第9話
文字数 1,796文字
あれからほどなくして、堀木は破産した。
妻、娘と過ごした思い出の家を失い、近くのマンションへとその住居を移した。
全ての手続きが片付き、生活も落ち着いてきた頃、ただ一つ残った気がかりはたかひろのことだった。
まずは、彼にお金を返さなければならないし、そして何よりも、もう一度話がしたい、自分の気持ちを打ち明けたいと思った。
堀木は日曜日の昼下がり、たかひろをコーヒーショップへと呼ぶことにした。
「で?なんなんですか?話って」
たかひろは約束より10分遅れて現れ、気だるそうに堀木と向かい合わせに座った。
「俺、最近やっと債務が片付いてさ、ようやく色々と落ち着いてきたんだ」
「自己破産、したんですか」
たかひろはブラックコーヒーをすすりながら、呟くように言った。
「そう。お前にも迷惑かけたし、あの時の金を返そうと思って」
堀木は札束の入った封筒を差し出した。
中には150万円入っていた。
「ふうん。そう言うならまあ、有難く受け取っておきますか」
たかひろは封筒の中から札束を一気に抜きとると、無雑作に財布の中へ突っ込んだ。
「話はそれだけですね?
僕、忙しいんで帰りますよ」
「ちょっと待ってくれ、俺の話を聞いてくれ」
立ち上がって帰ろうとするたかひろの手首を、堀木は思わず強く掴んだ。
その時、一瞬だけ、たかひろの瞳が凍りついたのを、堀木は見逃さなかった。
あの日の晩の出来事がフラッシュバックのごとく瞬時にたかひろの脳裏に浮かんで消える。
後ろ手に押さえつけられた時の手首の痛み、そのまま挿入された時のぬるりとした異物感、堀木の荒い息遣い。
自分の情けない矯声が頭から離れない。
「たかひろ…俺のことが怖いか?」
堀木は手をそっと離し、なだめるように静かに言った。
「別に…貴重な体験ができたと思っただけです。
レイプされる女性の気持ちが知れて…」
下を向いたまま、そう呟いたたかひろの声はかすかに震えていた。
堀木は彼を深く傷つけたことを改めて認識し、罪の意識に胸が痛んだ。
「乱暴にして済まなかった。
でも、お前を愛しているというのは本当だ。
お前の気の済むまでどんな償いでもしたいと思う」
黙って話を聞いている時のたかひろは、本当に女性だと錯覚してしまいそうな程、可愛らしいと思った。
黒く艶やかな髪、長いまつ毛は眩しくて、中性的な顔立ち、ちょっぴり厚めの唇、白く滑らかな肌に吸い寄せられそうになってしまう。
「お前の素直な気持ちを、聞かせてくれるか?」
たかひろは俯いたまま、じっと黙っていた。
堀木はコーヒーには少しも手をつけぬまま、辛抱強くたかひろが口を開くのを待った。
コーヒーの湯気が、少しずつ勢いを失っていく。
「…どうして」
たかひろは重い口を開き、消え入りそうな声で呟いた。
「どうして僕なんですか?
久しぶりに会えたと思ったのに…こんなことになるなんて…。
お金を借りに来た時も…僕の部屋に泊まった時も…。
これ以上、僕をがっかりさせないでください」
堀木はたかひろの手にそっと触れた。
「そうか…。
お前の気持ちも考えず、勝手な真似して嫌な思いさせてごめんな。
今回のことで俺はお前に迷惑をかけたのに、たくさん助けられた。お前の優しさがつくづく身にしみたよ」
「全然…僕はお金を貸しただけです。
友人としての最低限のことをしたにすぎません。
そのお金も堀木さんに投げつけちゃったし…」
「そんなこと気にすんなって!」
堀木は笑って言った。
たかひろの硬い表情が少し和らいだように感じ、堀木は内心ほっとした。
もう二度と、たかひろを傷つけたくないし、他の誰よりも大切にしたいと思った。
二人は煙草に火をつけて、一緒に吸い始めた。
「コーヒー、すっかり冷めちゃいましたね」
「ああ、そうだな」
ともに深く息を吸い、ゆっくりと煙を吐き出す。
二人はしばらくの間沈黙していたが、ニ本目の煙草に火をつけると、たかひろはゆっくりと語り始めた。
そこで堀木が耳にしたことは、彼には女性の恋人がおり、男同士のそういうことはわからない、これまで通りの友人でいたい、ということだった。
それはそれで、仕方ない、多くを求める程、多くのものを失ってしまうのだから。
いずれにしても、堀木にとってたかひろはかけがえのない友であり、たかひろにとってもそうであればいいなと、思うのだった。
「ねえ、ところで堀木さん、これからどこか、二人きりになれるところに行きましょうよ」
たかひろは煙草をもみ消しながら微笑んだ。