第11話 おわりに
文字数 1,722文字
幼稚園生のわたしを夢中にさせた、世界の物語が詰まったLPレコード。
小学校に上がってからも、ふと思い出したように聴くことはあったのですが、それはごく低学年の頃に限られていました。日々の生活が忙しく複雑になっていくに従い、レコードのことはわたしの頭から忘れられていったのです。
この古い恋人を思い出したのは、第3話でも書いたように、高校生くらいの時です。
その時には、世界から既にレコードというものは消えていました。やたらかさばる、骨董品のようなレコード・プレーヤーも、とっくの昔に処分されていました。
〈声〉が蘇ったのは、もう聴くことのできないレコード・ジャケットを手に取った時です。
渥美清さん、北林谷栄さん、熊倉一雄さん、米倉斉加年さん……。
あの懐かしい声たちが、わたしの身体の奥から一気に湧きあがり、溢れ、響き渡りました。
わたしは立っていられなくなり、部屋の絨毯の上に
――それから、ずいぶん長い時間が過ぎました。
わたしはどういうわけか日本を離れ、台湾に住むことになりました。
コロナ禍のせいで、一月 半ほど前から、ほとんど家に引きこもった生活が続いています。
そうした生活を送っていたある日、わたしの身体のどこかにあったスイッチが、
眼には見えなくても、それはきっとあの巨大なレコード・プレーヤーについていた「ON」のボタンと同じく、いかにも「わたしはスイッチです」と主張しているような
再び、〈声〉が蘇りました。
わたしは高校生の時の自分を思い出しました。
レコード・ジャケットを抱くようにして、いつまでも部屋の床に座っていた自分を。お隣の庭のクヌギの枝に流れていた、穏やかな夕方の光を。
そして、高校生の自分が思い出していた幼稚園生の自分を。
幼稚園生のわたしの眼に映っていた〈世界〉の色と形と音を。
その輝きを。
まるで入れ子のように、記憶の函 の中に、更に古い記憶が入っていました。〈声〉はその函をひとつひとつ開けていったのです。
記憶というのは、櫛の歯のように欠けたり、陽に焼けた本の表紙のように色褪 せたり、古いお菓子のように腐ったり、崩れていったりするものではないようです。
思い出せないということは、記憶に泥のようなものが付着したり、身体の何処か奥深くに仕舞い込まれるかして、
何かのきっかけさえあれば、泥は洗い流され、あるいは仕舞い込まれていたところから転がり出して、元のままの形、元のままの色、元のままの匂い、そして元のままの音で蘇ってくる。
記憶とは、きっとそういうものなのです。
記憶がひとつ蘇ると、誘われるように別な記憶も浮かび上がってきます。それは入れ子構造の精 緻 な函を覗き込んでいるようでもあり、丘の上から夕闇の底に沈む家々の窓に、灯が次々にともっていくのを眺めているようでもありました。
このエッセイを書いている間にも、当初は思い出していなかった記憶が新たにいくつも蘇ってきて、わたしの頬を突っついたり、髪を軽くひっぱたりしました。
小さい頃の記憶というのは、どうもなかなかの悪戯者 であるようなのです。
こういうやんちゃな小鬼みたいな記憶たちに、手伝ってもらっているのだか、邪魔されているのだかわからず書いているうちに、いつか二万字を超える長さになってしまいました。
このへんで、わたしの心の履歴書の一部のようなエッセイは筆を擱 きたいと思います。パソコンのキーボードを叩いていて、筆を擱くもないものですが(笑)
学歴・経歴が記された一般の履歴書は、厳 めしい面接官によって読まれます。
でも、このささやかで、聊 か風変りな履歴書につきましては、心から願います、どうか笑顔でお読みいただけますように。
南ノ三奈乃
2021年7月4日
小学校に上がってからも、ふと思い出したように聴くことはあったのですが、それはごく低学年の頃に限られていました。日々の生活が忙しく複雑になっていくに従い、レコードのことはわたしの頭から忘れられていったのです。
この古い恋人を思い出したのは、第3話でも書いたように、高校生くらいの時です。
その時には、世界から既にレコードというものは消えていました。やたらかさばる、骨董品のようなレコード・プレーヤーも、とっくの昔に処分されていました。
〈声〉が蘇ったのは、もう聴くことのできないレコード・ジャケットを手に取った時です。
渥美清さん、北林谷栄さん、熊倉一雄さん、米倉斉加年さん……。
あの懐かしい声たちが、わたしの身体の奥から一気に湧きあがり、溢れ、響き渡りました。
わたしは立っていられなくなり、部屋の絨毯の上に
ぺたり
と座ると、レコード・ジャケットを胸に抱くようにして、ただひたすら、その響きに耳を澄ませたのでした。――それから、ずいぶん長い時間が過ぎました。
わたしはどういうわけか日本を離れ、台湾に住むことになりました。
コロナ禍のせいで、
そうした生活を送っていたある日、わたしの身体のどこかにあったスイッチが、
誰か
の手によって押されたのです。眼には見えなくても、それはきっとあの巨大なレコード・プレーヤーについていた「ON」のボタンと同じく、いかにも「わたしはスイッチです」と主張しているような
でっぱり
だったに違いありません。再び、〈声〉が蘇りました。
わたしは高校生の時の自分を思い出しました。
レコード・ジャケットを抱くようにして、いつまでも部屋の床に座っていた自分を。お隣の庭のクヌギの枝に流れていた、穏やかな夕方の光を。
そして、高校生の自分が思い出していた幼稚園生の自分を。
幼稚園生のわたしの眼に映っていた〈世界〉の色と形と音を。
その輝きを。
まるで入れ子のように、記憶の
記憶というのは、櫛の歯のように欠けたり、陽に焼けた本の表紙のように色
思い出せないということは、記憶に泥のようなものが付着したり、身体の何処か奥深くに仕舞い込まれるかして、
見えなくなる
、あるいはどこにあるかわからなくなる
だけなのではないでしょうか。何かのきっかけさえあれば、泥は洗い流され、あるいは仕舞い込まれていたところから転がり出して、元のままの形、元のままの色、元のままの匂い、そして元のままの音で蘇ってくる。
記憶とは、きっとそういうものなのです。
記憶がひとつ蘇ると、誘われるように別な記憶も浮かび上がってきます。それは入れ子構造の
このエッセイを書いている間にも、当初は思い出していなかった記憶が新たにいくつも蘇ってきて、わたしの頬を突っついたり、髪を軽くひっぱたりしました。
小さい頃の記憶というのは、どうもなかなかの
こういうやんちゃな小鬼みたいな記憶たちに、手伝ってもらっているのだか、邪魔されているのだかわからず書いているうちに、いつか二万字を超える長さになってしまいました。
このへんで、わたしの心の履歴書の一部のようなエッセイは筆を
学歴・経歴が記された一般の履歴書は、
でも、このささやかで、
南ノ三奈乃
2021年7月4日