(九・三)子犬と少年

文字数 1,965文字

 騒ぎが治まった今、もう遠慮する必要はない。夜の訪れを待って、弁天川へと向かう雪。子犬の食料の購入も忘れない。川沿いの通りに出ると、例によって河原にはふたつの小さな光が瞬いて、と言いたいところ、そこには明滅する無数の光、蛍が瞬いている。加えて川沿いの桜並木、今は葉桜であるが、蝉が留まって夜にも関わらずそれは元気に鳴いている。
 その中でも一際騒々しい一本の大きな木の下に、見るとふたつの小さな光が見える。もしかしてと、雪は歩を進める。ミニスカートにハイヒールではなく、今宵の雪は浴衣に下駄である。カランコロン、カランコロンとアスファルトの道に響く下駄の音に驚いたようにふたつの光は徐々に失われ、雪が木の前に来る頃には子犬と少年が立っている。「ワン」と雪に飛び付く子犬の声に、蝉たちが驚いて木から飛び立つ。
 河原に移動し、蛍火の中で早速子犬の食事、少年と雪はしゃがんで子犬を見詰める。
「ほんま暑うて敵わんな、にいさん」
「うん」
 少年は雪の浴衣になど無関心で子犬ばかり見ているから、雪としては物足りない。
「なあ、にいさん。また男の人死んでもた」
 少年は顔を上げ、泣きそうな目で雪を見詰める。
「雪、にいさんのその目が好きや」
 雪は少年の瞳を見詰め返しながら、少年の手をぎゅっと握り締める。ただそれだけで、どきどき、どきどきっ、女の喜びが体中を突き抜ける。
「ふう、気持ちええ、にいさん」
 思わずため息を零し、潤んだ女の視線でじっと少年をとらえる雪。
「にいさん、ほんま気持ちえ、どないしたらええの雪。な、にいさんも気持ち良うない」
 ところが少年は冷酷にもかぶりを振って、がっかりした雪はさっと興醒め、快感の波は途絶える。
「にいさん。その男の人な、自分のこと何て言うた思う」
 少年は小首を傾げる。
「救世主、やて」
 どきどき、どきどきっ、その時少年の動揺が鼓動の高鳴りとなって、握り締めた少年の手から伝わって来る。どないしたんやろ、にいさん。
「な、にいさん。救世主て分かる」
 少年はかぶりを振る。そら、そやろな。
「でも死なはった、その人。雪にはにいさんが救世主やから、それでええねんけど。な、にいさん」
 どきどき、どきどきっ、少年の動揺は尚も続いている。
「その人、こんなことも言わはった。雪にな、何や霊が憑いてるんやて。霊て分かる、霊が憑いてるて、どないなことか。な、にいさん」
 するとこっくりと頷く少年。あれ、ほんまかいな。
「御免、またしょうもない話してもた。そや、にいさん、な、今夜こそ夜市行かへん、おもろいで」
 ところがその時「ワン」、いつのまに食事を終えた子犬が夜空を見上げながら吠える。釣られて見上げると、そこには夏の夜空を流れる天の川が横たわる。その姿は丸で暗黒の宇宙の中にぽっかりと浮かぶ海のようである。
「にいさん、海行ったことある」
「海」
 少年は雪を見詰めながら、かぶりを振る。
「ほなら、今度一緒に行こか、海」
 けれど少年は黙って、雪の顔をじっと見詰めるばかり。
「どないしたん、にいさん。雪の顔になんか付いてる」
 尋ねる雪に、少年は嬉しそうに、
「お姉さんの瞳の中に、海が見えるよ」
「えっ、ほんま」
 にこっと頷く少年。
「けど、ほんまの海はな、もっと綺麗やで、もっと広くて大きくて。そやから、な、一緒に行こ海」
 うん、と頷く少年に、
「ほな、にいさん、約束やで」
「約束」
 うん、約束や。雪は少年の小指に自分の小指を絡ませ、指切り。いつまでもそうしていたいと願う雪である。
「ほなら、いつがええ。雪はな、にいさん、冬の海がええねん。海に降るお雪さんが見たいねん」
 しもた、お雪さん言うても通じへん。けれど黙って頷く少年。
「ほな、今度のクリスマスイヴ辺りにしよか」
 その時突如雷鳴の如くドドドド、ドーンと音が炸裂したかと思うと、夜空がぱっと光る。
「花火や、にいさん」
 毎年恒例の弁天川の花火大会である。子犬が釣られて「ワン、ワン、ワン」と、尻尾を振りながら吠える。
「子犬のにいさんて、花火好きなんやね」
 すると少年がくすくすと笑い出す。
「どないしたん、にいさんまで」
 少年は夜空を指差し、
「ほら、宇宙船だよ」
「へ、何処」
 よく見ると確かに、打ち上げ花火で目映い夜空、その片隅に幽かにひとつの光が移動するのが見えなくもない。ところがドドドド、ドーン、打ち上げ花火が炸裂し、僅かな宇宙船の瞬きをも飲み込んでしまう。
「にいさん」
 呼べど、子犬と少年は目を瞑って既に空想の中、雪も後を追って目を閉じる。花火の眩しさも轟音も忘れ、すーっと空想の中へ吸い込まれる雪。
「にいさん、今夜は宇宙船、何処」
「たった今、土星ステーションに着いたばかりだよ」
「土星、もうそんな近くまで来てはんの、宇宙船」
 雪は少年の手を握り締める、何処にも逃がさへんというように。
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