(十・二)夢

文字数 2,265文字

 秋なれば、落ち葉が舞い、白、ピンク、オレンジ、色とりどりの可憐なる秋桜が風に揺れなどしようものを、少女の夢の始まりはいつも同じである。夜明け前、何処とも知れない場所で雪が降り頻っている。音もなく雪が降り頻るのは、世界が夢であるからか、単に雪が寡黙である故か、ただただ雪は降り頻る。夢の世界を埋めるが如く、少女の髪に肩に降り頻る。少女の心を白く染めようとするが如くに。
 少女は高校一年。男女共学名門の私立高校に入学した少女は、そこでもあっという間に男子の人気者。けれど少女は中学卒業時の誓いを胸にストイックな生活を送るのである。中学時代の不良仲間とは完全に縁を切り、服装は地味、スカートの丈は長く、髪もおかっぱ頭。大学進学を目指し、ただひたすら勉強あるのみ。
 そんな少女のクラスに、熱心なクリスチャンである百合がいる。少女と百合は直ぐに意気投合し、百合は少女を自分が通う教会へと誘う。以前からキリスト教に興味のあった少女は躊躇うことなく百合の誘いを受け、生まれて初めて教会へと足を運ぶ。これが少女のキリスト教並びに聖書との出会いである。
 それから少女は夢中で聖書を読み耽る。創世記を読み、イエスの生涯と教えを学び、神、救世主、同時に悪魔の存在を知る。最後の審判について知った時の衝撃は今も忘れ難い。
 少女は人間的に成長し、それは母親である女への接し方にも表れる。少女は女に対してやさしくなり、時に自分が学んだ聖書、神様について語るようにもなる。そんな成長する少女の姿に、女は或ることを決意する。少女の出生に関する秘密を、少女に告げることを。
 その年のクリスマスイヴ、女は少女を誘い、川のほとりに佇む。寒いけれど川の流れは穏やかで、透き通った川面には涙の雫にも似た銀河の瞬きが映っている。女は川の流れを見詰めながら、静かに追想する。もう十六年前、女がまだ五十代前半で、自分のソープランドをオープンしたばかりの頃。
 女は唇を噛み締め、少女に語り始める。
「ええか、雪。よう聴いてや」
「何、ママ」
 いつになく深刻そうでならない女が可笑しくてくすくす笑った少女も、女の真顔に直ぐに身構える。何やろ、一体どないしたん、今夜のママ。
「実はな、今からちょうど十六年前のことや」
 うん、と無言で頷く少女。
「そら寒い朝やったわ。わてはひとりでこの河原に突っ立って、ぼけっと川を見とったんや」
「うん」
「そしたらな、目の前になんか流れて来るやない。初めは人形かなんかやろ思て」
「人形」
「ん、まだ薄暗くてな、空も曇っとったさかい。けどちごた、何や思う」
「分からへん」
 かぶりを振って少女は答える。けれどその時少女は悟っている、自分のことやと。
「あんたや」
 女の答え。やっぱし。
「うん」
 表情ひとつ変えず頷く少女に、驚いたのは女の方。
「知っとったん、もしかしてあんた」
 じっと少女を見詰める女に、少女は再びかぶりを振る。
「知らんかったけど、何やそんな気して」
「そうか」
 女のため息が凍える大気中へと消えてゆく。
「ま、そういうこっちゃ」
 うん、また黙って頷く少女。
「その年は珍しゅうはようから雪が降ってな。その日も夜明け前からずっと雪が降っとったわ」
「雪」
「そや。それは眩しい白い白い綿菓子みたいな雪やった」
「そんな綿菓子、食べてみたい」
「あほ」
 笑いながら、女は少女の肩を抱き寄せる。この時ですら、少女の目に涙はない。
 やっぱし、そやったんか。実の子でないことは覚悟していたけれど、まさか、この川を流れてきたやなんて。川に捨てられた、わたしは捨て子だったいうこと。少女としては確かにショックでならない。
「そやさかい」
「へ」
「そやからな、雪いう名前にしたん、あんたの」
 雪、申し分けなさそうに天を仰ぐ女の顔が堪らない。
「うん、有難う」
「有難うて」
 女のため息が白く、銀河へと昇ってゆく。と同時に女の目からほろりと涙、厚化粧の頬っぺたを落ちてゆく。すすり泣く女の肩を、今度は少女が抱き寄せる。
「有難う」
 少女は感謝の言葉を繰り返さずにいられない。一片の雪の如く明日をも知らぬ儚き定めだったこの命を、何の因果かこの人が雪の降り頻るこんな凍り付く川の中から救い上げてくれはった。常々、いつか時が来たらあんたに本当のことを告げようと思っていたのだと、詫びるように女は言う。遂にその日が訪れたという訳である。
 あの朝から変わらず川は流れ続け、冬になると雪が降り頻る。雪が、降り頻る……。夜明け前、何処とも知れぬ場所に降り頻る雪、何処とも。はっとする少女。ということは、この川の上流の何処かから、その日誰かがわたしを捨てたいうことやろ。そやったら、この川に沿って上ってゆけば、いつかその場所に辿り着ける。少女は身震いを覚える。
 また夢を豪雪が覆う。夜明け前何処とも知れない場所に雪が降り頻る。少女はただじっと川の流れを見詰めている。その場所とは一体何処、一体誰がわたしをこの川に、なぜそして捨てたのか……。
 はっと目が覚める雪、吉原の街はもうすっかり夜の顔。ネオンライトが巨大な蛍の群れのように瞬いている、しかも色鮮やかに七色の眩しさ。このネオンライトの群れを遠くから、例えば宇宙船の窓から見下ろせば、あたかも空港とか港の如く見えるのではないか、いつもそう思う雪である。そやから宇宙船が迷うこともないやろな、ここに到着する時に。しかし宇宙船というからにはそれなりに巨大な物体であろうから、果たして無事着陸出来るものなのか、一抹の不安を覚えないでもないと、雪はひとり苦笑い。
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