第5話 北林谷栄さんの朗読(一)

文字数 1,296文字

 今回は、北林谷栄さんが朗読した「長靴をはいた猫」の思い出を書きたいと思います。

 一枚だけを挙げろと言われれば、やはり「うさぎどん きつねどん」になってしまうと思うのですが、わたしの中のランキングにおいて、「長靴をはいた猫」は僅差――しかも、非常に僅差の二位でした。
「うさぎどん きつねどん」と「長靴をはいた猫」は、最後まで残ったお気に入りのレコードの中でも、別格の二枚だったのです。

 北林谷栄さん。
 その声を聴いたことのない日本人は殆どいないのではないかと思います。

 2010年に98歳で亡くなった時は、ニュースなどで「日本を代表するおばあちゃん女優」と報道されていました。
 確かに北林谷栄さんは30代の頃から老け役をやっておられたので、テレビや映画では「おばあちゃん役」のイメージが強かったのは事実です。

 例えば、宮崎駿監督の『となりのトトロ』では、〈カンタのばあちゃん〉の声をやっておられましたよね。あの、「カンタ!」と呼ぶ声。名前を呼ぶだけで、あの存在感。

 1991年の岡本喜八監督の『大誘拐』での柳川とし子役も大変有名です。

 でも、北林谷栄さんの真骨頂は何と言っても舞台にありました。日本近現代演劇史というような本があれば、思い切り太字で書かれるべき大女優。

 1936年(昭和11年)、25歳の時、新協劇団に入団。築地小劇場で、北林谷栄さんは最初の代表作となった、ゴーリキーの『どん底』の売春婦〈ナースチャ〉役を演じます。ちなみにその時のルカ役が滝沢修、ペーペル役が宇野重吉。日本近現代演劇史の超ビッグネーム揃い踏み!

 手前味噌で大変申し訳ないのですが、わたしは今、『フレイグラント・オーキッズ!』という昭和11年の女学校を舞台にした小説を書いております。ちょうどそれは、若き北林谷栄さんが舞台女優として活躍し始めた時代と重なることになるのです。そのように考えると昭和11年というのは、遥か遠くにあるようでも、また逆に、けっこう近くにあるようにも感じられて、なんだか不思議な気分になります。

 新協劇団が官憲の弾圧によって解散に追い込まれた後、1947年、北林谷栄さんは滝沢修、宇野重吉らと民衆芸術劇場を結成します。そして三年後の1950年、民衆芸術劇場を前身とする劇団民藝の創設メンバーとなります。

 劇団民藝では、チェーホフの『かもめ』の大女優〈アルカージナ〉役や、トルストイの『闇の力』の〈マトリョーナ〉、木下順二の『オットーと呼ばれる日本人』の〈宋夫人〉を演じるなど、代表作は枚挙に(いとま)がありません。

 わたしにとって、LPレコードの「長靴をはいた猫」がいかに贅沢だったかと言うと――

 朗読者が近現代日本演劇史上の大女優であることなど、じぇんじぇん、じぇーんじぇん知らずに聴いていたという事実です。

 なんたって幼稚園生ですからね!
 逆に言うと、大女優だろうとなんだろうと、面白くなければ、虚心に「つまらない」と言ってしまう神をも恐れぬお客さん。
 幼稚園生、(ある意味)無敵!

 では続いて、わたしの聴いた「長靴をはいた猫」の朗読がどういうものだったかについて書いてみたいと思います。
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