第26話 息も切れ切れの夏(夏の終わり)

文字数 2,499文字

 最高気温が連日35℃を超えた昨夏の異常気象に比べると、今年は31℃前後で、だいぶ過ごしやすかった。少しだけ「東北の夏」に戻った気がした。
 それでも、六月の高温は、名物のサクランボの収穫に大打撃を与えた。七月の大雨は、県内各地に大きな災害をもたらし、庄内でも八月に収穫されるダダチャ豆の畑が冠水した。

 そんな落ち着かない夏を、自分もまた、落ち着かない気分で過ごした。理由は分からないが、何ごとにもやる気が出ないのだ。
 夏前に、足掛け三年かけて執筆してきた小説を書きあげた。小説の材料となる歴史の本や資料を読み込み、ウンウンうなりながら原稿に向かった日々が終わり、燃え尽き症候群になったのかもしれない。四季の変化も心に響かず、何をやっても集中力が続かない。

 気力の減退は体力の減退とも関係があるようだ。春先にかかりつけの医者に相談した。
「先生、最近、スポーツクラブで泳いで帰るとき、階段をゆっくりしか昇れず、ハアハア息切れして、階段の上でしばらく動けなくなるんです。水泳は普通に泳げるし、風呂でゆっくり休んだ後なのに、いったいどうしたんでしょう」
「ああ、それは予備力が無くなっているんだね」
「予備力?それは、バッテリー切れのようなものですか?」
「まあ、そんなところかな」
 家に帰って調べたら、「予備力」というのは「その人に備わっている体力や生理的機能の最大の能力と、日常的に使っている能力の差のことであり、身体に蓄えられているゆとりの能力のこと」(「介護ラボ」より)とあった。バッテリーにたとえた私の理解は、当たらずとも遠からずというところか。要は「老化」だろう、下手をすると要介護にもなりかねないという。
 予備力の低下には、庄内の暮らしが影響していることは十分に考えられる。何しろ、どこに出かけるにも車だし、雪に閉ざされた冬は、畑仕事も庭仕事もなくなる。東京の街を電車移動したら、何もしなくても一日一万歩くらい、簡単に歩ける。地下鉄大江戸線の階段は、場所によっては40mの深さがあり、ビルにしたら十階建てくらいだ。現役時代はエスカレーターを使わずに歩いたものだ。
 リチウムイオン・バッテリーの劣化を防ぐには、充電状態が50%から80%くらいの間で使うのが一番良いという。人間も同じだろう。充電が足りないと劣化し、やりすぎても身体を壊す。そう思って、できるだけ庭や畑に出て身体を動かすように努めた。その結果、階段を小走りで昇れるまでには回復した。

 それでも、やる気は一向に起きてこない。山に行って良い景色を見れば少しは変わるかと、七月に開山したばかりの月山(がっさん)弥陀(みだ)ヶ原に行った。雨の晴れ間に思い付きで出発したので、午後三時を回った八合目駐車場は車もまばらで、弥陀ヶ原は、私と妻の貸し切り状態だった。


 (貸し切り状態の月山弥陀ヶ原) 

 (弥陀ヶ原の花々 2024年7月22日撮影)
 熊さんが出てこないよう、熊鈴だけでは足りないと、大声で「森のくまさん」を歌いながら歩いた。
♬ あるうひ、もりのなか、くまさんに、でああった、はなさくもりのみち、くまさんに、でああった ♬
 少し元気が出たような気がした。誰もいない池に咲く満開のオゼコウホネを見たいと思ったが、ちょっと早すぎたのか、近くで見られたのは一輪だったが、それでも満足だ。


 (オゼコウホネの池と花)
 しかし、山から帰ってくると、また何もできない日に戻った。
 こういう時、妻の言葉は、良い薬だ。
「やる気が起きなければ、何もしなければいい。そんなに頑張らなくても良いのでは」
 長年、私の仕事ぶりを見て来た妻は、頑張らずにはいられない私の性格や、緩やかに繰り返す軽い躁鬱(そううつ)を見抜いているのだろう。お言葉、ごもっとも。それに、創作活動(アウトプット)を続けた結果、脳が枯渇し、新たな創作にはインプットが必要な時期なのかもしれない。

 インプットには、読書と旅が一番だが、その前に、まずは頭を空っぽにしようと、地元の天澤寺(てんたくじ)坐禅(ざぜん)の体験会に参加した。膝も股関節も痛いので(あきら)めていたが、今は背もたれの無い椅子を使っての坐禅も許されるという。
 夏とはいえ、朝の六時前はまだ涼しい。それにお寺のお堂は屋根が高く扉も開け放っているので、爽やかな風が吹きこんでくる。
 教えられるままに、椅子に座り、身体を左右にゆっくり揺らして軸を定める(左右(さゆう)揺振(ようしん))。視線を落として1m先の床を見ると半眼(はんがん)になる。膝の上で、右手の指の上に左手の指を重ね親指と手のひらで卵形をつくる(法界(ほっかい)定印(じょういん))。ジャーンと鐘が鳴らされ、線香一本が燃えつきる間、およそ40分、静かに坐禅を組んだ。
「何も追わない」
 和尚さんには、何も考えずに黙って座ると教えられたが、実は、何も考えないというのが一番難しい。だから、呼吸に合わせて、「ひとーつ、ふたーつ」と、一から十まで数えて心を落ち着かせる(数息観(すそくかん))。右の肩に警策(きょうさく)(先の平たい木の棒)が軽く当てられ、少し首を左に(かし)げると、ピシャリと右肩を強く打たれたが、それも気持ちよい。再び鐘の音が鳴り、坐禅を終えた。
 天澤寺では、夏休みの間、地域の小学生たちが毎朝、坐禅を組み、その後にラジオ体操をして帰る行事を38年間も続けているという。始めた時は58人だった子供の数が、今は18人しかいないという話に、櫛引の現実を見せられたようで、寂しい気持ちになった。

 (天澤寺の蓮の花)

 (天澤寺の夏のお祭りに集まる子供たち)

 (天澤寺の坐禅会)
 体験会だけでは効果が少ないだろうと、今日も家で短い坐禅を組んだ。
 姿勢を正して印を結ぶと、ゴロゴロと雷鳴がとどろいた。激しい雨が畑のトマトやキュウリの葉にシャバシャバシャバと打ち付ける音が聞こえる。
 何をしていても、何をしていなくても、(とき)は同じように過ぎていく。呼吸に合わせてじいっと数を数えていると、過ぎていく時を(いつく)しむ気持ちがわいてくる。半眼にした目が閉じかけ、眠りそうになる前に、鐘の代わりに再び雷鳴がとどろき、今日の坐禅を終えた。きっとそのうちに、また無性に本を読みたくなってくるだろう、そんな予感がした。
(2024年8月)
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