第9話 米倉斉加年さんの朗読(一)

文字数 2,889文字

 米倉(よねくら)(まさ)加年(かね)さん。

 北林谷栄さんと同じく劇団民藝に所属し、俳優としてだけでなく、演出家としても活躍された方です。

 舞台以外にも、映画やテレビドラマでも活躍されていました。映画では渥美清さん主演の『男はつらいよ』で、八千草薫さんがマドンナ役の時に、寅さんの恋敵の役(御前様の甥の変な大学教授)を演じたことがあるだけでなく、巡査の役で準レギュラー的に出ていた時期もありました。

 映画『男はつらいよ』でコミカルな役を演じるかと思えば、NHK大河ドラマ『秀吉』(竹中直人さん主演)の今川義元や、やはりNHKの『坂の上の雲』(本木雅弘さん主演)の大山巌などは、打って変わって重厚な演技でした。
 
 米倉斉加年さんは画家としても有名で、絵本『魔法おしえます』(文は奥田継夫)によって、1976年のボローニャ国際児童図書展のグラフィック大賞(子供の部)を、翌1977年には『多毛留(たける)』により、同じくボローニャ国際児童図書展のグラフィック大賞(青少年の部)を受賞しています。

 他にも、わたしにとって馴染み深いのは、高校生の時、お小遣いではハードカバーの全集が買えないため、ちくま文庫版で読んでいた『芥川龍之介全集』です。この文庫版全集の表紙絵は、全て米倉斉加年さんが描いているのです。

 とまあ、大変多才な方だというのがわかったところで、そろそろ米倉斉加年さんがどんなお話をレコードに吹き込んでいたかについて書きたいと思います。

「梨売りと仙人」。
 これです。
 
 この物語が中国の古典『聊斎志異』の一篇であることを知ったのは、高校生ぐらいになってからで、幼稚園生当時はもちろん知りませんでした。
 でも、中国のお話らしいことはわかっていましたし、日本とは雰囲気が違う、なんとも不思議な物語だなあと感じていたことも覚えています。

『聊斎志異』というのは、清朝時代の蒲松齡(ほしょうれい)が著した短篇集で、「志怪小説」に分類される作品です。「志怪小説」というのは、要はあやかしだとか、狐狸に化かされるとか、生霊だとか死霊だとか、そういった不思議なお話のことです。

 わたしがレコードで聴いたのは、『聊斎志異』で言うと、卷一第十四篇の「種梨」です。タイトルを日本語訳すれば、「梨を()える」となります。原文は非常に短いので、オリジナルの雰囲気を感じていただけるよう全文引用してみましょう。

 有鄉人貨梨於市,頗甘芳,價騰貴。有道士破巾絮衣,丐於車前,鄉人咄之,亦不去,鄉人怒,加以叱罵。道士曰:「一車數百顆,老衲止丐其一,於居士亦無大損,何怒為?」觀者勸置劣者一枚,令去,鄉人執不肯。肆中傭保者,見喋聒不堪,遂出錢市一枚,付道士,道士拜謝,謂衆曰:「出家人不解吝惜,我有佳梨,請出供客。」或曰:「既有之,何不自食?」曰:「吾特需此核作種。」於是掬梨大啗,且盡,把核於手,解肩上鑱,坎地深數寸,納之而覆以土,向市人索湯沃灌。好事者於臨路店索得沸瀋,道士接浸坎處。萬目攢視,見有勾萌出,漸大,俄成樹,枝葉扶疏,倏而花,倏而實,碩大芳馥,纍纍滿樹。道人乃即樹頭,摘賜觀者,頃刻而盡。已,乃以鑱伐樹,丁丁良久乃斷,帶葉荷肩頭,從容徐步而去。
 初,道士作法時,鄉人亦雜衆中,引領注目,竟忘其業。道士既去,始顧車中,則梨已空矣,方悟適所俵散,皆己物也。又細視車上一靶亡,是新鑿斷者,心大憤恨,急跡之,轉過牆隅,則斷靶棄垣下,始知所代梨本,即是物也。道士不知所在,一市粲然。

 これだけです。本当はこの後に作者による解説的内容が数行に渡って続くのですが、お話としては引用部で完結しています。

 上記引用文の中で太字で示してある通り、原文では「道士」であって、「仙人」ではありません。レコードの内容と原文との違いは他にもある――と言うか、実は雰囲気がずいぶん違うのです。そこに、米倉斉加年さんの朗読の特徴があったと思うのです。

 先ず、原文の方から見てみましょう。
 この道士は「破巾絮衣」、つまり衣服がボロボロです。日本風に言えば、「乞食坊主」みたいな感じです。

 「老衲(ラオ・ナー)」というのは「年老いた出家人」の意味で、ちょっとへりくだった感じの道士の自称です。「居士(ヂー・シー)」というのは、在家(ざいけ)信者、つまり、「出家してはいないが、仏教に帰依(きえ)している男性」の意味です。梨売りが本当に「居士」かどうかは関係なく、道士みたいな立場の人は、礼儀上、相手をそう呼ぶわけです。この言葉は戒名に使われるので、日本人にもお馴染みですよね。

 道士は梨売りに「梨をひとつ恵んでくれ」というのですが、梨売りはぞんざいな態度で追い払います。すると、道士は言います。
「車には何百もの梨を積んでいるではないか。そのうちのひとつを恵んでくれても、大して損にはなるまい」
 市に来ている人たち(ギャラリー)も「(いた)んでいるのでも、ひとつめぐんでやればいいじゃないか」と言うのですが、梨売りは頑として首を縦に振りません。最後は、道士と梨売りの喧嘩になってしまいます。
 ギャラリーの人が見かねて、梨をひとつ買って道士にあげます。「見喋聒不堪」というのは、「二人が大声で罵り合うのを見かねて」という意味です。

 梨を食べた道士は、不思議なことを言い出します。
「わたしはケチではありませんぞ。佳い梨があるので、皆さんにごちそうしましょう」
「自分で持ってるなら、最初からそれを食べればよかったじゃないか!」
 ギャラリーのひとりが、もっともなツッコミを入れますが、道士は涼しい顔でこう言うのです。
「わたしには、この(たね)が必要なのだよ」
 そして、「どなたかお湯をくれんかな?」と人々に呼びかけます。ギャラリーのひとりが、近くの店から煮えたぎったお湯をもらってきてくれます。

 道士は肩に担いでいた袋からスコップのようなものを取り出すと、土を掘って梨の核を埋め、上からお湯をかけます。すると、なんという不思議! 

 土の中から芽が出てきたではありませんか。それはするする伸びて、あっと言う間に樹になります。枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結びました。枝もたわわに実った大きな梨からは、(かんば)しい香りが辺りに漂い流れます。

 道士は梨をもいでは、惜しげもなく人々に分け与えます。僅かの時間に、梨の実は全てなくなってしまいました。実がなくなると、道士はスコップで樹を切り倒し、葉のついたままのそれを肩にかつぐと、悠々と立ち去りました。

 ギャラリーに混じって、ぽかんと道士を眺めていた梨売りが、ふと我に返ると、自分の車の梨はひとつ残らず消え、車のかじ棒の一本もなくなっているではありませんか。つまり、さっき見たのは全て道士の幻術で、道士が人々に気前よく分け与えていたのは、なんと全て梨売りの梨だったのです!

 梨売りは怒って、道士を追いかけようとするのですが――
 原文のラストは、なかなかかっこいいです。

 道士、()る所を知らず。一市(いっし)粲然(さんぜん)たり。

「道士の行方は知れず、市中の人が大笑いしました」という意味です。

 以上が原作ですが、米倉斉加年さんの朗読は原作とどういう部分が違ったのでしょうか。その点について、回を改めて書いてみたいと思います。 
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