(十・一)Mr霧下

文字数 2,952文字

 月が替わり季節も移り変わって秋、照り付けていた陽射しも和らぎ、蝉時雨も盛りを過ぎて既に大人しい。人の噂も何とやら、マスコミによる雪へのバッシング報道もとうに終焉し、ワイドショーでは完全に忘れ去られた過去の人。今はビルに群れる野次馬の姿もなく、騒動当時の喧騒が懐かしくさえ思え、物足りなさすら禁じえない今日この頃。お節はそんな雪と二人切りの静まり返ったエデンの東の玄関に、彼岸花を飾る。
 実はひっそりと営業を再開しているエデンの東、といっても在籍するソープ嬢は勿論、雪唯ひとり。相変わらず強きの料金設定、一晩百万円で、しかもマスコミのバッシングの後では今更客など寄り付こう筈もなく、従って閑古鳥。
 といっても元より真面目に商売をする気など毛頭なく、今のままでもお節と雪二人位なら充分に食っていけるだけの貯えはある。だから二人共のんびりとしたもの、雪はこの時とばかりお節を介護し世話を焼き、思えば今迄孝行らしきことなど何一つしてへんやったと親孝行に余念がない。お節の方も、雪の騒動中のストレスから解放され疲労も取れ、雪を前にして元気に昔話などお喋り、癌の診断など嘘ではないかと思える程ピンピンとしている。こうして仲睦ましく笑い合う、年の離れた母娘のささやかなる幸福の日々は穏やかに流れゆくのである、そう、ささやかなる幸福の日々。九月のお彼岸、二人の前にそのひとりの男が現れるまでは。
 その男とは、Mr霧下。この男、キリスト教の神父であり、
「暗いと不平を言うやつの、口はとっととふさぎましょう」
 でお馴染み毎晩午前零時のラジオ番組『懺悔の時間』で説教を垂れる、現在日本で最も有名な神父である。霧下の宗派はカソリックでもプロテスタントでもなく、宗派を超え世界を救済しようとする真のキリスト教の団体であると自負しているらしい。がしかしこれらはすべて表向きで、実のところ例の闇の組織の一員、しかも組織内では司教という最高位に最も近い上層階級に位置する実力者、日本支部のNo1でもある。
 でそんなとんでもない男が直々に一体何をしに、こんな吉原の片隅、寂れた一軒のソープランドへとわざわざ足を運んで来たか。しかも目立たぬようにとの配慮から、月並みなサラリーマンの恰好でのご登場である。さて如何なる訳があるのやら、簡単に言えばいよいよ満を持しての闇の組織による、雪への宣戦布告という訳である。
 何しろ、きっかけこそ組織の下層メンバーである暴力団三上組組長の女遊びから始まったものの、その後も如何なる方法によるかは分からねど我らが同志がいとも簡単に次から次へと雪の毒牙に掛かって死んでいる。流石にこのまま放置しておいては、今後どれ程犠牲者が増えるやも定かでない。いい加減組織としても黙って見過ごしてはおられない、何か対策を施さねば。という訳で、ここに霧下の登場と相成ったのである。
 サラリーマン姿の霧下は、白髪、白髭、グレーのスーツで、如何にも草臥れたうだつの上がらぬ初老のサラリーマンといったところ。しかしその眼光の鋭きは、どう隠そうとも隠し得ない。まずは雪がどんな人物なのか、チェックしに来た次第。
 いつもなら先ずお節が客を出迎え、面談し問題なければ、雪のいる宇宙駅へと案内する。がしかし霧下がエデンの東の玄関に立った昼下がり、生憎お節はお昼寝の最中。代わって雪がいきなし霧下と相対することに。初対面、その時お互い相手に対し第一印象、何かビビビッと来るものがあったのは言うまでもない。
 何だ、この殺気、この娘矢張り只者ではないな。そう霧下がはっとすれば、一方雪の方も同様。何や、このじいさん、えげつな。しかも、しかもである。あのお雪さんが嘗てない動揺と共に『こいつをころして』と雪の内部で悶絶するが如き大絶叫を繰り返すではないか。雪自身も戦慄を覚えつつ感じずにはいられない、確かにこのじいさん、ただもんちゃうわ。
 しかし流石に両者、そんな動揺などおくびにも出さず、にこやかなるお芝居で相対峙する。
「いらっしゃいませ、お客さんでっか」
「ええ、いかにも。そのつもりじゃが」
 咳払いしながらの霧下に、
「たこうおますで、それでもよろしか」
「と言いますと、お幾ら」
「百万円」
 ここで驚いてみせる霧下。
「何と、まあ。しかしそれだけの価値が充分にあるという訳ですな。で、お相手は」
 冷静な霧下を前に珍しく緊張の雪は、ごくんと生唾を呑み込む。
「このわたくし、雪がお相手致します」
「ほう、これはこれは。あなたが噂の雪さんですか。成る程お美しい、しかもまだ少女の面影すら薄っすらと残ってらっしゃる。これは是非ともお相手願いたい」
 ほんまかいな、このじいさん、何とも胡散臭い。雪がそう感じるのも無理はない。さっきから霧下のじいさん、じっと舐めるように雪の全身、頭から足の爪先まで幾度となく眺めているのである。なんちゅう目線、ほんまこのじいさん、気色悪う。嫌悪感いっぱいの雪に対し、霧下の方はあくまでも冷静に雪を観察しているようである。それがまた不気味。
「どうか、しはりました」
「いや、何も」
 無関心を装う霧下の、けれどその視線は刺す程に痛い。
「ほな、個室へと参りましょう」
 いよいよ宇宙駅へと霧下を案内する雪。
「ここでっせ」
 宇宙駅のドアを開け、にっこりと振り返る雪に、再び殺気を覚える霧下。不味い、このままあの部屋に入っては、この娘の思う壺ではあるまいか。この雪という娘の魅力否魔力、魔性にそそのかされて一度関係を持ってしまえば、待っているのは桜毒。後の祭り、今迄の同胞たちと同じ運命を辿るしかあるまい。
 不味い、不味いと、後退りの霧下。にこっと笑い返しながら、頭を掻いて、
「済まん、済まん。折角のところ、急用を思い出しましてな。いえ、お代はちゃんとお支払いします」
 鞄の中からポーンと百万円を取り出すと雪に手渡し、後は逃げるようにエデンの東を後にする霧下である。
 何やあのじいさん、行ってもた。ぽかんと霧下の背中を見送る雪。
 迎えの車の中で霧下は、雪について思いを巡らさずにいられない。あの娘一体何者なのか、あの娘から発する殺気は何か、そしてなぜ犠牲者は我が組織の者ばかりであり、かつその死因は桜毒であらねばならぬのか。
 ふむ、謎である。ただ、ただひとつだけ言えることは、兎にも角にもあの娘、我が組織にとって危険極まりなき人物であるということ。ああ恐ろしや、では如何致そうか、このまま放置プレイで良い筈がない。という訳で、やっちまえ、という結論に達する。やっちまえ、詰まり暗殺。でもまあ組織が組織なだけに、一人の小娘の命を奪うことなど朝飯前、赤子の手を捻るようなもの。霧下は早速実行に移すべく、組織が雇う殺し屋を招集する。
 一方雪、損なこととは露知らず、嫌悪感いっぱいで流石に乗り気でなかった霧下相手の商売がなくなり、ほっと一安心。但しお雪さんの方は残念無念でならない、そんなため息が雪の内部から漏れ聴こえそうである。
 時は既に夕暮れ時なれど、霧下とのやり取りですっかり神経をすり減らした雪は、どうにも眠くてたまらない。ふわあーーっと大欠伸したかと思うや、そのまま宇宙駅にて我知らずうつらうつら、眠りへと落ちてゆく。夢の中へと迷い込む。
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