第10話 米倉斉加年さんの朗読(二)

文字数 1,721文字

 米倉斉加年さんが朗読した「梨売りと仙人」は、原作『聊斎志異』の「種梨」とどういうところが異なっていたのでしょうか。

 前回述べたように、先ず主人公が道士ではなく、仙人になっていました。
 ここがポイントのひとつだったと思います。

 米倉斉加年さんの朗読は、一言で言うと――

 しぶい!

 でした。
 当時はそういう言葉は知らなかったと思いますが、耳に残っている米倉斉加年さんの声は、正にそんな味わいだったのです。

「のどが渇いてたまらない。その梨をひとつくださらんか」
 本当に苦しそうに仙人は語るのです。
 原作ではボロボロの恰好をした道士で、ちょっといかがわしい感じすらあるのですが、米倉斉加年さんの声には、いかにも仙人らしい超俗的な雰囲気がありました。

 それを邪険に追い払おうとする梨売りは、いかにも俗物です。同じ人が朗読しているのに、こうも感じが変わるものかと驚きました。

 米倉仙人は、一貫して静かに話します。原作のように「梨売りと大声で罵り合う」ことはありません。

 修行している道士が、田舎者の梨売りと喧嘩をする。こうした場面は、現実の中華世界あるあるなのですが(中華世界では、その人の社会的立場とはあまり関係なく、皆けっこう大声で罵り合ったりします【笑】)、わたしが聴いた米倉仙人は違いました。

「あなたは心の冷たい人だ」

 仙人の声は静かなのですが、そこには聴いているものを思わずびくっとさせるような(いか)りが籠っていました。これは正に、名優米倉斉加年さんの声の魔力だったと思います。

 原作のように、見かねた人が梨を買ってくれます。『聊斎志異』の記述に拠れば、道士は梨にかぶりつくようにして全部食べてしまうのですが、レコード版の仙人は


 ここが、ふたつ目のポイントだったと思います。

「わたしが欲しかったのは、この梨の種なのです」

 仙人は梨の種だけを取り出すと、人々に向かって言います。
「これから皆さんに梨をごちそうしましょう。お金は要りません」

 そこからの展開は、原作と同じです。 
 ただ、仙人が梨を食べないので、最初「のどが渇いてたまらない」と言っていたのは、実は梨売りの人間性を試していただけだったという解釈も、朗読版の方では成り立つのです。

 もうひとつ印象に残っているのは、仙人が樹に実った梨をもいで、人々に分け与えるくだりです。人々が梨を頬張って、口々に「ああ、うまい」、「なんておいしい梨だろう」みたいなことを言うのですが、米倉斉加年さんの朗読で聴くと、それは単なる梨の味ではなく、あたかも天上の甘露のような、一種神秘的なまでのおいしさに思われるのでした。

 原作に描かれた道士の幻術は、不思議と言えば確かに不思議なのですが、正直心打たれる感じはありません。人間性としては、道士も梨売りも、どっちもどっちという気さえしてしまいます。

 ところが、この米倉仙人が人々に梨を食べさせる場面は、幼いわたしを不思議に感動させたのです。ここで、五つのパンと二匹の魚を五千人の群衆に分け与えたイエスの奇蹟※1なんかを持ち出したら、あまりに大袈裟だと笑われるでしょうが、実は当時わたしが通っていたのがキリスト教幼稚園だったこともあり、心の中でなんとなく、そういう神聖なイメージと結びつけていたところはあったかもしれません。

 とにかく、この不思議な物語は、わたしの心を捉えました。
 前回も書いたように、幼稚園生のわたしは、それが『聊斎志異』という清朝時代の小説の一篇だなどとは知るよしもありませんでした。
 でも、中国という国の物語だというのはわかっていたのです。

(こんな不思議なお話が生まれた中国というのは、どういう国なのだろう)

 わたしが中国文化や中華世界に興味を持つようになったきっかけは、案外幼稚園の時に聴いたこの「梨売りと仙人」というレコードだったかもしれません。
 このレコードを聴いているうちに、わたしの中に生まれたあるイメージ。それがいつの間にか、わたしにとっての中華世界の原風景になったのではないでしょうか。

 そうした世界に(いざな)ってくれた声の案内人が、米倉斉加年さんだったような気がするのです。

※1 新約聖書「マタイによる福音書」第14章。
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