1 塔の上と下
文字数 3,234文字
広大な草原の一角に塔がある。
高さ四千メートル、内部人口千三百万人。
その塔の外見は巨大な三角フラスコに似ているという。
タワー・オブ・プリミゲニウス。それがこの塔の正式名称だ。
けれど、それは名前というより、公式書類の片隅に書かれている暗号のような文字列でしかない。
そこに住む者は大抵の場合、ただ「塔」とだけ呼んでいる。
塔は人類最後の楽園だ。それ以外の場所にいた人類は、みな滅びた。
塔はどのような敵からも人類を守る無敵の要塞でもある。
この塔は「破壊不能オブジェクト」だ。
絶対に、壊すことも、傷つけることもできない……とされている。
〇
アイボリーホワイトの通路がどこまでも続く。
照明は整備が行き届いていないのか薄暗く、たまに明滅して目に痛い。
カイルは、目を伏せて床だけを見て歩いた。
塔内は石灰岩か何かでできていて、床も壁も天井も白い。
この下層は、壁を飾るような装飾もなく、白一色だ。
まるで人骨のような気持ち悪い白さだと、カイルは常々思っていた。
長い通路を歩いた先は二十メートル四方の部屋になっていて、正面に一つ、左右に三つずつ、両開きの扉があった。
エレベーターの扉だ。
特に正面の扉は特別で、隔離階層を超えるための長距離かつ高速のエレベーターになっている。
カイルはその階層越え用のエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの内壁は、防犯のためか鏡張りになっている。
黒い髪、千切れたような左耳、低層労働者用のみすぼらしい服、白い分銅がいくつかぶら下がったような首飾り。
そして左腕の模様も何もない白い腕章。
鏡に映ったそんな自分の姿を見てカイルはため息をついた。
白い腕章は、カイルの身分が最下層のバルカムであることを表している。この腕章をつけずに階層を超える事は、禁じられていた。
エレベーターは数分ほどの時間をかけて、三百階まで上昇する。
降りた先は下と同じ構造のエレベーターホール。
ただしさっきの部屋とは違って白い壁や床に青い線が引かれている。ここは最上層民トゥルーフレア階級の場所である事を示す色だ。
用もないのに間違えて来てしまった他の階級民は、ここで気づいて引き返さなければいけない。
ほかのバルカムなら、居心地の悪さを感じたかもしれないが、カイルは少しうきうきしていた。
幼馴染に会いに行く時によく通る場所だからかもしれない。
今日の目的は、違うが。
次のエレベーターに乗り換える。
先ほどより速度の遅いエレベーターは、ゆるゆると上昇していく。
十階ほど上がった所で、二人組が残りんできた。
その二人は、腕に腕章をつけていない。トゥルーフレア階級なのだろう。白の腕章をつけたカイルを見て、眉を顰める。
「おい、最下層民がエレベーターに乗ってるぞ」
「階段使えばいいのにな」
「同じ空間にいたらバルカムがうつりそうだ。やだやだ」
ヘドロのような嫌味を連発され、カイルは気持ちがくじけそうになるが、聞こえないふりをした。
反応したら負けだ。ここでどんな頭のおかしい言いがかりをつけられたとしても、裁判になればトゥルーフレアの証言だけが採用される。
というか、裁判などない。
あるとしても、それが行われるのはカイルが死んだずっと後になるだろう。
法はバルカムを守ってくれない。
そもそも彼らは大声で独り言を言っているだけで、こちらに話しかけてすらいない。不快だが耐えるしかなかった。
二人はさらに声を大きくする。
「しかし、バルカムってやつは、いつ見ても酷い服を着てるな。ぼろきれかな」
「腕章なんかなくても見分けがつくよな」
「これだけ言ってるのに、何も言い返さないのはなんなんだろうな」
「耳が悪いんじゃないの? もっと大きな声で言ってやろうぜ。ここはおまえみたいなクズが来ていい場所じゃないってな」
二人は思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てる。
カイルは、抱えている荷物を、わざと持ち直した。
ここには用事があるから来ているんだとアピールするために。
二十階分ほど上がったところでやっとエレベーターを降りる。
長い廊下を歩き、何度も角を曲がり、ようやく探していた扉にたどり着いた。
扉の脇の呼び鈴を押すと、ちりんちりんと上品な音色が響く。
十秒ほど待っていると、扉が開いて少女が出て来た。
少女の年齢はカイルより少し下ぐらい。背はやや小さめだが胸だけはかなり大きい。生地の薄そうなワンピースを着ていて、頭の後ろでは栗色の髪の毛が何本もの三つ編みになって揺れている。
少女は、カイルを見たとたん、表情が固まった。カイルの姿を上から下まで一瞥した後、警戒するように一歩後ろに下がる。
同時に右手を背中の後ろに隠した。
「ええと……何か、用かしら?」
「届け物です」
「部屋まで届けに来るなんてめずらしいわね……何?」
「どうぞ」
カイルは荷物を差し出す。
少女はそれを左手だけで受け取り、胸に押し付けながら器用に包み紙を剥がす。
中からはビクス・ドールが出て来た。
「ああ、これ……なるほど、そういう事ね……」
少女は納得したように頷くと背中に隠していた右手を前に出す。
その手には炎を凝縮したような揺らめく光の玉が握られていた。カイルには、攻撃用の魔術に見えた。
「……あの、それは?」
カイルが背を引きながら何か言おうとすると、少女ははっとなって、手をパタパタと降る。
「ああ、ごめんなさい。これは……、えっと、そう。何か意味がある物じゃないのよ」
光の玉はフヨフヨと空中を漂っていき、煙のように消えた。
カイルは内心、安どのため息をついた。
隠していた攻撃手段を見せたが、それを使う意思はないらしい。
なら少なくともカイルの身の安全は保障されたのだろう。
そもそも、カイルがどうして少女に荷物を届ける事になったのか。
事の起こりは単純だった。
この少女宛ての荷物を、アイアンテック階級(下から二番目)の人間が勝手に開封してしまったのだ。
その人間がよほど愚かだったとしても、開封する前に宛名ぐらい確かめただろう。自分の物でないとわかっていて開けた。最初から盗むつもりだったのだ。
しかし、開封してしまってから、中身が思った以上に高価そうで、品種的に横流しが難しく、しかも最上層民の持ち物だと気づいた。
怖気づいたその盗人は、近くにいた自分より階級の低い人間(つまりカイル)にその持ち物を押し付けた。
多分、今頃下層では、カイルが勝手に封を破ってしまった、という事にされているだろう。
もはやカイルにできる事は、どうにか荷物を本来の持ち主に届けて、罰が下されないように祈るだけだった。
少女はとりあえずカイルに不満をぶつけてくる様子はない。なら大丈夫だろう。
「問題がないようでしたら、俺は帰りますので」
「ああ、ちょっと待ってて。渡す物があるから」
少女は言って室内に引っ込む。一分ほどで戻ってきた。
何かを握った右手を差し出す。カイルがよくわからないまま、それを受けるように両手を差し出すと少女は手を開く。
銀貨が五枚、渡された。
「受け取りなさい」
「そういうわけには……」
「ゴチャゴチャ言わないの。これが正規のルートから届かなかったって事は、何があったのかは大体予想がついているわ。それでもあなたはこれを届けてくれた。本来やるべき事もあったんじゃないの?」
「しかし……」
「私のために働いてくれた人に、働いて損をしたなんて思わせたら、上位者失格でしょう。素直に受け取りなさい」
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方よ。今日は本当にありがとうね。帰っていいわよ」
少女は輝くような笑みを浮かべながら、扉を閉めた。
高さ四千メートル、内部人口千三百万人。
その塔の外見は巨大な三角フラスコに似ているという。
タワー・オブ・プリミゲニウス。それがこの塔の正式名称だ。
けれど、それは名前というより、公式書類の片隅に書かれている暗号のような文字列でしかない。
そこに住む者は大抵の場合、ただ「塔」とだけ呼んでいる。
塔は人類最後の楽園だ。それ以外の場所にいた人類は、みな滅びた。
塔はどのような敵からも人類を守る無敵の要塞でもある。
この塔は「破壊不能オブジェクト」だ。
絶対に、壊すことも、傷つけることもできない……とされている。
〇
アイボリーホワイトの通路がどこまでも続く。
照明は整備が行き届いていないのか薄暗く、たまに明滅して目に痛い。
カイルは、目を伏せて床だけを見て歩いた。
塔内は石灰岩か何かでできていて、床も壁も天井も白い。
この下層は、壁を飾るような装飾もなく、白一色だ。
まるで人骨のような気持ち悪い白さだと、カイルは常々思っていた。
長い通路を歩いた先は二十メートル四方の部屋になっていて、正面に一つ、左右に三つずつ、両開きの扉があった。
エレベーターの扉だ。
特に正面の扉は特別で、隔離階層を超えるための長距離かつ高速のエレベーターになっている。
カイルはその階層越え用のエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの内壁は、防犯のためか鏡張りになっている。
黒い髪、千切れたような左耳、低層労働者用のみすぼらしい服、白い分銅がいくつかぶら下がったような首飾り。
そして左腕の模様も何もない白い腕章。
鏡に映ったそんな自分の姿を見てカイルはため息をついた。
白い腕章は、カイルの身分が最下層のバルカムであることを表している。この腕章をつけずに階層を超える事は、禁じられていた。
エレベーターは数分ほどの時間をかけて、三百階まで上昇する。
降りた先は下と同じ構造のエレベーターホール。
ただしさっきの部屋とは違って白い壁や床に青い線が引かれている。ここは最上層民トゥルーフレア階級の場所である事を示す色だ。
用もないのに間違えて来てしまった他の階級民は、ここで気づいて引き返さなければいけない。
ほかのバルカムなら、居心地の悪さを感じたかもしれないが、カイルは少しうきうきしていた。
幼馴染に会いに行く時によく通る場所だからかもしれない。
今日の目的は、違うが。
次のエレベーターに乗り換える。
先ほどより速度の遅いエレベーターは、ゆるゆると上昇していく。
十階ほど上がった所で、二人組が残りんできた。
その二人は、腕に腕章をつけていない。トゥルーフレア階級なのだろう。白の腕章をつけたカイルを見て、眉を顰める。
「おい、最下層民がエレベーターに乗ってるぞ」
「階段使えばいいのにな」
「同じ空間にいたらバルカムがうつりそうだ。やだやだ」
ヘドロのような嫌味を連発され、カイルは気持ちがくじけそうになるが、聞こえないふりをした。
反応したら負けだ。ここでどんな頭のおかしい言いがかりをつけられたとしても、裁判になればトゥルーフレアの証言だけが採用される。
というか、裁判などない。
あるとしても、それが行われるのはカイルが死んだずっと後になるだろう。
法はバルカムを守ってくれない。
そもそも彼らは大声で独り言を言っているだけで、こちらに話しかけてすらいない。不快だが耐えるしかなかった。
二人はさらに声を大きくする。
「しかし、バルカムってやつは、いつ見ても酷い服を着てるな。ぼろきれかな」
「腕章なんかなくても見分けがつくよな」
「これだけ言ってるのに、何も言い返さないのはなんなんだろうな」
「耳が悪いんじゃないの? もっと大きな声で言ってやろうぜ。ここはおまえみたいなクズが来ていい場所じゃないってな」
二人は思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てる。
カイルは、抱えている荷物を、わざと持ち直した。
ここには用事があるから来ているんだとアピールするために。
二十階分ほど上がったところでやっとエレベーターを降りる。
長い廊下を歩き、何度も角を曲がり、ようやく探していた扉にたどり着いた。
扉の脇の呼び鈴を押すと、ちりんちりんと上品な音色が響く。
十秒ほど待っていると、扉が開いて少女が出て来た。
少女の年齢はカイルより少し下ぐらい。背はやや小さめだが胸だけはかなり大きい。生地の薄そうなワンピースを着ていて、頭の後ろでは栗色の髪の毛が何本もの三つ編みになって揺れている。
少女は、カイルを見たとたん、表情が固まった。カイルの姿を上から下まで一瞥した後、警戒するように一歩後ろに下がる。
同時に右手を背中の後ろに隠した。
「ええと……何か、用かしら?」
「届け物です」
「部屋まで届けに来るなんてめずらしいわね……何?」
「どうぞ」
カイルは荷物を差し出す。
少女はそれを左手だけで受け取り、胸に押し付けながら器用に包み紙を剥がす。
中からはビクス・ドールが出て来た。
「ああ、これ……なるほど、そういう事ね……」
少女は納得したように頷くと背中に隠していた右手を前に出す。
その手には炎を凝縮したような揺らめく光の玉が握られていた。カイルには、攻撃用の魔術に見えた。
「……あの、それは?」
カイルが背を引きながら何か言おうとすると、少女ははっとなって、手をパタパタと降る。
「ああ、ごめんなさい。これは……、えっと、そう。何か意味がある物じゃないのよ」
光の玉はフヨフヨと空中を漂っていき、煙のように消えた。
カイルは内心、安どのため息をついた。
隠していた攻撃手段を見せたが、それを使う意思はないらしい。
なら少なくともカイルの身の安全は保障されたのだろう。
そもそも、カイルがどうして少女に荷物を届ける事になったのか。
事の起こりは単純だった。
この少女宛ての荷物を、アイアンテック階級(下から二番目)の人間が勝手に開封してしまったのだ。
その人間がよほど愚かだったとしても、開封する前に宛名ぐらい確かめただろう。自分の物でないとわかっていて開けた。最初から盗むつもりだったのだ。
しかし、開封してしまってから、中身が思った以上に高価そうで、品種的に横流しが難しく、しかも最上層民の持ち物だと気づいた。
怖気づいたその盗人は、近くにいた自分より階級の低い人間(つまりカイル)にその持ち物を押し付けた。
多分、今頃下層では、カイルが勝手に封を破ってしまった、という事にされているだろう。
もはやカイルにできる事は、どうにか荷物を本来の持ち主に届けて、罰が下されないように祈るだけだった。
少女はとりあえずカイルに不満をぶつけてくる様子はない。なら大丈夫だろう。
「問題がないようでしたら、俺は帰りますので」
「ああ、ちょっと待ってて。渡す物があるから」
少女は言って室内に引っ込む。一分ほどで戻ってきた。
何かを握った右手を差し出す。カイルがよくわからないまま、それを受けるように両手を差し出すと少女は手を開く。
銀貨が五枚、渡された。
「受け取りなさい」
「そういうわけには……」
「ゴチャゴチャ言わないの。これが正規のルートから届かなかったって事は、何があったのかは大体予想がついているわ。それでもあなたはこれを届けてくれた。本来やるべき事もあったんじゃないの?」
「しかし……」
「私のために働いてくれた人に、働いて損をしたなんて思わせたら、上位者失格でしょう。素直に受け取りなさい」
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方よ。今日は本当にありがとうね。帰っていいわよ」
少女は輝くような笑みを浮かべながら、扉を閉めた。