第4話 渥美清さんの朗読

文字数 3,378文字

 世界の物語が、すごい顔ぶれの朗読者によって吹き込まれていたLPレコード。
 レコード・プレーヤーがなくなってからも、わたしの部屋の押入れの中に残っていたお気に入りの数枚。

 その中でも、一話を挙げろと言われれば、やっぱり――

「うさぎどん きつねどん」。

 これです。
 このお話の原作は、ジョーエル・チャンドラー・ハリスが、南部の棉畑で働く黒人の間に伝わる民話をまとめて書いたものなのだそうです。
 幼稚園生のわたしは、もちろんアメリカ南部で働かされる黒人の苛酷な歴史など、作品背景については何も知りませんでした。

 また、このエッセイの目的はブックレビューではありません。わたしの耳が、レコードの朗読をどんなふうに聴いたのかということだけに絞って書いてみたいと思います。

 このレコード企画が本当にすばらしかったと思うのは、ただ有名な俳優さんを朗読者として起用したというだけではありません。
 全て舞台出身、あるいは舞台をホームグラウンドとする役者さんたちだったのです。

 前話でも書いたように、この「うさぎどん きつねどん」の朗読者は渥美清さんでした。
 この時、渥美清さんはもうとっくに、映画『男はつらいよ』によって銀幕の大スターになっていました。
 そんな大スターが、よく子供向けのレコードの吹き込みの仕事を引き受けたものだと思います。

 いや、子供向けだからこそ、だったのかもしれません。
 子供向けだから、本物を作らなければならない。企画側にそういう熱い思いがあったに違いありません。それが朗読者の人選にも如実に表れているし、またそういう思いに賛同する方が朗読者として名を連ねたのではなかったでしょうか。

 子供というのは、大人が思っているよりずっと本物を見抜く目を持っています。手を抜いたもの、いい加減に創られたもの、「子供はこういうのが好きだろう」という勝手な思い込みで創られたもの。そういう

は、すぐ見抜いてしまいます。
 変な先入観がなく、曇りのない眼で虚心に見る――と、言葉にすれば簡単ですが、大人になると、昔は簡単にできたはずのことができなくなってしまうんですね。悲しいことです。

「賞を獲った作品だから(すばらしいはず)」「ベストセラーになった作品だから(面白いはず)」「有名なコメディアンだから(おかしいはず)」「これ好きって言っておかないとばかにされちゃうかも?」……わたしたち大人の眼は、先入観と偏見と同調圧力で汚れまくりです(笑)。

 わたしが「うさぎどん きつねどん」に聴き入っていた時、その朗読者が不世出の喜劇俳優だということは、まったく知りませんでした。

 でも、知らなくてもわかるんです。

 もう、そのおかしいことと言ったら!

 いつも〈うさぎどん〉にばかにされている〈きつねどん〉は、復讐のためにコールタール人形を作ります。
 コールタール人形というのは、松脂の塊みたいな、どうしようもなく

の人形なのです。

 それを〈うさぎどん〉が来る道に置いておいて、〈きつねどん〉は物陰に隠れ、じっと様子を窺っています。

 見慣れないコールタール人形に気づいた〈うさぎどん〉は、先ず話しかけます。でも、コールタール人形は返事をしません(人形ですからね!)

〈うさぎどん〉はついに怒り出し、コールタール人形を殴ります。すると、手がぴたっと人形にくっついてしまうのです。
「は、放せ!」
 でも、コールタール人形は放してくれません(人形ですからね!)
 もう一方の手で殴ると、その手もくっついてしまいます。
 片足で蹴ると片足がくっつき、もう一方の足で蹴ると、そっちもくっついてしまいます。

 最後は、〈うさぎどん〉とコールタール人形が、仲の良い恋人同士のようにぴったりくっついて離れなくなってしまうのです。

 そこで(おもむろ)に登場する〈きつねどん〉……。

 皆さん、ちょっと想像してみてください。
 渥美清さんが、こうしたシーンを声だけで演じるのです。
 手がくっついてしまった〈うさぎどん〉は、初めこそ火に油を注いだみたいに、かんかんになって怒っています。怒っているんですけれど、なんだか可愛いんです(寅さんがおいちゃんといくら大声で喧嘩をしていても、どこか憎めない、可愛いところがありますよね)。

 ところが、次第に追い詰められていくに従い、怒っているはずの〈うさぎどん〉の声が悲鳴のようなものに変わっていきます。いくら虚勢を張ったって、圧倒的な形勢不利は如何(いかん)ともし難いのです。それが痛いほど伝わってきます。しかも、顔までくっついてしまうので、声も

きます。聴いているこっちまで、身体中べたべたになってしまったよう!

 もうおかしいのおかしくないのって……。

 この物語そのものは有名ですから、詳しく説明しなくても、多くの方がご存知だと思うのですが、〈きつねどん〉は、身動きできない〈うさぎどん〉に対し、うさぎの丸焼きにしてやろうかとか、川に沈めてしまおうかとか、日ごろの鬱憤(うっぷん)を晴らすのはこの時とばかり、いろいろ脅し文句を浴びせて楽しみます。

 いいよ、どんなことをされてもかまわない。

〈うさぎどん〉はすっかり観念してしまったように、もう抵抗しません。ただ、同じ言葉を繰り返すばかりです。

 でもね、お願いだから、あのイガイガの茨のしげみに僕を放り込むことだけはやめておくれ。お願いだから。

 そこで、〈きつねどん〉は考えます。まてよ、そんなに嫌がるところを見ると……

〈きつねどん〉は、ついにコールタール人形ごと〈うさぎどん〉を持ち上げると、やっとばかりに茨のしげみに投げ込んでしまうのです!

 その時の、渥美さんの表現する擬音がまたすごいのです。文字では形容しようのない音声が渥美さんの口から発せられます。強いて言えば――そう、うさぎがコールタール人形と一緒に茨のしげみに投げ込まれた音です(笑)。

 ところが、それも束の間、茨のしげみはしーんと静まり返ってしまうのです。
〈きつねどん〉はじっと息をひそめています。すごい緊張感です。幼稚園生のわたしも、もちろん息を止めているので酸欠寸前です。

 やがて――

「やーい!」

 高らかな、得意そうな〈うさぎどん〉の声が響いてくるのです。
 まるで茨のしげみの上の青い空が見えるような声が……。

 結末はわかっているのに、わたしはこのレコードを聴く度に、〈うさぎどん〉がイガイガの茨のしげみに投げ込まれるシーンで、〈きつねどん〉と一緒に息をひそめてしまうのです。

 そして遠くから響く、

「やーい!」

 という〈うさぎどん〉の声。
 その声を聴いた瞬間、ほっと解放された気分になるのでした。

〈きつねどん〉はもちろん悔しがるのですが、でも、心のどこかでは、〈うさぎどん〉が無事であったと知って、ほっと胸を撫で下ろしているようでもありました。そうは描かれていないのですが、そんな気がしたのです。わたしがほっとするのと同じように。

 つまりそれは、朗読者である渥美清さんの、この物語についての解釈が、聞き手であるわたしに伝わってきたということだったのではないでしょうか。

〈うさぎどん〉と〈きつねどん〉はね、本当はとても仲がいい友達なんだよ。

 そんな声にならない声が、わたしを温かく包んでくれていて、だからこそ、わたしはこのお話を、あれほど深く愛してしまったのかもしれません。

 朗読のラストは、「ああ、おかしい」という一句なのですが、その前に渥美さんはちょっと笑うのです。

 その笑い声の前のセンテンスは、いくら思い出そうとしても思い出せないのですが、語尾が「……たんだって。」か、「……ちゃったんだって。」のどちらかだったことは覚えています。その語尾が途中から笑いを含んだ声に変わり、「ああ、おかしい」と締めくくられるのです。

 この笑い声が正に魔法の笑いで、更に「ああ、おかしい」が続くと、もうこの世の中に、こんなにおかしくて愉快なお話はないような気持ちになるのでした。

 語尾の笑い声も、それに続くラストの一句も、今もわたしの身体の中で鳴っているのですが、あの頃のように、ただひたすらおかしく楽しい気持ちばかりではなく、なぜだかちょっと泣きたくなってしまうのは困ったことだと思います。


 ――次回は、北林谷栄さんが朗読した「長靴をはいた猫」について書いてみます。
 

 

 
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