私と人生

文字数 2,906文字

 七月も半ばを過ぎ、もうすぐ夏休みに入る時期、覚悟を決めて教頭へ近付いた。
「あの、教頭先生」
「はい?」
「今月末から一週間ほど、お休みをいただきたいのですが」
 言いつつ申請書を提出する。
「代わりにお盆の頃に日直をしますので」
 生徒達が休む夏休み中だって教師には仕事がある。特に必ずやらなければならないのが日直。電話番、学校に届く郵便物の受け取り、窓や出入口の開け閉め、プールの水質管理等々。
 もちろん毎日ではなく当番制で、一人あたり二日か三日担当することになる。私の場合、去年は教師生活一年目だったので初任者研修も受けた。
 緊張しながら答えを待つと、メガネの位置を直しながら申請書をジロジロ見つめていた教頭はやがて呟く。
「これ、二回に分割できませんか?」
「え?」
「十日に会議をすると言ったでしょう。大塚先生には準備を手伝って欲しいんですよねえ。ほら、うちの学校は年寄りが多いでしょう? 若い人にはなるべくいてもらわないと」
「いや、でも十日なら帰って来てます。予定では七日に帰国なので」
「帰国? 海外旅行にでも行くんですか?」
「あ、はい。柔道の応援に」
「オリンピック!? はあ、良いご身分ですな。まだ二年目なのに他の先生方を差し置いてオーストラリアで柔道観戦!」
「すいません……」
 って、謝る必要ある? 行きたいなら同じように休みを取って行けばいいじゃん。日直なんて一人二人いればいいんだし別に抜け駆けしたわけじゃない。そもそも私には今回の五輪を観に行かなきゃならない理由がある。
 ただ、これは説明しにくいんだよな。あんまり騒がれたくない。とにかく今回ばかりは何がなんでも邪魔させるもんか。ここは毅然とした態度で──

「いいですよ、行って来なさい」
「わっ!?

 突然背後から声をかけられ驚く。振り返ると長身で白髪の老紳士が立っていた。教頭もびっくり顔。
「校長、何故──」
「君の声が向こうまで響いてきたからだよ」
 校長室は壁一枚隔てた隣。さっき嫌味を言う時に大声を出してたし、聴こえていたっておかしくない。
 しまったと今さらながらに口を押さえる教頭。嫌な人だけど、こういうちょっぴり間の抜けたところは憎めない。
 教頭先生が驚いたのは校長がいきなり現れたから、だけではなかった。職員室にいる他の先生方も不思議そう。校長が私に助け舟を出したせい。
 なにせ、この人は私のことを嫌ってると思われている。
「大塚先生は七日には帰国すると言ってます。なら十日の会議の前準備には問題無く参加可能。教頭、前から思っていましたが、そう意地悪をしなくてもいいでしょう」
「いえ、私は別に、そのような……」
「ならいいですね? 今月末から一週間、大塚先生の休暇を受理します。その代わり先生、準備作業への参加とお盆中の日直はお任せしますよ」
「あ、はい!」
 校長の真意は透けて見えているけど今回ばかりは仕方ない。私は素直に助け舟を借りることにした。



 その日の放課後、生徒達を見送ってから職員室へ戻ろうとすると、先に校長先生が教室を訪れた。
「少しいいですか大塚先生」
「はい」
 子供達が帰った後の教室は意外と密談に向いている。校長室に私を呼びつけたりすると、あらぬ誤解を招くかもと配慮してくれたのだろう。
 まず、私の方から頭を下げる。
「今朝はありがとうございました」
「いえ、礼はご当主に。私は頼まれたことをしただけです」
 やっぱり雫さんが絡んでいたか。あの人、私がここに採用された後、自分の知り合いを強引に校長にしたんだ。つまり目の前のこの人を。
 ただ──
「差し出がましいことをしたでしょうか?」
 今度は校長が申し訳なさそうに苦笑。私は慌てて手と頭を振った。
「いえ、別に校長先生が悪いわけでは。むしろ私のわがままを聞いてくださっているわけですし」
 今回のことじゃなく、今までのこと。就任時の挨拶でこの人が雫さんの知り合いだって聞いた時、特別扱いはしないでくださいって言ったんだ。鏡矢の権力に頼って働いていくつもりは無かったから。
 ただ、この人って見た目より不器用でさ、それ以来私を極端に避けるようになったんだよね。おかげで教頭と一緒になって新米教師をいびってるなんて噂が先生達の間に流れてたりして本当に申し訳ない。
「まあ、今回の件で多少は悪い噂を払拭できたでしょう。そう思えば、こちらとしても利のある展開でした」
「したたかですね……」
「だからご当主に貴女を頼まれたのです。それで今後はどうします? やはり特別扱いは無しの方針を継続ですか?」
「はい、できれば」
「しかしですね大塚先生」
 その瞬間、校長は雫さんの知人ではなく教育者の顔になって私を見据えた。
「教頭先生が貴女に対して行っていることは紛れもないパワハラです。それも、本人には自覚が無いタイプの。彼の時代にはああいう指導が当たり前だった。だから今もやり方を変えない。
 けれど、私が彼に警告し続ければ別です。貴女の労働環境を改善できる。それに貴女は特別扱いを望んでいないが、私から言わせれば“鏡矢の血”を持って生まれた時点で特別な存在なのです。そんな貴女を凡人として扱うから逆に齟齬が生じてしまう。そうは思いませんか?」
「……」
 沈黙する私。そうかもしれないと考えたことがないわけじゃない。
 中学高校大学と成長するにつれ自覚が増していった。私は立ってるだけで注目を集めてしまう存在なのだと。望む望まないに関わらず多くの人間に影響を与える運命を背負っている。

 中学時代のあの出来事を思い出す。聖人の霊だとかいうあの老人達は私を“神の子”にしようとした。迷える子羊達を導く救世主に。
 鈴蘭さんが私に影響を与えていた巨大な重力源のうち一つを取り除いてくれたおかげでギリギリ普通の人生を生きられる状態に戻ったけれど、瀬戸際を歩いているということは、いつまた向こう側へ戻ってもおかしくないのだ。
 教頭が私に辛く当たるのだって、ひょっとしたら私の“重力”の影響を受けてしまっているのかもしれない。

(あっ──)
 瞬間、気が付いてしまった。だとしたら、もしかして谷川君が不登校になったのも私が担任になると決まっていたから……?
 いや、でも彼が登校拒否を始めたのは私が教師になる以前。流石に年単位の未来にまで影響を及ぼしているとは考えたくない。
 迷う私に、校長は腕時計を確認しつつ告げた。
「そろそろ戻ります。ともかく助けが必要ならいつでも仰って下さい。月末からの旅行は考えをまとめる良い機会にもなるでしょう。もちろん楽しむことも忘れずに、折角の休暇なのですから」
 そして教室の扉を開けつつ、もう一度振り返る。
「個人的にも木村選手は応援しています。メダルを取れるといいですね」
「ありがとうございます、彼に伝えておきます」
「はは、よろしく。それでは」

 ……ふう。

「人生って、ままならないな……」
 突然両親を喪い、美樹ねえのために大学進学を諦めた時、父さんもこんな気持ちだったのだろうか?
 婚約者が病に倒れ、彼の死後に私を身籠っていると気付いたママも、やっぱり色々葛藤したはず。
 私は──

「どうしたらいいのかな……みんな……」
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