5 第七二一航空隊

文字数 2,373文字

「谷田部! 生きとるか、しっかりせい」
「うう」
 谷田部洋治 二等飛行兵曹は、砂まみれで倒れていた。
「桜花」の滑空訓練中、着陸にちょっと失敗。
 基地を通り越し、滑走路先の鹿島灘に不時着した。
 地元で、国末浜と呼ばれている砂浜である。
 機体は横倒しで、風防は割れ、外れてしまっている。
 着陸用の橇はつぶれ、後方に曲がっていた。
 操縦者の彼は、自力で機外に出て、その場で気絶したらしい。
 この練習機は、燃料を積まないのが幸いした。飛行服に引火でもすれば、焼死したところである。
「あなたは」
「早川だ。目が見えんのか」
「教官」
 安心したのか、また体がぐったりとする。
「目をさませっ、おい水!」
 早川中尉は、部下から水筒を奪うと、谷田部二飛曹の顔にじゃぶとかけた。
 次に、しゃがんだ自分の脚に谷田部の頭をのせ、鼻をつまんで口に水筒を突っ込む。
 ぶはっ。
 流し込まれた水の苦しさに、二飛曹は吐きながら体を起こした。
「よしよし。なかなか丈夫にできとる。基地に戻すぞ」
 部下と二人で、谷田部の脇と足とを持ち、トラックの荷台に持ち上げる。
 機体の回収は、別便だ。
 一応は、人命優先。
「手間かけやがって」
 二飛曹の分際で、自動車の迎えあり。谷田部二飛曹は、特攻隊員としての高待遇は得たのである。

 昭和十九年十月、海軍は第七二一航空隊を開隊した。
 七二一は、符号上、陸上攻撃部隊を意味する。表向き、特攻部隊であることを秘されていた。
 設立地は、茨城県橘村(現在、小美玉市)の百里原基地。
 一月後の十一月、谷田部たちは、百里原から、同じ茨城県内の鹿島へと移駐してきた。
 百里原海軍航空基地は訓練基地であり、そこに同居していたのだが、実用機や偵察の訓練も始まり、手狭となったのだ。さらに、鹿島で単独運用することで、特攻機の訓練を秘匿する意味もあった。
 これをもって、第七二一航空隊は「神雷(じんらい)部隊」を称するようになる。

 特攻機「桜花」の訓練は命がけのものだったという。
 専用の練習機は、全面をオレンジ色に塗色され、形こそ実機と同じだが、推進器はついていない。つまり、ただのグライダーである。
 機首の弾頭部分には、火薬の代わりに、同重量の水が一.二トン入っている。
 重量バランスが悪い上、速度優先の設計上、翼は小さく、操縦は容易でない。
 この練習機「K―1」は、母機となる攻撃機一式陸攻(いっしきりくこう)の胴体に吊り下げられ、離陸する。
 特攻専用機だから、着陸用の車輪はない。練習機にだけ、ソリが付いていた。胴体下部と左右の翼下をこすりながら、滑走路に着陸するのである。

 その日、谷田部は二度目の滑空訓練に挑んでいた。
 初回は成功したが、今回、気の緩みはなかった。
 何しろ、桜花の発進母機には、先任の搭乗員たちが七人も乗り組み、自分一人を上げるために支援してくれる。一式陸攻は七人乗りだった。それは、うれしかったし、誇らしかった。
 母機は、桜花の練習機を吊り下げ、ゆっくりと上昇する。
 谷田部は、所定の高度まで母機内にいるが、高度三千で練習機に移乗する。
「高度三千。谷田部、そろそろ練習機へ移れ」
「はい。」
「落ちるなよ。落下傘なしだ」
「はい」
 陸攻の床に開けられた四角い穴を抜け、桜花の練習機に乗り移るのだが、密閉された通路ではない。その隙間からは周囲の空が見え、風もすさぶ。
 練習機の座席に収まった谷田部は、計器板の動作を確認し、風防を閉めた。
 標準投下高度は三千五百メートル。訓練上、実機より五百メートル低く設定されていた。この高度に達すると、ブザー音が鳴り、母機から切り離される。
 この間が、たまらなく怖い。
 わずか数十センチ幅の操縦席内で、谷田部は操縦桿を握りしめ、待った。

 ブザー音。
 衝撃とともに周囲に光の光景が広がる。一瞬、上を見ると、陸攻がみるみる遠ざかっていく。相手が動いているのではない。自分が落ちているのだ。
 くるくると高度計の針が落ちる。
 すぐ二千を指してしまう。気流が強い。機体の安定に全神経を集中する。
 不安定な機体は、急な舵は御法度だ。
 左翼が浮つく。コンマ単位の感覚で、フットペダルと操縦桿を絞る。
 細かな機体振動。やがてS字のような上下運動に見舞われる。
 背中を冷や汗が流れる。機体の安定で手一杯だ。高度は千を切った。
 しまった。
 谷田部は、降下中の放水操作を失念していた。
 練習機の着陸速度は、時速二百キロを超える。重りの水を積んだまま降りると、機の強度がもたない。そのため、着陸までに水を捨て、タンクを軽くしなければならないのだ。 あわてて放水弁のコックをひねる。機体から空中に、水の帯が伸びた。
 それでも一.二トンの水だ。着陸までに捨てきれるか。高度は、すでに五百を切っている。すぐ三百になる。もう着陸態勢だ、間に合わない。
 このまま降りると、重さでつぶれる。
 谷田部は、基地上空を低高度で突っ切った。
 隊員たちは驚いて、谷田部機を目で追う。
「馬鹿野郎」教官の早川は叫んだ。
「車、用意。追いかけるぞ」
 すぐにトラックが出発した。

 谷田部は、基地東側の海岸への不時着を選んだ。
 砂浜に降りれば、助かるかもしれない。
 機の重い頭をわずかに上げようとする。しかし桜花は、もともと落ちるだけの機体だ。全く反応がない。危険とは思ったが、数ミリ単位で上げ舵を取る。
「上がれ」
 地上の砂浜は目前だった。その位置まで操縦桿を引くと、機首が急激に上がった。瞬間、地面が見えなくなる。尾部が垂直に近く、砂面に突き刺さる。反動で、機体は地面に叩きつけられた。
 これが、今日の失敗だった。
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登場人物紹介

桜花(おうか)|ロケット推進の特殊攻撃機。大戦末期、日本海軍が使用した、実在の機体。

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