(四・三)子犬と少年

文字数 3,134文字

 ひとりに戻った雪は、風に舞う桜の花びらをぼんやりと見詰めながら物思いに耽る。桜と雪とどう違うんやろ、どっちの方が寂しいんやろかいなあ、なあ、お雪さん。どっちもはかのうて、どっちも美しゅうて、どっちも哀しい。しかもはかないも美しいも哀しいも、みんなおんなじ意味や……。和田の死の知らせを聴いて、気が滅入ってならない雪である。日暮れまでそうやって宇宙駅の窓辺に凭れていたものの、宵が訪れ吉原の街にネオンの華が咲くと、痺れを切らして雪は宇宙駅を後にする。
 目指すは弁天川、川の岸辺も今は春の芽生え。菜の花、たんぽぽ、チューリップが咲いてちょっとした花畑と化し、その中を蝶々、蜜蜂、天道虫が飛んでいる。更に川に沿った舗道には、桜並木が続いている。といっても生憎弁天川の桜はまだ蕾。
 今夜は子犬と少年に会える気がしてならないと、例によってミニスカにハイヒールの恰好で弁天川へと急ぐ雪。夜はまだまだ冷える故、コートを羽織るのも忘れない。早くにいさんたちに会いたい、会いたくてならない。三上、北が死んだのを知った時も、その夜子犬と少年は河原にいた。なぜなのか単なる偶然か、それとも何か訳でもあるのやろか、雪にはまだ見当がつかない。
 自らの客の死を知って、雪が穏やかである筈もなく内心は混乱に陥っているのであるが、お節の前では余計な不安を抱かせぬようお芝居で平静を装っているばかりである。そんな気持ちを分かってくれるのは、現在のところあの少年しかいない、そう信じる雪である。だから今夜も会いたい、会ってすべてを忘れさせて欲しい。川へと近付くに連れ雪の足は速まり、ハイヒールの音がけたたましく舗道に響く。
 そんなハイヒールの音がパタリと止まって、雪は弁天川の岸辺に立つ。今迄子犬と少年と会った河原の同地点に、今宵も小さなふたつの光が瞬いている。やっぱし思った通りや、ほっとため息を零して再び歩き出す雪、ゆっくりゆっくりとあのふたつの光を目指して。
 先月は雪道やったなあ、そうそ、雪だるまこしらえたんや。肌を刺すよな木枯らしや、指が千切れる程の雪の冷たさが、僅かひと月前のことなのに今は懐かしく思えてならない。未だ夜風はひんやりとして肌寒く、雪はコートの襟を立てる。
 雪のハイヒールの音が河原に近付くに従い、例によってふたつの光は弱まる。蝋燭の炎が暗闇へと帰る如く終にはその光が失われる時、そこに子犬と少年の姿だけが残される。
「ワン」
 子犬は威勢の良い鳴き声と共に、千切れる程尻尾を振って雪に飛び付く。嬉しくてならないとぺろぺろ雪の顔を舐めるから、また雪の厚化粧が溶ける。比べて少年は雪に気付いているのかいないのか、お澄ましで弁天川の川面に映る空の銀河を眺めている様子。
「にいさん」
 じれったさを押し殺して、雪は恐る恐る少年の前へ。黙って頷く少年。
「にいさんたち、元気してた」
 持参した食料を子犬に与え、食事を始める子犬の頭をしゃがみ込んで撫でる雪。
「ぼくたちなら、心配いらないよ。この子も凄く元気」
 少年もにこにこしゃがみ込んで、一緒に子犬の食事を眺めている。
 ところが突然、
「お姉さんの顔、いつも悲しそう」
 少年がぽつりと呟く。また行き成りそないなこと言うて、
「しゃないねん。にいさん、だって雪な」
 困惑顔でかぶりを振る雪。すると、
「知ってるよ」
 少年が告げる。
「へ、知ってるて、何知ってんの、にいさん」
 頷くように言葉を続ける少年。
「男の人、また死んだんだね」
 へっ、きょとんとして少年を見詰める雪。にいさん、何でそんなこと知ってんの。そう問おうとして止め、代わりに雪はこう尋ねる。
「にいさん、死ぬて分かんの。人が死ぬて、どないなことか、分かる」
 うん、と頷く少年。嘘やろ、ほんまかいな。
「へえ、ほんま。にいさん、偉いな」
 雪は冷やかし半分で笑う。
「ほな、雪に教えて、にいさん。人が死んだら、どないなんの」
 少年はけれど直ぐには答えない、黙って川の面に揺れる星影を緊張したふうにじっと眺めている。返事を待って雪も黙ったまま。ただ子犬だけがむしゃむしゃと無心で食事中。その後少年は雪を見詰め返しながら、
「死ぬっていうのはね」
「うん、何、にいさん」
「宇宙船に帰るってこと」
 へっ、思わず吹き出す雪。やっぱしまだ子供やな。
「おもろいこと言うな、にいさん」
 けれど少年は真顔で続ける。
「この宇宙の生きものはね、みんな銀河を旅しているんだよ。みんな自分の宇宙船を持っているんだから」
「へえ、そうなん。にいさん、物知りやな」
 雪に褒められ、はにかむ少年。
「でもにいさん、何で死なな、宇宙船には帰れへんの」
「それはね、この星と宇宙空間との間に次元のギャップがあるからなんだよ。肉体を引きずったままだと重過ぎて、宇宙船は宇宙空間を飛べないんだ」
「へーえ、なんか分かったよな、分からへんような。でも、なんか雪、お陰で元気なってきた。にいさん、雪もはよう、雪の宇宙船に帰りたい」
 夜空の星を見上げる雪、きらきらと銀河が眩しい。
「それとも、にいさんの宇宙船に一緒に乗っけてもらおかな。どない、ええやろ、にいさん」
 けれど返事はない、その代わり少年は立ち上がり銀河を見上げる。雪も立ち上がり、少年の顔をじっと見詰める。
「な、にいさん。雪、恐いねん、雪のことひとりにせんといて。雪、死んでもずっとにいさんと一緒がええ」
 思いが言葉になるに連れ、雪の気持ちは高まってゆく。気持ちの高まりは興奮へと連なり……。けれど少年は顔をまっ赤にして空を見上げるばかり。興奮を抑え切れない雪は、少年の手をぎゅっとつかまえる。どきどき、どきどきっ、互いの鼓動が行き交う。
「な、にいさん。お願い、ええやろ」
 どきどき、どきどきっ、興奮はやがて快感へと上昇する。
「にいさんの手、冷たいな、お雪さんみたいに冷たい。けど気持ちええ、気持ちええよう、にいさん。気持ち良過ぎて、どうにかなりそ」
 もどかしいばかりに少年の手を握り締める雪の呼吸は既に荒い。雪を襲う快感は、このまま雪を女の喜びへと導き到達させんとする勢いであり、雪にとってそれは初めての経験、エクスタシーである。しかも相手が少年とあって、雪は自らが性的異常者ではあるまいかと悩みを覚えさえする程である。雪は立っていられず、地にしゃがみ込む。今女として至福の中にいる雪、自らが少年を男として愛していることを自覚する。そして雪は、愛を知る。
 ところが愛のパートナーである筈の少年は、まだ少年であるが故、雪が感じている程には感じてくれていないのも事実である。
「にいさんは、なんか感じる」
「ううん、何にも」
 少年は冷めた声で冷酷にもかぶりを振るばかり。落胆する雪の中から、潮が引くように快感が去ってゆく。少年の愛を得られないと悟った心が、急激に冷めたからである。
 失意の中で少年の手を雪の手が解放するその時、少年は待っていたように銀河を仰ぎ見ながら告げる。
「ほら、お姉さん、宇宙船だよ」
 いつか食事を終えた子犬も、少年と同じ方角を見上げている。
「ほんま、にいさん」
 気のない返事で立ち上がる雪の目には、何も見えない。けれど少年はにこにこ満面に笑みをたたえている。ほんまにいさんは、宇宙船が好きなんやな。宇宙船にさえジェラシーを覚える雪である。
「何処、にいさん。雪にも見せて」
「ほら、あそこ。たった今、蟹座ステーションに着陸したばかりだよ」
「蟹座。へえ凄いな、にいさん」
 頷きながら雪は、じっと少年の目を見詰める。確かにその中に蟹座の瞬きと宇宙船の姿が映っている気がしてならない。雪は少年の瞳の中の宇宙に吸い込まれてしまいたいと願う、少年のつぶらな銀河の海の中に溺れてしまいたいと。
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