(十三・三)救世主

文字数 2,329文字

 ふっと目を覚ます雪、そこは宇宙船の中。ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……ピポピポピー……宇宙空間を絶えず飛び交うノイズが耳に響く。見渡せど船内には誰もいない、雪ひとりきりである。
 宇宙船は動いているのか止まっているのか定かでない程緩やかな速度、けれど確かに移動しており、宇宙船の窓を見下ろせば、そこには吉原のネオン。それは眩しいネオンの海が広がり、あたかも宇宙船を迎える宇宙ステーションの如し、さながら大宇宙時空間夜行列車の終着駅のようである。しかしそれにも増して、降り続く粉雪の白さよ。
 雪はその景色に見惚れ、窓に額を押し当て食い入るように見詰めるばかり。窓に額を押し当て……窓に映る雪の姿を見ると、幼女である。幼女は白いワンピースに身を包んでいる。
 宇宙船の何処からか声がして、はっと振り返る幼女。しかしその声は少年のそれではなく、お化け屋敷で耳にした救世主の声である。
「子犬に御飯を有難う」
 子犬、子犬のにいさん。泣きそうな顔でかぶりを振る幼女。
「子犬のにいさん、死んでしもたん」
 幼女の問いには答えず、声は続ける。
「済まなかったね。第三惑星では、辛い思いをさせてしまった」
 再び幼女は、泣きそうな顔でかぶりを振る。
「もうええねん、過ぎたことやし。なあ、それよっか、ほら、きれいな雪やな。ネオンの海に降る雪やで、一緒に見よ。雪、ひとりぼっちで寂しねん」
宇宙船の窓から指差す幼女。
「では、海へ行こう。一緒に行く約束だったね」
 約束……冬の海がええねん、海に降るお雪さんが見たいねん。ほな、今度のクリスマスイヴ辺りにしよか……。何で知ってはんのやろ、子犬のにいさんのこともそやし。救世主さんやから、何でも知ってはんのやろか。そやったら、にいさんのことも……。どきっ、胸が痛む幼女である。にいさんのこと聞いて見たい、けど恐い。もしにいさん死んではったら、たまらん。
「けど、にいさんとの約束やし。なあ、にいさんも、死んでしもたん」
 問う幼女の頬に、吉原のネオンの瞬きが映る。ほんま、きれいやなあ。
 幼女は吉原のネオンから目を離し顔を上げ、今度は夜空に広がる銀河を見詰める。ただ地上から見上げるしかなかった遥か遠い銀河の瞬きが、今は吸い込まれるかと思う程直ぐそばに。
「にいさんの瞳の中にいるみたいや。雪、今にいさんの涙の中にいるみたいやで。な、にいさん」
 月の初めより降り続く粉雪により、吉原のネオンの看板にも徐々に雪が積もり出す。ネオンライトの上にも雪が、ネオンの熱でしゅっと融けては積もり、融けては積もりの繰り返し。そんな吉原も今はもう真夜中、雪の為訪れる客は皆無。東京では積雪の影響で電車を始めとする交通機関が運休し、道路も閉鎖。学校は既に冬休みの為影響はないが、休み明けの見通しが立たない。大人たちは通勤困難で、仕方なく家に閉じこもっている有様。電線は勿論のこと、電力施設、通信網、基地局にも深刻な影響が出始め、水道の水は凍結の危機に曝されつつある。地上の流通は完全にストップし、食糧は勿論生活物資は不足気味。専ら空輸に頼っているものの、頼りの他県や地方もいよいよ積雪が始まり、最早東京都民の生活はパニック寸前である。
「なぜあなたは、今日まで悪を許して来たのですか」
 救世主へと問う幼女。問われた救世主は答えに困っているのか、なかなか返答がない。確かに救世主は考え込んでいるようである。なぜ我は悪を許して来たか。それは……悟らせる為である。悪では決して救われない、憎しみでは幸福にはなれないと。答える代わりに独り言のように呟く救世主。
「悪が滅すれば、必要悪なるものも最早無用の存在。悪の世即ち夜の世界もやがて潰える時、夜に咲いたる吉原の華は散り、夜に灯りしネオンの海もまた、消え去りゆくのみ」
 改めて吉原のネオンを見下ろす幼女。そのひとつひとつの明滅が、そこで暮らす人々の鼓動のようにも見え、またその輝きは人々の涙によって保たれているかの如く思えてならない。そこは宇宙ステーションというよりは、例えば山手線か何かのように、いつまでも同じ悲しみの上をぐるぐると巡り続ける夜行列車の始発駅でありまた終着駅のようでならない。
「ほなやっぱり、吉原も滅ぼしはるの」
「左様。ただ我の耳には、あの夜明けの吉原の街を腹を空かして彷徨える野良の子猫の鳴き声が、どうしても忘れ難くてならないのである」
「子猫……。にいさんに会いたい、雪も子犬のにいさんとにいさんに」
そう呟く幼女へとひとつの声がする、聞き覚えのある声が。
「ぼくたちなら、ここにいるよ」
 その声と共に、幼女の前にすーっとふたつの小さな光が灯る。
「ワン」
 鳴き声と共に光の片方は子犬となり、幼女に飛び付きぺろぺろと幼女の顔を舐める。もう片方の光も少年となり、少年はその手に何かを抱えている。
「にいさん」
 歓喜に震える幼女。少年が抱えているのは、真紅の薔薇の花束である。
 少年は、幼女へと問い掛ける。
「雪という少女の一生を通して、きみは一体何を悟ったのだろう」
 へっ、驚いて少年を見詰め返す幼女。
「何言うてんの、にいさん」
 ところが幼女が少年から花束を受け取った瞬間、見る見る幼女の姿は変貌を遂げるのである。宇宙船の窓に映りし幼女、その姿は、誰あろう、女狐女王のそれであった、とさ。

 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 宇宙船は第三惑星を出航し、吉原の街はネオンの瞬きを保ったまま、やがて雪に埋もれゆく。丸でみんな、夢幻であったというように。そして第三惑星は、永い永い冬に入るのである。
 ピポピポピー、ピポピポ……ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。後には宇宙空間を飛び交うノイズがするばかり。
(了)
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