3 甘ったるい時間
文字数 3,882文字
カイルの住居は倉庫のような飾り気のない部屋だ。
大して広くもない部屋は、荷物の入った木箱がいくつも置かれていた。
寝る場所すら、木箱を並べた上にマットレスを置いただけという簡素な物だ。
ただ、人によっては「下層民にしてはかなり気を使っている」と評価するかもしれない。
壁と天井にはオレンジ色の壁紙を張り、床には敷物を敷いてある。
どれもこれもカイルが少ない給料をやりくりして捻出したお金で購入してきた物だ。
ただし、実際には、おしゃれとかそういう事は一切考えていない。
ただ骨色の壁や床や天井を一秒でも見ていたくなかった、というそれだけの理由でやった事だ。
カイルは、骨色の壁を見たくなかった。
見ているだけで気が滅入る。この世界の全てから拒まれているような、そんな気分になってくる。
これも自身がバルカムだからなのだろうか。
けれど、そんな事を恨んでも仕方ないのだとカイルは思う事にしていた。
明日は休日だ。なんだか疲れたし、ゆっくり寝て過ごそう、カイルはそう思い目を閉じた。
〇
ペチペチペチ、ペチペチペチ。
何かやわらかい物が、撫でるような力で頬を叩いていた。
カイルが目を開けると、唇が触れそうなぐらいの距離に人の顔があった。
反射的にカイルは壁際に逃げようとするが、動けない。
その人物は、カイルの上に馬乗りになり、両足で胴体を挟んでいた。逃げられない。
「おはよう、カイル」
その人物は、いつの間にか部屋に侵入していた少女だった。イタズラ成功、と物語る笑顔。
「リアム……」
カイルの幼馴染の少女だ。
「そうだよ。カイルが大好きなリアムちゃんだよー」
「……俺が寝ている間に部屋に入ってくるのはよせって言ってるだろ?」
「いつでも入っていいって言ったのはカイルじゃない。鍵もくれたし」
「限度があるだろ……」
「っていうか、私の部屋の鍵も渡してあるでしょ? 何で来ないの? 寝込みを襲うぐらいしてもいいのに……」
「それもダメだろ」
カイルは頭痛を覚えた。
襲われたいのか。バカなのか。
リアムはカイルの上にまたがったまま、。
「まあ、なんでもいいけどさ。今日は久しぶりにお互いの休日が一緒になったんだから、どっかに遊びに行こうって約束したでしょ」
「あーうん、はいはい、そうだった。けど、何かう彼が取れなくて……」
カイルは目を閉じた。
しばらく寝たふりをしていれば、リアムもあきらめてどこかに行くだろうと思った。
「カー、イー、ルー?」
「トゥルーフレア様。今日は休日でございます。それゆえ、自分は惰眠を貪らせていただきます。なにとぞお許しを……」
「ちょ、ちょっと! 私相手にそんな他人行儀な口の利き方をするのはやめてよ」
「お許しを、トゥルーフレア様」
「ふーん、いいよ。そんな意地悪するんなら、私にだって考えがあるし」
「……」
考えって何だ、とカイルが思っていると、リアムはベッドから床に降り立った。
そしていそいそと上着を脱ぎ始めた。下に来ていたシャツも脱ぎ捨てる。
カイルは思わず跳ね起きた。
「おい、待て。リアム、何をしている?」
「何って……、服を脱いでるだけだよ?」
リアムは意味深な笑みを浮かべながら、胸を張って見せる。
水玉模様の下着が胸を覆っているだけで、上半身はほとんど裸だ。
その胸はさほど大きくないが、それでも見る者に、例えようのない柔らかさと弾力を想像させる。
カイルは自分の顔が熱くなるのを感じ、思わず顔を背けた。
「なっ、なんで、上を脱いだんだ?」
「これから下も脱ぐし下着も脱ぐけど? それともカイルが自分の手で脱がせてくれる?」
言われてカイルは、短いスカートがちらちらと揺れるのを見て、下の下着も水玉模様なのだろうか、などと余計な想像までしてしまう。
リアムは少し恥ずかしそうに頬を染めながら、カイルに近寄ってくる。
ここまでされたなら、襲ってしまってもいいのではないかと、カイルは思う。
だがそれは決して許されない事だ。
「わかった、わかったよ。言う事を聞くから服を着ろ」
「えー?」
カイルが慌てて制止すると、リアムはなぜか残念そうな顔になる。
「おまえな、俺は男だぞ。そしておまえは女だ」
「それが何? カイルにだったら見られてもいいし、なんなら二人でエッチなことをしたっていいんだよ?」
これ以上、そういう言動を続けられると、カイルが理性を抑えられなくなる。
リアムの方はそれでも構わないと思っているらしいのが、なおまずかった。
「いいから服を着てくれ」
「はぁい」
リアムは渋々と言った様子で服を着直す。
「そもそも、よくないだろ? 年頃の女の子が一人で男の部屋に上がるとかさ……」
「なんで?」
「それは、例えば、なんかこう、変な噂になるとか……」
「私とカイルが噂になったら誰が困るの? 私は困らないけど、もしかしてカイルは困る?」
「いや、そういうわけじゃない。そうじゃないんだ……」
どう説明すればいいのか、わからなかった。
カイル自身はリアムの事を悪く思っていない。一緒にいて楽しいし、女の子としても魅力的だ。
しかしカイルは最下層民、そしてリアムは最上層民。遅かれ早かれ、一緒にいることができない時が来るだろう。
〇
カイルも休日用の服に着替えて、二人は下層の繁華街を歩く。
例えデートだとしても、腕章はもちろんつけなければならない。リアムもトゥルーフレアであることを示す青い腕章をつけていた。
リアムの案内でたどり着いたのは、賑やかな感じの喫茶店だった。
たぶん、昼から平然と酒を出すような店だ。
「この喫茶店にね、面白い新メニューがあるんだって」
「そうなんだ?」
カイルは特に疑いもせず、リアムと共に店の中央のテーブルに着いた。
店員が注文を取りに来ると、リアムは、新商品を要求する。
「ラブラブカップルアップルュース一つください」
「え? それが商品名なの?」
酷い名前もあったものだと思う。
カップルとアップルをかけているんだよ、イカしてるだろ、という命名者のドヤ顔を容易に想像できる。本当に酷い。
「えっと。俺も同じので……」
店員は首をかしげた。
「ラブラブカップルアップルジュースは二人で一品が基本となっております? どうしますか?」
店員は、恥ずかしい商品名をとても事務的に復唱する。
「もう。二人で一つだよ、知ってるでしょ?」
リアムは当たり前のように言うが、もちろんカイルは知らない。
「いや、俺は何もかも初耳なんだけど? これ本当に大丈夫なの?」
「ではラブラブカップルアップルジュース一つでよろしいですね。しばらくお待ちください」
店員は笑顔で店の奥に戻っていく。一瞬だけカイルの方に気の毒そうな視線を向けてきたようだったが、カイルの気のせいだろうか?
しばらくしてラブラブなんとかが運ばれてくる。
普通の五倍ぐらいの量の液体が入った大きなグラスだ。飲み終わるまでにはかなり時間がかかるだろう。そして二本のストローが刺さっている。ストローは途中でくるくると渦を巻いて絡み合っている。
リアムはすまし顔で店員に料金を払っているが、どうしてそんな平然としていられるのか、カイルには理解できなかった。
「……えっと、これ、どうするんだ?」
カイルが聞くとリアムは首をかしげる。
「飲むんじゃないかな? 他にする事ないでしょ?」
「いや、俺が聞きたいのは、そうではなくて……」
カイルは自分の心に浮かんだ様々な思いを言葉にしようと頑張ったが、結局、諦めた。
「っていうか、おまえ恥ずかしくないのかよ」
「何がぁ? 二人でジュース飲むだけだしぃ? 私は? 全然? 恥ずかしくなんかないしぃ?」
リアムはそう言うが、テンションが微妙におかしい。顔も赤く染まっている。どう見ても恥ずかしがっている。
平然としているように見えたのは演技なのか。
しかしこうなると根競べだ。負けるわけにはいかない。
「そうか。リアムが恥ずかしくないと言うなら、俺も異存はない。やろうじゃないか」
カイルは真顔で言う。
第三者から見ても真顔に見えているか自信はなかったが。
「じゃあ、飲もっか」
「ああ……」
二人は顔を前に出してストローを咥えた。
おでことおでこがぶつかる。リアムのさらさらした髪の感触と体温を感じる。
ぴくぴくとストローが小刻みに動く。リアムの口元の動きが伝わってくる。
もう全てが恥ずかしかった。
ジュース自体はとてもおいしい。しかし、こんな状況で味を楽しめるほど、カイルには余裕がなかった。
周囲の視線が集まっているのを感じる。ひそひそと話す声も聞こえてくる。
「何あれ?」「マジでやってんの?」「知らないのかよ、最近話題の見世物だぜ」「え? 見世物なの?」「あの二人、バルカムとトゥルーフレアだよね」「珍しいよな」「親の階級が近かったなら、ありえるでしょ」「いいぞー」「いけー、やっちまえー」
煽っているのは、あろうことか青い腕章をつけた一団だった。なんでトゥルーフレア階級が応援に回っているのか。いやそもそも何を応援しているのか。
だがこうなっては退くに引けない。
カイルとリアムは顔を真っ赤にして味すらわからなくなりながらもジュースを飲み干すと、拍手喝采を浴びながら全速力でそこから逃げ出した。
大して広くもない部屋は、荷物の入った木箱がいくつも置かれていた。
寝る場所すら、木箱を並べた上にマットレスを置いただけという簡素な物だ。
ただ、人によっては「下層民にしてはかなり気を使っている」と評価するかもしれない。
壁と天井にはオレンジ色の壁紙を張り、床には敷物を敷いてある。
どれもこれもカイルが少ない給料をやりくりして捻出したお金で購入してきた物だ。
ただし、実際には、おしゃれとかそういう事は一切考えていない。
ただ骨色の壁や床や天井を一秒でも見ていたくなかった、というそれだけの理由でやった事だ。
カイルは、骨色の壁を見たくなかった。
見ているだけで気が滅入る。この世界の全てから拒まれているような、そんな気分になってくる。
これも自身がバルカムだからなのだろうか。
けれど、そんな事を恨んでも仕方ないのだとカイルは思う事にしていた。
明日は休日だ。なんだか疲れたし、ゆっくり寝て過ごそう、カイルはそう思い目を閉じた。
〇
ペチペチペチ、ペチペチペチ。
何かやわらかい物が、撫でるような力で頬を叩いていた。
カイルが目を開けると、唇が触れそうなぐらいの距離に人の顔があった。
反射的にカイルは壁際に逃げようとするが、動けない。
その人物は、カイルの上に馬乗りになり、両足で胴体を挟んでいた。逃げられない。
「おはよう、カイル」
その人物は、いつの間にか部屋に侵入していた少女だった。イタズラ成功、と物語る笑顔。
「リアム……」
カイルの幼馴染の少女だ。
「そうだよ。カイルが大好きなリアムちゃんだよー」
「……俺が寝ている間に部屋に入ってくるのはよせって言ってるだろ?」
「いつでも入っていいって言ったのはカイルじゃない。鍵もくれたし」
「限度があるだろ……」
「っていうか、私の部屋の鍵も渡してあるでしょ? 何で来ないの? 寝込みを襲うぐらいしてもいいのに……」
「それもダメだろ」
カイルは頭痛を覚えた。
襲われたいのか。バカなのか。
リアムはカイルの上にまたがったまま、。
「まあ、なんでもいいけどさ。今日は久しぶりにお互いの休日が一緒になったんだから、どっかに遊びに行こうって約束したでしょ」
「あーうん、はいはい、そうだった。けど、何かう彼が取れなくて……」
カイルは目を閉じた。
しばらく寝たふりをしていれば、リアムもあきらめてどこかに行くだろうと思った。
「カー、イー、ルー?」
「トゥルーフレア様。今日は休日でございます。それゆえ、自分は惰眠を貪らせていただきます。なにとぞお許しを……」
「ちょ、ちょっと! 私相手にそんな他人行儀な口の利き方をするのはやめてよ」
「お許しを、トゥルーフレア様」
「ふーん、いいよ。そんな意地悪するんなら、私にだって考えがあるし」
「……」
考えって何だ、とカイルが思っていると、リアムはベッドから床に降り立った。
そしていそいそと上着を脱ぎ始めた。下に来ていたシャツも脱ぎ捨てる。
カイルは思わず跳ね起きた。
「おい、待て。リアム、何をしている?」
「何って……、服を脱いでるだけだよ?」
リアムは意味深な笑みを浮かべながら、胸を張って見せる。
水玉模様の下着が胸を覆っているだけで、上半身はほとんど裸だ。
その胸はさほど大きくないが、それでも見る者に、例えようのない柔らかさと弾力を想像させる。
カイルは自分の顔が熱くなるのを感じ、思わず顔を背けた。
「なっ、なんで、上を脱いだんだ?」
「これから下も脱ぐし下着も脱ぐけど? それともカイルが自分の手で脱がせてくれる?」
言われてカイルは、短いスカートがちらちらと揺れるのを見て、下の下着も水玉模様なのだろうか、などと余計な想像までしてしまう。
リアムは少し恥ずかしそうに頬を染めながら、カイルに近寄ってくる。
ここまでされたなら、襲ってしまってもいいのではないかと、カイルは思う。
だがそれは決して許されない事だ。
「わかった、わかったよ。言う事を聞くから服を着ろ」
「えー?」
カイルが慌てて制止すると、リアムはなぜか残念そうな顔になる。
「おまえな、俺は男だぞ。そしておまえは女だ」
「それが何? カイルにだったら見られてもいいし、なんなら二人でエッチなことをしたっていいんだよ?」
これ以上、そういう言動を続けられると、カイルが理性を抑えられなくなる。
リアムの方はそれでも構わないと思っているらしいのが、なおまずかった。
「いいから服を着てくれ」
「はぁい」
リアムは渋々と言った様子で服を着直す。
「そもそも、よくないだろ? 年頃の女の子が一人で男の部屋に上がるとかさ……」
「なんで?」
「それは、例えば、なんかこう、変な噂になるとか……」
「私とカイルが噂になったら誰が困るの? 私は困らないけど、もしかしてカイルは困る?」
「いや、そういうわけじゃない。そうじゃないんだ……」
どう説明すればいいのか、わからなかった。
カイル自身はリアムの事を悪く思っていない。一緒にいて楽しいし、女の子としても魅力的だ。
しかしカイルは最下層民、そしてリアムは最上層民。遅かれ早かれ、一緒にいることができない時が来るだろう。
〇
カイルも休日用の服に着替えて、二人は下層の繁華街を歩く。
例えデートだとしても、腕章はもちろんつけなければならない。リアムもトゥルーフレアであることを示す青い腕章をつけていた。
リアムの案内でたどり着いたのは、賑やかな感じの喫茶店だった。
たぶん、昼から平然と酒を出すような店だ。
「この喫茶店にね、面白い新メニューがあるんだって」
「そうなんだ?」
カイルは特に疑いもせず、リアムと共に店の中央のテーブルに着いた。
店員が注文を取りに来ると、リアムは、新商品を要求する。
「ラブラブカップルアップルュース一つください」
「え? それが商品名なの?」
酷い名前もあったものだと思う。
カップルとアップルをかけているんだよ、イカしてるだろ、という命名者のドヤ顔を容易に想像できる。本当に酷い。
「えっと。俺も同じので……」
店員は首をかしげた。
「ラブラブカップルアップルジュースは二人で一品が基本となっております? どうしますか?」
店員は、恥ずかしい商品名をとても事務的に復唱する。
「もう。二人で一つだよ、知ってるでしょ?」
リアムは当たり前のように言うが、もちろんカイルは知らない。
「いや、俺は何もかも初耳なんだけど? これ本当に大丈夫なの?」
「ではラブラブカップルアップルジュース一つでよろしいですね。しばらくお待ちください」
店員は笑顔で店の奥に戻っていく。一瞬だけカイルの方に気の毒そうな視線を向けてきたようだったが、カイルの気のせいだろうか?
しばらくしてラブラブなんとかが運ばれてくる。
普通の五倍ぐらいの量の液体が入った大きなグラスだ。飲み終わるまでにはかなり時間がかかるだろう。そして二本のストローが刺さっている。ストローは途中でくるくると渦を巻いて絡み合っている。
リアムはすまし顔で店員に料金を払っているが、どうしてそんな平然としていられるのか、カイルには理解できなかった。
「……えっと、これ、どうするんだ?」
カイルが聞くとリアムは首をかしげる。
「飲むんじゃないかな? 他にする事ないでしょ?」
「いや、俺が聞きたいのは、そうではなくて……」
カイルは自分の心に浮かんだ様々な思いを言葉にしようと頑張ったが、結局、諦めた。
「っていうか、おまえ恥ずかしくないのかよ」
「何がぁ? 二人でジュース飲むだけだしぃ? 私は? 全然? 恥ずかしくなんかないしぃ?」
リアムはそう言うが、テンションが微妙におかしい。顔も赤く染まっている。どう見ても恥ずかしがっている。
平然としているように見えたのは演技なのか。
しかしこうなると根競べだ。負けるわけにはいかない。
「そうか。リアムが恥ずかしくないと言うなら、俺も異存はない。やろうじゃないか」
カイルは真顔で言う。
第三者から見ても真顔に見えているか自信はなかったが。
「じゃあ、飲もっか」
「ああ……」
二人は顔を前に出してストローを咥えた。
おでことおでこがぶつかる。リアムのさらさらした髪の感触と体温を感じる。
ぴくぴくとストローが小刻みに動く。リアムの口元の動きが伝わってくる。
もう全てが恥ずかしかった。
ジュース自体はとてもおいしい。しかし、こんな状況で味を楽しめるほど、カイルには余裕がなかった。
周囲の視線が集まっているのを感じる。ひそひそと話す声も聞こえてくる。
「何あれ?」「マジでやってんの?」「知らないのかよ、最近話題の見世物だぜ」「え? 見世物なの?」「あの二人、バルカムとトゥルーフレアだよね」「珍しいよな」「親の階級が近かったなら、ありえるでしょ」「いいぞー」「いけー、やっちまえー」
煽っているのは、あろうことか青い腕章をつけた一団だった。なんでトゥルーフレア階級が応援に回っているのか。いやそもそも何を応援しているのか。
だがこうなっては退くに引けない。
カイルとリアムは顔を真っ赤にして味すらわからなくなりながらもジュースを飲み干すと、拍手喝采を浴びながら全速力でそこから逃げ出した。