第3話 古いLPレコード(三)
文字数 1,554文字
あれは、どういう時代だったのでしょう。
LPレコードというものがまだ世界に存在していた、その尻尾の最後のひと振りのような時代だったのかもしれません。
わたし自身、あの世界の物語の詰まったレコード以外に、LPレコードというものを聴いた記憶がないのです。
しかも不思議なことに――
わたしは、わたし以外に、あのレコードを聴いたという人に会ったこともないのです。
家に現物が残っていなければ、自分の幻想ではないかと疑ってしまうかもしれません。
そんな疑いまで持ってしまうほど、本当に夢のような贅沢極まりないレコードだったのです。
わたしがあのレコードたちの
ある日、何かの理由で、自分の部屋の押入れをがさごそやっていたわたしは、あの懐かしい幼稚園時代の親友――いや、恋人と再会しました。
その時の自分の年齢ははっきりしないくせに、二階にあったわたしの部屋からお隣の庭のクヌギの木が見え、そこに夕方の穏やかな光が流れていたことは、なぜかはっきり覚えています。
あの骨董品のようなレコード・プレーヤーは、とっくの昔に処分されていました。
いや、そもそもLPレコードなんていうものが、世界から消えていました。完全に消えてはいないとしても、それはもはや一部の愛好家のコレクションや、博物館の陳列品としてひっそりと昔の夢を見ている存在にすぎませんでした。
ずいぶんほったらかしにしてしまっていた恋人を、わたしは思わず手に取りました。黄緑色のレコード・ジャケットは、当然ながらだいぶくたびれて変色して、ところどころ破れたりもしていました。
そんなレコードを、静かに撫でるように、矯 めつ眇 めつ眺めていたわたしは、朗読者の名前にふと眼がいきました。そして思わず、あっと声に出すほど驚いたのです。
わたしは他のレコードも引っ張り出してみました。
それらは、レコード・プレーヤーが処分される時、もう二度と聴くことはできないものだからと親にたしなめられても、「これだけは絶対に捨てないで!」と必死に守った、お気に入り中のお気に入りだったのです。
でも、それは「小さい頃大好きだったから」という理由だけで捨てられなかったのであり、その瞬間まで、わたしはレコードに朗読を吹き込んでいた人が
渥 美 清 、北 林 谷 栄 、熊倉 一 雄 、米倉 斉 加年 ……
黄緑色のレコード・ジャケットに印刷されていた朗読者の名前は、信じられないほどの錚々たる顔ぶれだったのです。
――その時でした。
わたしの身体の中で、〈声〉が鳴り響いたのは。
「うさぎどん きつねどん」。タイトルを聴いただけでおかしいのは、渥美清さんの声でした。
「長靴をはいた猫」。智慧も実行力もある猫と、頼りない三番目の息子の胸躍る冒険譚を語っていたのは、北林谷栄さんでした。
「三匹のやぎとトロール」。勇敢なやぎになり切って、かっこいい歌まで披露してくれていたのは熊倉一雄さん。
「梨売りと仙人」。子供心になんとも不思議で魅力的だった物語は、なんと中国の古典『聊斎志異』から採られていました。幼いわたしを初めて志怪小説の世界に誘 ってくれたのは、米倉斉加年さんの声だったわけです。
レコード・プレーヤーなんて要りません。幼稚園の頃、何度も何度も、それこそレコードが磨り切れるほど繰り返し聴いた〈声〉が、あの時とまったく同じ色と形をもって、わたしの中に一気に蘇ってきたのでした。
次に、これらの物語がどう語られたのか、わたしの耳がどう聴いたのかについて書いてみたいと思います。
今猶わたしの身体に残っている〈声〉に、もう一度耳を澄ませて――
LPレコードというものがまだ世界に存在していた、その尻尾の最後のひと振りのような時代だったのかもしれません。
わたし自身、あの世界の物語の詰まったレコード以外に、LPレコードというものを聴いた記憶がないのです。
しかも不思議なことに――
わたしは、わたし以外に、あのレコードを聴いたという人に会ったこともないのです。
家に現物が残っていなければ、自分の幻想ではないかと疑ってしまうかもしれません。
そんな疑いまで持ってしまうほど、本当に夢のような贅沢極まりないレコードだったのです。
わたしがあのレコードたちの
すごさ
に気づいたのは、かなり後になってからです。はっきり覚えていないのですが、高校生くらいだったのではないかと思います。ある日、何かの理由で、自分の部屋の押入れをがさごそやっていたわたしは、あの懐かしい幼稚園時代の親友――いや、恋人と再会しました。
その時の自分の年齢ははっきりしないくせに、二階にあったわたしの部屋からお隣の庭のクヌギの木が見え、そこに夕方の穏やかな光が流れていたことは、なぜかはっきり覚えています。
あの骨董品のようなレコード・プレーヤーは、とっくの昔に処分されていました。
いや、そもそもLPレコードなんていうものが、世界から消えていました。完全に消えてはいないとしても、それはもはや一部の愛好家のコレクションや、博物館の陳列品としてひっそりと昔の夢を見ている存在にすぎませんでした。
ずいぶんほったらかしにしてしまっていた恋人を、わたしは思わず手に取りました。黄緑色のレコード・ジャケットは、当然ながらだいぶくたびれて変色して、ところどころ破れたりもしていました。
そんなレコードを、静かに撫でるように、
わたしは他のレコードも引っ張り出してみました。
それらは、レコード・プレーヤーが処分される時、もう二度と聴くことはできないものだからと親にたしなめられても、「これだけは絶対に捨てないで!」と必死に守った、お気に入り中のお気に入りだったのです。
でも、それは「小さい頃大好きだったから」という理由だけで捨てられなかったのであり、その瞬間まで、わたしはレコードに朗読を吹き込んでいた人が
誰であったのか
を知らずにいたのでした。黄緑色のレコード・ジャケットに印刷されていた朗読者の名前は、信じられないほどの錚々たる顔ぶれだったのです。
――その時でした。
わたしの身体の中で、〈声〉が鳴り響いたのは。
「うさぎどん きつねどん」。タイトルを聴いただけでおかしいのは、渥美清さんの声でした。
「長靴をはいた猫」。智慧も実行力もある猫と、頼りない三番目の息子の胸躍る冒険譚を語っていたのは、北林谷栄さんでした。
「三匹のやぎとトロール」。勇敢なやぎになり切って、かっこいい歌まで披露してくれていたのは熊倉一雄さん。
「梨売りと仙人」。子供心になんとも不思議で魅力的だった物語は、なんと中国の古典『聊斎志異』から採られていました。幼いわたしを初めて志怪小説の世界に
レコード・プレーヤーなんて要りません。幼稚園の頃、何度も何度も、それこそレコードが磨り切れるほど繰り返し聴いた〈声〉が、あの時とまったく同じ色と形をもって、わたしの中に一気に蘇ってきたのでした。
次に、これらの物語がどう語られたのか、わたしの耳がどう聴いたのかについて書いてみたいと思います。
今猶わたしの身体に残っている〈声〉に、もう一度耳を澄ませて――