#9 個人差という理解

文字数 613文字

 私は自分以外の緘黙の人に現実で会ったことがありません。なので、ネット上で他の緘黙の人の経験や考えをたくさん目にすることができて、毎日共感したり、参考にさせてもらってます。
 ただ一方で、私自身との差異も多く見受けられます。これは、“緘黙症”という名称が原因由来ではなく症状由来だからです。

 緘黙症は“不安や緊張により、特定の状況や相手において喋れない、また、体が動かせない”という症状です。
 しかし、緘黙になった主な原因、発症する状況、緘黙の度合い、求める配慮……などなど、個人差というのを強く感じます。
 私自身、ネット上で見掛ける緘黙の説明にしっくり来ないことも多々あります。

 『緘黙雑記』で書く内容は、なるべく多くの人の症状や価値観に憂慮するつもりですが、究極“個人差”というものがあるということは念頭に置いてください。
 「#3~8 自分語り」を書いた理由もここにあります。自分のことはよく理解してますが、他の人の感じ方、考え方は正確には分からないので、あくまでも“私の場合は”という前置きが常に必要です。
 “緘黙の人にはこうしてあげるといい”という対応では、必ずしも万人には適さないのです。

 ここで一例を出しましょう。
 筆談の配慮をしてもらえると有り難い人がいます。ですが、私は筆談ができませんし、とても侮辱的で屈辱的に感じます。

 緘黙症を理解する以上に、“相手を一人の人間として理解する”という意識があるといいですね。
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