に付すも、少女は真剣、その気持ちは揺るぎない。しかも店の名前を、エデンの園からエデンの東に改名してくれなどとのたまう。呆れ果て、
「ほなら、あんたの好きなようにしなはれ」
 匙を投げ、冗談半分承知するのである。しかし十八年間折角育てた娘があろうことか自分と同じソープ嬢になりたいなどと言い出すとは、母の悲嘆たるや察するに余りあるのである。
 こうして絶世美少女による娼婦誕生となり、自らの誕生日である十二月二十四日を境に、少女はエデンの東にていつか訪れるであろう宇宙船を待つことに……。

 はっと目を覚ます雪。見回してもお化け屋敷には誰一人いない。ゴロ助ももう今は既に亡き人であり、雪は完全にひとりぼっち。三上組の若い衆が世話係として来てはくれるが、食料を購入する以外は何もしてくれない。従って男たちによって痛め付けられ傷付けられ汚された肉体は自らの力によって洗い清めねばならず、空腹、排泄もまた同様、自力で解決せねばならない雪である。
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