Phase 01 Frozen in Time

文字数 19,688文字

 首を(くく)ろうと思った。カーテンレールにロープを引っ掛けて、その勢いで引っ張れば誰にも知られずに僕という存在はこの世から消える。どうせ僕が亡くなった所で、弔ってくれる人間なんていない。
 でも、命を絶てなかった。――「僕」という存在をこの世から消し去ることが怖かったのだ。矢張り、僕はこのまま虚無の中で生き続けるしかないのだろうか? 多分、命を絶つ前にもっとやるべきことがあるのだろうけど、何をやればいいのか分からない。
 現代において「文豪」として評価されている人間の大半は精神に異常を来していたと言われているが、小説家である僕も――生まれつき「心が壊れている」らしい。――要するに、精神疾患を抱えながら生きているのだ。
 故に、常日頃から「死にたい」と思っている。自傷行為や向精神薬の過剰摂取(オーバードーズ)、密室状態での一酸化炭素の吸引――色々試したが、矢張り命を絶つことはできなかった。――それなら、何らかの事件に巻き込まれて殺害される方がマシだろう。
 状況を察したのか、お隣さんが警察を呼んでしまった。――マズい。これで何度目だろうか。
 警官が、僕を叱りつける。
「卯月さん、またですか。――いい加減、自死をやめませんか?」
 当然だけど、僕は警官の質問に答えた。
「そうですよね。――僕という存在が愚かだから、こうなるんですよね」
「いいえ、卯月さんは愚かじゃありませんよ?」
 警官は――ヘラヘラ笑っている。僕はそれが許せなかった。多分、相手はヘラヘラしているつもりじゃなかったのだろうけど、僕の目にはそういう風にしか見えなかった。
 結局のところ、警官は――僕に対して自死をやめるように通達してきた。それは人間として当たり前の約束なのだろう。でも、僕にとっては――「生きていること」自体が苦痛なのだ。
 色々と話をした後で、警官は「こころの相談窓口」のチラシを置いて帰っていった。――こんな所に相談しても、無駄でしかないのに。
 仕方がないので、僕はダイナブックで小説の原稿を書き始めた。――どうせ、この原稿もボツにしてしまうのだろう。
 僕は「綾川夏司(あやかわなつし)」というペンネームで小説を書いている。――要するに、綾辻行人(あやつじゆきと)有栖川有栖(ありすがわありす)京極夏彦(きょうごくなつひこ)、そして島田荘司(しまだそうじ)という4人のミステリ作家から一文字ずつ名前を拝借したというだけの単純な命名である。もちろん、彼らに対するリスペクトがあるからこそ――僕はこのペンネームを使っている。とはいえ、溝淡社(こうたんしゃ)の「フェレス賞」という新人賞を獲ってデビューしただけの一発屋なのだけれど。
 処女作である『ゴーレムの殺人』はそこそこ売れたが、その後が続かない。所詮、僕は三文以下の小説家なのだろう。――そもそも、僕の小説を読むマニアックなミステリ好きはいるのだろうか。いるとすれば会ってみたい。
 一応、『ゴーレムの殺人』のあらすじは――凶器不明の撲殺事件が相次いでいて、探偵役の主人公が一連の事件をユダヤ教に伝わる人造人間「ゴーレム」による殺害事件なのではないかと推理するという話である。正直言って、僕はこの作品を「駄作」だと決めつけていたが――世間が「特殊設定モノ」のミステリ小説を求めていたこともあって、溝淡社から祭り上げられることになった。――こんなモノがフェレス賞を獲るなんて、どうかしている。
 しかし、結果として『ゴーレムの殺人』は溝淡社の中でもオワコンと化していた新書判の文芸レーベルである『溝淡社ノベルス』の復活に一役買ったらしい。――僕みたいな小説家でいいのか。
 僕が『溝淡社ノベルス』の看板作家となった結果、溝淡社から求められるモノは段々とハードルが高くなっていった。――正直、ライト文芸レーベルである『溝淡社タイガー文庫』への移籍も考えたが、担当者がそれを許してくれなかった。そして、僕は小説家としてデビューして5年後に精神疾患から来る体調不良で1ヶ月寝込む事になってしまった。
 一応、担当者からは「ご自愛ください」というお見舞いメールが送られてきたが――そんな事、許されるはずがない。どうせ「建前」には「本音」が存在しているのだから。
 そういう事情もあって。寝込んでいる間は「小説の事を忘れよう」と思ったが――矢張り、忘れることができなかった。数少ない読者を喜ばせるためには何だってしたい。そう思うと、小説の事なんて忘れられるはずがなかったのだ。――その結果が、件の首吊り自殺未遂の顛末かもしれない。我ながら、情けない。
 情けないと思いつつ、僕は原稿を書いていく。でも、指が動かない。――どんなに頭ではプロットが浮かんでいても、キーボードの前だと文字が打てなくなる。これは、所謂スランプなのだろうか。スランプだとすれば、矢張り一旦小説から離れるべきか。
 万策尽きた結果、僕は書いていた原稿をゴミ箱にドラッグした。――そして、右クリックで「ゴミ箱を空にする」をクリックした。これでボツにした原稿は何枚目だろうか。もう数えるのも億劫になってきた。多分、100枚は超えていると思う。
 それから、僕は精神安定剤を飲んでベッドへと入った。――どうせ眠った所で何かが変わる訳じゃないのだけれど。
 心臓の鼓動が五月蝿い。多分、どくどくと鳴っている音は、僕がこうやって生きている証なのだろう。――そういえば、ゴーレムは人間じゃないから、心臓が脈を打つということなんてあり得ない。だから『ゴーレムの殺人』でも、人間を犯人にした。
 殺害トリック自体は単純なモノだったが、僕はその時の原稿を持っていない。――原稿を保存していた古いダイナブックが故障してしまったのだ。
 そういう訳で、『ゴーレムの殺人』の生原稿を所持しているのは――溝淡社での僕の担当者である井ノ瀬克典(いのせかつひこ)だけである。もっとも、あんな駄作の原稿なんて捨ててしまった方がいいのだけれど。
 井ノ瀬克典。――彼は溝淡社の文芸第三出版部で働いている編集者だ。僕は芦屋に住んでいるので、彼とのやり取りの大半はビデオチャットとメールで行っている。それでも「先生もたまには本社に来てほしい」と言われているが、理論上僕が東京の文京区に行くことなんて無理だ。
 ならば、芦屋から東京に引っ越すべきか。――いや、それはやめておこう。関西人として東京に住むのは抵抗がある。芦屋から引っ越すとしても、大阪北部の吹田(すいた)周辺が限界だろうか。――もっとも、大阪で一番住みやすいのは、南部にある堺と聞いたが。
 寝ている間に井ノ瀬克典のことを考えていた僕は、意識を覚醒させたタイミングで溝淡社への行き方を調べていた。――新幹線から東京メトロへの乗り換えって、こんなに面倒なのか。矢っ張り、このままビデオチャットとメールでのやり取りで十分だろう。
 思えば、未知の疫病が蔓延してから――こういうやり取りはパソコンを介してリモートで行えるようになった。それだけでも、出版社との距離は縮まったと感じている。近い将来、出社しなくても家で仕事が出来るようになるとすれば、僕のような出不精にはありがたい世界になる。――それでも、出社しなければいけないときは出社せざるを得ないのだけれど。
 噂をすればなんとやら、ダイナブックの電源を入れると――井ノ瀬克典からメールが来ていた。矢張り、僕のことを心配しているのだろうか。
 早速、メールを開く。そこには進捗状況の確認と共に、あるメッセージが添えられていた。
 ――綾川先生、あれから精神状態は回復したでしょうか? 前作から2年も経つと、流石に進捗状況が心配になります。まあ、そんなに考え込むと体に毒ですよ?
 ――それはそうと、綾川先生宛のファンレターが来ています。多分、続編を待ち望む声だと思います。こちらの方で転送しておきますので、目を通しておいてください。それでは。
 僕宛てにファンレター? そんな物好きがいるのか。そう思いつつ、僕は受信したファンレターのメールを開いた。
 ――綾川夏司先生、いや、卯月絢斗(うづきあやと)さんですよね? 僕です。覚えていませんか? 中学校のミステリ研究会で一緒だった錦織恵介(にしこりけいすけ)です。
 ――略歴を見て「まさか」と思いましたが、綾川先生って絢斗さんなんですね。豊岡出身者から小説家が出ることってすごいことだと思います。
 ――それはそうと、先生に相談があります。
 ――先生の処女作である『ゴーレムの殺人』と同じ手口で実際に殺人が起こってしまったら、先生はどうやって事件を解決すると思いますか?
 ――多分、これは先生じゃないと解決できないと思います。どうか、力を貸してください。
 ――ちなみに、事件現場は豊岡でも有数の実業家の社屋です。多分、絢斗さんも知っていると思うんですけど……。そうだ、ここに僕のスマホの番号とメールアドレスを載せておきますので、何かあったら連絡してください。
 豊岡でも有数の実業家といえば――笠原興業という建設会社か。そう思った僕は、早速心当たりのある人物を検索した。名前は――確か、笠原玄次だ。
 検索結果は、矢張り殺人事件の話で持ち切りだった。そもそも、豊岡という場所で物騒な殺人事件が起こること自体あり得ない。――何か裏がある。そう思った僕は、錦織恵介のスマホに対して直接ファンレターの返事をすることにした。
 ――恵介、ファンレターを送ってくれてありがとう。確かに、僕は卯月絢斗だ。
 ――さっき、件の殺人事件について調べた。どうやら、豊岡で僕の小説を模倣した事件が起きているのは事実らしい。
 ――今すぐにでも豊岡に向かいたいが、少し下準備が必要だ。下準備と言っても、すぐに終わるモノだけど。
 ――明日には豊岡へと向かう。待っていてくれ。
 これでいいか。多分、すぐに返事は来るだろう。
 下準備――とりあえずノベルス版の『ゴーレムの殺人』を読み返すことか。溝淡社も最初は僕の作品を単行本として出すつもりだったが、分厚い原稿を見て「これはノベルスで出すべきだろう」と判断したらしい。もっとも、それで正解だったのだけれど。確か、原稿用紙に換算して300枚ぐらいは書いていただろうか。――今じゃ、そんな枚数すら書けなくなっているのが実情だ。
 改めて読み直すと、自分の文章の拙さが目立つ。よくこんなモノでフェレス賞を受賞できたな。――多分、僕の文章の中に溝淡社の文芸第三出版部の琴線に触れるモノがあったのだろう。僕はそう思っている。
 最後まで読んだところで、僕はダイナブックをスリープ状態から解除させた。調べるべきモノが見つかったのだ。――笠原玄次(かさはらげんじ)という人物を深くディグることだ。
 笠原玄次――彼は笠原興業を一代で築き上げた敏腕社長だ。特に、豊岡という小さな田舎街において笠原興業という建設会社は重要な存在であり、幹線道路に建っているチェーン店の大半は笠原興業が施工を手掛けている。当然だけど、施工を手掛けると同時にフランチャイズ契約の締結も担当している。――つまり、建設した店舗の経営権も笠原興業が担っているという状態である。故に、豊岡では「笠原興業に対して足を向けて寝られない」と言われている。
 ――こんなところか。そういえば、「笠原興業がスタバを豊岡へ誘致した」というニュースも入っていたな。とうとうこんな田舎街にもスタバが来るのか。常日頃から駅前のスタバで原稿を書いている身からすれば、なんだかそれが不思議だった。というか、こんなモノさえニュースにしてしまう神戸新報もどうかと思う。――あれ? スタバ誘致の記事は令和5年12月となっているな。今は令和6年3月か。スタバがオープンするのは4月らしい。ならば、笠原玄次を殺害した犯人はそういうモノを恨む人物による犯行だろうか?
 いや、それは考え過ぎか。でも、恵介が言っていた「先生の処女作である『ゴーレムの殺人』と同じ手口で実際に殺人が起こった」というメッセージが気になる。確かに、僕は一連の殺人事件の中で「撲殺」という手口を使った。それはゴーレムの仕業に見せかけるための手口であり、物語に対して謎を提起するための演出でもある。
 しかし、この手口は物理的に考えてあり得ない。よほどの力持ちでない限り無理だろう。――もっとも、僕はそういう類ではない人物を犯人にしてしまった。だって、その方が小説として面白いじゃないか。
 下準備が終わったので、僕はさっさと寝ることにした。明日には豊岡へ向かわないといけない。豊岡で何が待ち受けているかは知らないが、多分――「厄介なことになりそう」だということは分かる。



 翌日、僕はバイクで豊岡へと向かっていた。今の精神状態で高速道路を走ることは不可能なので、芦屋からひたすら下道を通るルートを選んだ。どうせ姫路までは下道でも対して変わらない。下道で長いのは、姫路から豊岡へと向かうフェーズである。もっとも、姫路から豊岡への移動をスムーズにするために「播但連絡道路」というモノが完成したのだけれど。
 バイクが神崎町へと差し掛かったところで、僕は一旦休憩を取った。流石に2時間もバイクに乗りっぱなしだったら疲れてしまう。コンビニでコーヒーを買って、それを飲む。ついでにホットスナックの棚でラスイチだった「からあげチャン」も買った。味はピリ辛味である。
 からあげチャンを食べ終わったところで、僕は再びバイクを走らせた。それにしても、このカワサキグリーンのバイクはよく走ってくれる。確か、フェレス賞を獲った時に清水の舞台からダイブして買った代物だ。――車の免許を持っていない僕にとっては、バイクが足代わりと言っても過言ではない。
 やがて、バイクは中国山地を抜けていった。兵庫県という広大な土地は、南部と北部、そして淡路島で気候が全く異なる。――北部はこの時期でも山に雪が残っているのだ。僕はこの北部の気候を憎んでいたが、たまにはこの寒さを肌で感じるのも悪くはないか。
 朝来市から養父市に抜けて、漸く豊岡市へと辿り着く。僕が芦屋に引っ越してから随分と経つが、矢張り高齢化社会において豊岡という街はオワコンでしかない。――周りは空き店舗と空き家だらけなのだ。そんな事を思いつつ、僕は母校の高校を通って実家へと向かう。辺りに見えるスナックの残骸は、江戸時代にこの一角が花街だったことの名残であると歴史好きの母親から聞いた。――今から思えば、何も知らなかったあの頃が一番幸せだったのかもしれない。
 スナックの残骸地帯から角を曲がったところに、僕の実家はある。――どこにでもある普通の家でしかない。
 僕はチャイムを押して、母親を呼ぶ。
「僕だ。開けてくれ」
 オカンは、びっくりした顔で僕を見つめた。
「あら、絢斗。どうして戻ってきたの?」
「なんとなく、件の事件が気になったから」
 僕がそう言うと、オカン――御幸は目を丸くしながら言葉を発した。
「アンタも物好きねぇ。――まあ、物好きじゃなければミステリ作家として活躍もしてないかっ」
「それで、事件の方はどうなっているんだ?」
「相変わらず、謎に包まれてるわ。――正直、兵庫県警もお手上げみたい」
「そうか。――仕方ないな」
「もしかして、事件現場へと向かうの?」
「今はまだその時じゃない。少し会いたい人物もいるし」
「会いたい人物?」
「覚えていないか? 錦織恵介っていう中学生の時の同級生なんだけど」
「ああ、いつもアンタとつるんでいたあの子ね。――彼、今は地元の広告代理店で働いているわよ?」
「広告代理店か。――どうしてオカンがそんなことを知っているんだ」
 知っているも何も、基本的なことを忘れていた。オカンはかつて地元の広告代理店で働いていたのだ。僕は父親がいないから、御幸が事実上の父親と言っても過言ではなかった。――故に、無理をしすぎた。
 無理が祟って身体を壊してからは広告代理店を退職。今は――多分、フリーランスのデザイナーとしてボチボチ働いているのだろう。
 オカンは、僕を家の中に入れた上で話を続けた。
「かつての同僚から聞いたわよ? アンタの友達がスリースターに就職したって。まさかそれが恵介くんだとは思わなかったけど」
 ――そういえば、恵介は東京にある東博堂という大手広告代理店に就職したと聞いたな。どうして豊岡へと戻ってきたんだ? 僕はそれが疑問だった。
 疑問に疑問を重ねた結果、僕はオカンに質問した。
「それで、どうして恵介は地元へと戻ってきたんだ? 僕が知る限りでは東京の大手広告代理店へ就職したと聞いたが……」
 僕の質問に対して、オカンは意外な答えを返した。
「――私と同じよ。広告代理店の仕事をする上で、東京で身体を壊して地元へと戻ってきた。でも、前の仕事に対して未練があったんでしょうね。結局、再就職先も広告代理店だったからさ」
 そうだったのか。恵介も、大変な思いをしながら働いているんだな。
「――なるほど。そういえば、今日は土曜日だよな。今すぐにでも会えないか?」
「どうでしょうねぇ。昔のシフトなら第2土曜日と第4土曜日は出勤日だったけど、今の事情は分からないわよ。――正直言って広告代理店も斜陽産業だし、多分休みでしょうね」
「そうか。――なら、恵介の家に向かう」
 そう言って、僕は再びバイクを発進させた。
 向かう先は、当然恵介の家である。会社が休みなら、家にいるはずだ。住所は、多分中学生の頃から変わっていない。
 バイクを少し走らせると、シャッター街と化した商店街が見える。――これでも、一応駅通りなのだけれど。そして、豊岡駅を通り過ぎて家が立ち並ぶ高台の方へと向かった。要するに、昔からある高台の住宅地に彼は住んでいるのだ。結構大きな家だったので、すぐに分かるだろう。
 高台の坂道でバイクを押しながら、僕は「錦織」という表札を探す。
「えーっと、錦織……錦織……あった」
 表札を見つけた僕は、ドアホンのボタンを押した。
「僕だ。――卯月絢斗だ」
 僕がそう言うと、ドアホンのスピーカーから声がした。
「絢斗さん、本当に来るとは思っていませんでした。とりあえず、中に入ってください」
「分かった。――入らせてもらう」
 そういう訳で、僕は錦織恵介の家の中へと入っていった。

 錦織恵介という人物を説明すると――長くなる。彼とは中学1年生のときに同じクラスの隣同士の席になったことがきっかけで友人になった。ほぼ不登校と言っても過言ではなかった小学生の頃に友達が少なかった僕にとっては、貴重な友人でもあった。
 中学1年生の1学期の半ばに、音楽の授業で彼から「好きなアーティストはいるか?」と聞かれたので、僕はその質問に「hitomiというアーティストが好き」と答えた。――要するに、彼とは好きなアーティストが同じだったのだ。いくらマラソン選手がオリンピックで金メダルを獲った時に聴いていたとはいえ、同世代で彼女を好きな人間は貴重な存在だったので、僕は錦織恵介という人物を信頼するようになった。それは僕自体が人間不信の塊だったので――余計と信頼を寄せる結果になった。
 当然だが、話に花を咲かせるのはそのアーティストのことだけではない。京極夏彦の『魍魎の匣』を読んでいた彼に対して「好きなのか?」と聞いた。当然、彼は「大好き」と答えた。――そして、そのまま京極夏彦の処女作である『姑獲鳥の夏』とセットで押し付けられる結果になった。というか、中学校の中で「ミステリ研究会」を結成したのも彼の手回しがあったからこそである。
 ミステリ研究会のメンバーは僕と錦織恵介、そしてもう一人――古谷聡子(ふるやさとこ)という女性がいた。古谷聡子とは進路の関係で離れ離れになってしまったが、僕と恵介に関しては高校まで同じだった。――流石に、大学は別々の場所だったが。
 そして、僕は高校卒業以来、おおよそ14年振りに錦織恵介と再会した。――顔だけ見ると、相変わらず元気そうである。なんというか、彼は関西に拠点を置いているお笑い芸人が東京へ進出する時に見せるオーラ――所謂「上京(じょうきょう)ヅラ」を見せている。
「――詳しいことは僕のオカンから聞いた。なんでも、東京の広告代理店でメンタルを壊して地元へと帰ってきたらしいな」
「バレちゃいましたか。僕、大学を卒業してから東博堂(とうはくどう)という大手広告代理店に就職したんです。――矢っ張り、Webデザインの仕事がしたかったんですよね」
「ああ、それはお互い様だ。――僕だって、不景気じゃなければシステムエンジニアとして働いていたからな」
 僕が大学を卒業した頃は――不景気だった。大学に入学した時さえ東日本大震災で景気が悪かったのに、就職活動は難航を極めた。僕は飽くまでも「地元での就職」を考えていたので、余計と就職活動は難航していたのだ。――今から思えば、豊岡みたいなクソ田舎じゃなくて、システムエンジニアという仕事が求められている神戸か大阪で就職活動をすれば良かったかもしれない。
 それはともかく、錦織恵介との話は続く。
「それで、僕の処女作である『ゴーレムの殺人』と似たような状況での殺人事件って、どういうことなんだ?」
「うーん、何ていうんでしょうか。――笠原玄次さんは、鈍器のようなモノで頭を殴られて殺害されていたんですよね。事件現場には――ヘブライ文字で書かれた紙が残されていました」
「その紙には、なんて書いてあったんだ?」
「そんな事言われても、読めないじゃないですか」
 それはそうか。『ゴーレムの殺人』を書く上でも、ヘブライ語についての勉強はしてこなかった。なんとなく――カバラの秘術で動くということしか知らなかったのだ。――カバラか。そういえば、カバラはユダヤ教に伝わる神秘主義であり、後に錬金術やタロットといった「オカルト」と呼ばれる類のモノにも関わることになった。もっとも、それらは『ゴーレムの殺人』を書いた後に知ったことだが。
 コーヒーを飲みつつ、僕は事件についてより詳しい話を聞くことにした。
「事件現場とかは分かるのか?」
「幹線道路から少し外れた場所に、笠原興業の大きな社屋が建っているじゃないですか。そこの社長室で殺害されたらしいんですよね」
「ああ、あそこか。重機が並んでいるから、中学校の校舎の屋上でもよく目立つ。――事件現場へと向かっていいか?」
「一般人の僕たちが行っても仕方ないじゃないですか。門前払いされるのがオチですよ」
「――そうだな」
 矢張り、そうなるか。――ならば、別の手立てを考えるべきか。例えば、「僕の小説を剽窃(ひょうせつ)した上で殺人を犯している」とかそういう口実を作るべきだろうか。――いや、それはマズいな。口実を考えるとしても、もう少しマトモな口実を考えなければいけない。――どうしたものか。
 色々考えても仕方がないので、僕はなんとなく置いてあった神戸新報を手に取った。――令和6年3月10日付か。新聞をパラパラとめくってみたが、矢張り事件の詳報は載っていなかった。
 ダイナブックで読んだニュース記事には「令和6年3月9日」と書かれていたので、恐らく事件の発生日時はそれ以前だろうか。そう思った僕は、恵介に「古い新聞を取っていないか」と聞いた。
 彼曰く「事件の詳報は3日前の新聞に書いてあった」と言っていたので、僕は令和6年3月8日付の神戸新報を持ってきてもらった。
「これです。――こんな田舎街で発生した殺人事件が一面記事を飾るなんて、なんだか物騒になりましたね」
「そうだな。――芦屋に住んでいる以上、近隣である神戸や西宮で殺人事件が起こっても珍しい話じゃない。しかし、豊岡みたいな場所で殺人事件が起こるなんて――どうかしている」
「まあ、過去に『箕面(みのお)で発生した殺人事件の犯人が豊岡に潜んでいた』なんてこともありましたし……」
「それはそうだな。――不謹慎だが、僕もその現場は見に行った」
「そういうところが、絢斗さんをミステリ作家として形作ったんじゃないんでしょうか?」
「そうだろうか? 僕にはそれが分からない。それに、僕はそろそろ作家業を廃業しようと思っていた」
「廃業? それって即ち断筆ですよね? ああ、勿体ない。僕は絢斗さんの作品、好きですよ?」
「そう言ってくれるのも――建前だろう。本音では『クソ小説』って思っているのがオチだ」
 僕が俯いた顔でそう言うと、恵介は本棚を指さした。――一体、どういうことだ。
「この本棚を見ても――そう言えますか?」
 本棚には、確かに僕の「綾川夏司」としてのノベルスと単行本がびっしりと入っていた。もちろん、処女作である『ゴーレムの殺人』も入っていた。
「が、ガチ勢なのか……」
 僕は思わず絶句した。一応、デビュー自体は溝淡社だが――フェレス賞受賞者の「5年契約ルール」が終了したタイミングで丸川書房での執筆も許可された。丸川書房の担当者曰く「綾川先生の原稿を読み込もうと思ってもパソコンが落ちてしまう」と言わしめる程であり、僕は自覚していないうちに分厚い長編小説を書いていることになる。――多分、どうあがいても京極夏彦のせいだと思うけど。
 世界で唯一であろう「綾川夏司」コレクションを見せつけつつ、恵介はドヤ顔を見せている。――ちょっとだけウザいな。
「何も、処女作である『ゴーレムの殺人』だけじゃないですよ。続編である『邪神の聖遺物』、最近の作品だと丸川書房での初の小説となる『ディストピア京都』も持ってますよ」
「正直言って、『ディストピア京都』は失敗作だ。どうしてそんなモノも持っているんだ」
「持っていて当たり前ですよ。――だって、僕の友人代表として綾川先生の小説は読まないといけないじゃないですか」
「――勝手にしろ」
 デビューしてから5年。最新作である『ディストピア京都』の発売から1年。――僕も、小説家としてそろそろ潮時だろうか。そんな事を考えつつ、僕は改めて殺人事件の話へと戻った。
「小説のことは置いておくとして、事件の話に戻ろう。――神戸新報の記事は令和6年3月8日付だな。僕がパソコンでニュースを見たのは昨日――3月9日だ。つまり、事件発生から今日で3日目ということになる」
「それがどうしたんでしょうか?」
「もしかすると、犯人は――まだ、この豊岡に潜んでいるかもしれない」
「流石にそれはないでしょう。多分、神戸までドロンしたんじゃないんでしょうか?」
「いや、そうとは限らない。犯人が潜むべき場所は――中学校だ」
「えっ? 中学校? それってもしかして……」
「そうだ。僕たちの母校――豊岡第一中学校だ」
 確かに、僕は『ゴーレムの殺人』の中で犯人を被害者の母校である中学校に潜ませた。――要するに、犯人は非力な国語教師の女性である。その方が小説として面白いと思ったからであり、動機も「痴情のもつれ」ということにしておいた。――ぶっちゃけ、ミステリ小説でよくある展開でしかない。
「それじゃあ、事件の犯人は一中の教師の誰かだと言いたいんでしょうか?」
「いや、そうとは限らない。でも――厭な予感がする。ここは僕を信じてくれ」
「――分かりました。絢斗さんがそう言うなら、いくらでも信じますよっ」
 そう言って、恵介はグータッチをしてきた。――もう少し、手加減してほしい。痛い。
「でも、まずは笠原玄次が殺害された現場に向かわないといけないですね」
「――さっきも言ったけど、追い返されるのがオチだ」
 僕がそう言うと、恵介は人差し指を振りながら意外な言葉を口にした。
「――何も、『卯月絢斗』として行く必要はないと思いますよ?」
「それはどういうことだ」
「要するに――『綾川夏司』として行けば兵庫県警も『ノー』とは言わないはずです」
「なるほど。――それは名案だな」
 確かに、「卯月絢斗」という一般人として事件現場へ向かったら門前払いを受ける。しかし、「綾川夏司」という小説家として事件現場へ向かったら――兵庫県警は二つ返事で了承してくれるのか。ここは、彼の提案に乗ろう。そう思った僕は、恵介にあることを頼んだ。
「提案に乗る代わりに――僕の頼みを聞いてほしい」
「ん? どうしたんでしょうか?」
「――古谷聡子に会わせてくれ」
「えっ、聡子ちゃん? 流石にその頼みは聞けないなぁ」
「そうか。――なら、また後日でいい」
 僕は、第一中学校のミステリ研究会で活動を共にするうちに――古谷聡子という同級生に惚れていた。当然だが、年齢的に初恋の相手と言っても過言ではない。なんというか、彼女の明るい性格は――僕の暗い心を照らしてくれていたような気がする。
 進学先の高校が別々になってからは、一方的に別れを告げられてしまい、彼女との関係は疎遠になってしまったが、矢張り――古谷聡子という人間が忘れられない。それだけ、彼女の存在は僕にとって欠かせないモノだったのだ。――今、彼女は何をしているのだろうか? そんなことを考えても仕方がないのだけれど、考えざるを得ない。
 とりあえず、今は古谷聡子のことを忘れたい。そう思った僕は、恵介と共に事件現場へと向かった。
 事件現場では、兵庫県警の刑事が現場検証をしている。――ピリピリした空気の中に入っていいのだろうか?
 僕は、その場にいた刑事の1人に声をかけた。
「――兵庫県警の刑事で間違いないか?」
 なんとなく、ショートカットの髪型が――古谷聡子を思い出す。多分、人違いだろうけど。
 古谷聡子に似た刑事は、僕の質問に答えた。
「はい。確かに、私は兵庫県警捜査一課の刑事ですが……。どちら様でしょうか?」
「僕は、こういう者だ。――小説家の卯月絢斗という人間だが、『綾川夏司』と名乗った方が分かりやすいと思う」
 僕の答えに対して――刑事は目を丸くした。
「えっ、綾川先生!? 本物ですよね!?」
 驚く刑事は、そこで漸く名前を名乗った。
「わ、私は――浅井春奈(あさいはるな)と申します。実は、綾川先生の小説のファンなんです!」
「そうなのか。――あんなクソ小説のどこが面白いんだか」
「そんなに自分のことを卑下しなくてもいいですよ? 処女作である『ゴーレムの殺人』の時代から、ずっとファンですから」
「ということは、筋金入りのファンなのか。ありがとう。――でも、今日はファンサービスに来たんじゃない」
「分かってますよ。――要するに、自分の小説と似た手口による殺人が起こったから、殺人現場へと来た。そういうことですよね?」
 矢張り、見透かされていたか。――仕方ない。
「そうだ。だから、殺人現場を詳しく見せてくれ」
「了解しました。――警部、少しいいですか?」
 浅井刑事が警部と話している間、僕はエントランスで恵介と話をしていた。
「それにしても、流石の交渉能力ですね。僕が小説家だとしても――あんな話は出来ませんよ」
「いや、僕は何もしていない。――ただ、刑事が僕の小説のファンだっただけだ」
「なるほど。――卯月さんが思っている以上に、あなたの小説のファンは多いんじゃないんでしょうか?」
「僕の小説が好きな人間は、相当な物好きだと思う。でも――実際にこうしてファンがいるんだったら、少しだけ鼻が高い」
 僕はただ、事実を述べた。――どうせ、僕の小説の中でも『ゴーレムの殺人』しか読んでいない上辺だけのファンが多いのが事実だろう。
 恵介とくだらない話をしているうちに、どうやら浅井刑事の交渉が終わったらしい。
「綾川先生、警部から『現場に来てくれ』との伝言を受け取りました。――事件現場は、この社屋の2階にある社長室です」
 そう言って、浅井刑事は僕を社長室へと案内した。
「ここが、社長室です」
 社長室は、何の変哲もない普通の部屋に見えた。――ただ、デスクに「笠原玄次だったモノ」がうつ伏せになっている点を除けば。
「なるほど。ここで笠原玄次は殺害されたのか」
「その通りです。――死因は、後頭部に鈍器で殴られたような痕があることから撲殺だと判断いたしました。そして、このような紙が残されていました」
 浅井刑事が持ってきた紙切れには――明らかに日本語ではない文字が書かれていた。かといってアルファベットでもなければ、ハングル文字でもない。なんというか――不気味な文字だと感じた。
 そして、小説を執筆した時の経験上で――僕はその文字に対してある結論をはじき出した。
「なるほど。これはヘブライ文字だな」
「ヘブライ文字? それってイスラエルとかで使われている文字ですよね?」
「そうだ。――浅井刑事の言う通り、ヘブライ語はイスラエルで公用語として使われている言語だ。元々口語であり、古文書等で文字として残されているモノはごく僅かでしかなかった。しかし、19世紀から20世紀にかけてユダヤ教の学者によって復元されて今に至っている。ちなみに、旧約聖書や死海文書もヘブライ文字で書かれている」
「なるほど。――綾川先生って、物知りなんですね」
「物知りじゃなければ、物書きの仕事は務まらないだろう?」
 僕のヘブライ語に対する話に、浅井刑事は頷いている。――こんなモノ、知っても日常生活では役に立たないのに。
 そういえば、最近の研究で「日本人とユダヤ人の間に共通のルーツがあるんじゃないか」って話が出ていたな。今のところ、眉唾な話でしかないが――25年以上前に書かれた京極夏彦の小説でもそういう説が出ていたので、7割ぐらいは事実なのだろう。
 話の論点がズレてしまったことに気付いた僕は、急いで話を軌道修正させた。
「浅井刑事、他に殺害現場で不審な点は見当たらなかったのか?」
「うーん、そうですねぇ……。鈍器が残されていないというのも不思議です。そういえば、『ゴーレムの殺人』ではゴーレムによる撲殺であると見せかけるために、鈍器を残さない殺人を実行していましたね。――理論上、そういう手口は現実では不可能ですけど」
「そうだ。――フィクションなら、何でも書けると思っていたからな」
 確か、『ゴーレムの殺人』では殺人現場に残存していた粘土の欠片から犯人を割り出すということをしていたな。――もっとも、「※良い子は真似しないでください」の注意書きを小説のあとがきとして書くべきだろうと思いながらこのトリックを編み出したのだが。
 そもそも、ゴーレムなんて存在は実在しない。もしかしたら、昔の錬金術師はそういうモノを本当に作り上げようとしていたのだろう。でも――出来ないモノは何をやっても出来ない。辛うじて、現代社会で「ロボット」と呼ばれる類がゴーレムに近いかもしれないが、ゴーレムはそういう機械の原動力を持たない完全な生命体である。――架空の魔法でも使わない限り、実現は不可能だ。
 その後も色々と話したが、残念ながら話の中で事件解決に繋がる手がかりを得ることは出来なかった。
 これ以上現場にいても迷惑になるだけなので、僕と恵介はその場から立ち去ることにした。
「――また、何か分かったら連絡してくれ」
「分かりました。綾川先生は頼りになる探偵ですからね」
「いや、僕は推理小説家だが――探偵ではない。そこは留意してほしい」
「そうですよね。――なんか、すみませんでした」
 事件現場を後にした僕と恵介は、幹線道路沿いの喫茶店で事件解決に向けた話をすることにした。
「――それで、今後はどうするつもりなんだ?」
「僕としては――矢っ張り一中に行くべきだと思うんですよね。もしかしたら、あの周辺に犯人がいる可能性も考えられますから」
「根拠はあるのか?」
 僕がそう問いただすと、彼は――頭を掻いた。
「ゴメン、無いわ」
 ――根拠、無いのかよ。まあ、そんな事だろうと思っていたが。
 しかし、彼との話の中で――事件の手がかりのようなモノは得られた。
「でも、矢っ張り――ここは聡子ちゃんに会うべきでしょうね」
「聡子が、事件に何か関わっているのか?」
「言い忘れてたけど、聡子ちゃんって実は一中で教師として勤務しているらしいんだ」
 聡子が、第一中学校の教師に? その話は予想外だった。そうならそうともっと早く言ってくれ。
 念のために、僕は恵介に彼女の担当教科を聞いた。
「――担当教科はなんだ?」
 彼は、僕の質問に対して――俯いた顔で申し訳なさそうに答えた。
「教科は国語です。――ああ、当然だけど『ゴーレムの殺人』の犯人とは何の関わりも無いと思います」
「そうか。――なら、いいんだ」
 偶然の一致がここまで進むなら、聡子は殺人を犯していることになる。――彼女を愛していた僕にとって、それは考えたくもない話だった。でも、こうなったら彼女に会うしかない。そう考えた僕は、思い切って恵介に話した。
「――仕方ない、聡子に会わせてくれ」
「絢斗さん、その言葉を待っていたんです! 今日は土曜日ですけど、多分彼女は出勤してると思います」
「――なら、行くしかないな」
 僕は、自分で頼んだコーヒー代を支払った上で――第一中学校へと向かうことにした。恵介も、カーキ色の日産エクストレイルで中学校へと向かうらしい。
「それじゃあ、一中で落ち合いましょう」
 そう言って、恵介は日産エクストレイルに乗った。
 恵介が幹線道路へ出たことを確認して、僕も自分のバイクに跨る。喫茶店から第一中学校までの距離は近いが――その日はなんだか遠く感じた。それは、「聡子が殺人に手を染めているかもしれない」という懸念があったからなのか。それとも、単に通学路をバイクで通ることに抵抗があったのか。
 そんな事を考えているうちに、バイクは第一中学校の校舎へと辿り着いた。――陸上部を泣かせていた「心臓破りの坂」をナナハンのバイクで登ることに対して、若干の抵抗があったのは言うまでもない。
 ――校舎の桜並木は、まだ蕾の状態だった。

 21世紀に入ってすぐに大阪の小学校で発生した「児童無差別殺傷事件」を契機として――部外者が学校の中へと入るためには複雑な手立てを踏まなくてはならない。それは、自分がその学校のOBやOGであっても同じである。
 しかし、古谷聡子という中学校教師は――僕の姿を見るなりこちらへと向かってきた。
 彼女は、僕の顔を見て声をかけてきた。
「あら、絢斗くんじゃないの? どうしたの?」
「聡子、突然で申し訳ないが――笠原興業の社長が殺害された事件は知っているか?」
「もちろん、知ってるわよ? 事件の手口を見て『ゴーレムの殺人』っていう小説を思い出したぐらいだけど……」
 僕は、彼女に「事実」を伝えた。
「それで――『ゴーレムの殺人』を書いたのは、僕なんだ。多分、聡子なら読んでいるだろうと思っていたが」
「そんなこと、今更言わなくても分かってるわよ? だって、絢斗くんはずっと『フェレス賞』でデビューするって夢を持っていたじゃないの。もちろん、『綾川夏司』というペンネームが絢斗くんのモノだって知ってたし」
「どこで知ったんだ?」
「恵介くん経由よ。彼、東京の広告代理店で働いていたからさ。――印刷業に関わってる以上、そういう情報はこっそり入ってくるのよ」
 錦織恵介の情報収集力は流石と言うべきか、それとも「クソ野郎」と言うべきか。いずれにせよ、僕にとっては「卯月絢斗という名前の一般人が綾川夏司という小説家として活動していること」は機密情報である。出版社以外には漏らしてはならない。
 僕は、冷たい声で聡子を突き放した。
「そうだったのか。――勝手にしろ」
 それでも、聡子は僕のことが好きらしい。
「相変わらず、冷たいわね。まあ、絢斗くんのそういうところが好きなんだけどさ」
 それにしても、懐かしい校舎だな。僕が中学校を卒業したのが平成19年度――つまり、2008年。そこから16年経ったけど、このコンクリートの建造物は半世紀以上の時を刻んでいる。――もっとも、耐震工事は施工済みだろうけど。
 そんな懐かしい校舎を背にしつつ、僕は聡子と話を続けた。
「まさかとは思うが――笠原玄次殺しに関わっていないよな?」
 僕の質問に対して、彼女は――少し怒りつつ当たり前の答えを返した。
「関わってる訳がないじゃないの。いくら事件の経緯が絢斗くんの小説に似てても、私が殺人を犯すことなんてありませんっ!」
 それはそうか。ここまで偶然が重なっていると雖も、矢張り違う部分は違うのか。――今は、「古谷聡子という人物が事件の犯人であること」を忘れたほうが良さそうだ。
 そうこうしているうちに、恵介も合流してきた。一体、どこで油を売っていたんだか。
「あら、恵介くんも一緒だったの?」
「当たり前だろう。――そもそも、僕に事件の解決を持ちかけてきたのは彼だからな」
 少し遅れた男は、頭を掻きながら話をする。――それが彼の癖なのか。
「いやぁ、スマンスマン。クライアントからの電話で少し到着が遅くなってしまった。――それはともかく、卯月さんと聡子ちゃん、なんだかいい感じになってませんか?」
 聡子が、頬を膨らませつつ怒る。
「そんなことありませんっ!」
 僕も、聡子に同調した。
「そんな訳無いだろ。いくらなんでもそこまでの関係には至ってない」
 恵介は、少しガッカリした顔で話を続けた。
「まあ、それは置いておいて――僕はクライアントと話をする中で『ある情報』を手に入れました」
 矢張り、ここは恵介の地獄耳のような情報収集力をアテにすべきだろうか。僕は彼から詳しい情報を聞くことにした。
「その情報とやらを、詳しく聞かせてくれ」
 彼は、二つ返事で頷いた。
「よく聞いてください。僕は『とあるネットカフェチェーン店』の出店情報を入手しました。もちろん、店舗の施工は笠原興業が行っています。出店場所は幹線道路のパチンコ店の近くです。――そこは、かつて豊岡の裏社会を握っていた『坂月組(さかづきぐみ)』という指定暴力団の敷地に当たるんです。そのネットカフェチェーン店は、どうやら反社会的勢力の敷地を買い取ることに躊躇(ためら)っているらしいんです」
 そういうことか。――しかし、いくらなんでも暴力団がカバラで殺人を犯すことなんてあり得ないだろう。暴力団なら、銃器や刀で殺人を犯すのが常套手段だ。
 関係ないと思いつつ、僕は恵介に質問をした。
「坂月組と笠原興業の間に、何か関係はあるのか?」
 恵介は、首を傾げている。
「うーん、どうだろうか? 僕としては関係ないと思いたいんですけど……」
 首を傾げる男に対して、聡子が口を挟んだ。
「あっ、そういえばこんな噂を聞きました。笠原興業の社長は坂月組の組員に対して『組から離れるように』と唆していたとかなんとか……」
 組から――離れるように? どういうことなんだろうか。僕にはそれが分からなかった。
 それでも、僕は今答えられる状況の中で最善の答えを出した。
「もしかして――坂月組に何か秘密があるとか?」
 僕の言葉に対して、恵介が目を丸くする。
「なるほど。――暴力団というのは表の顔であって、裏の顔は秘密結社なんですね!?」
 ――そんな訳ないだろう。恵介がこういう話をする場合、ガチなのかボケなのかが分からない。そう思いつつ、僕はとりあえず彼に相槌を打っておいた。
「まあ、その可能性は考えられるな。――1パーセントぐらいの確率だと思うが」
「じゃあ、その話に乗りましょう!」
 彼の言葉に呆れつつ、聡子は話をする。
「2人共、本当に坂月組に対して首を突っ込むの? 相手は反社会的勢力よ?」
「ここまで来たら首を突っ込まざるを得ない。それは恵介も思っているはずだ」
 恵介は、鼻息を荒くしながら僕の言葉に答えた。
「もちろんですっ! この事件を解決して名声を上げたら――僕は一躍有名人っすよ! ゆくゆくは芦屋に家を買うなんてことも……ッ!」
「やめておけ。芦屋に住むには――僕みたいな陰キャな人間じゃないとやっていけない」
 確かに、恵介のような陽キャが芦屋に引っ越してきたら、それこそ色んな意味で環境破壊に繋がってしまう。――最悪の場合、六麓荘(ろくろくそう)から出禁を喰らう可能性もある。というか、一発レッドで退場だろう。
 とはいえ、芦屋は別に陰キャでも陽キャでも住める。――ただ、僕の場合「周辺が静かだから」という理由で神戸の東灘区から芦屋に引っ越しただけだ。引っ越した当初は「僕みたいな陰キャが住むには勿体ない」と思っていたが、慣れてみると住んでいるアパートの両隣の住民は優しいし、僕が自殺を図ろうとしてもすぐに警察を呼んでくれる。もっとも、僕は静かに死にたいから――警察を呼ぶことなんて以ての外なのだけれど。そして、警察を呼ばれる度に――「こころの相談窓口」のチラシをテーブルに置いて帰っていく。ここ3年はこの繰り返しかもしれない。
 それだけ、僕は兵庫県警――というよりも芦屋署から「自殺予備軍」として見られているのだろう。けれども、僕はこうして生きている。――いい加減、死なせてほしい。
 野暮な話も終わった所で、僕と恵介、そして聡子はそれぞれの帰るべき場所へと帰った。聡子に「結婚しているのかどうか」を聞きたかったが、聞けなかった。――どうせ、聡子のような女性にはパートナーというか、伴侶がいるだろう。僕みたいな人間なんて、相手にされるはずがない。
 実家に戻ると、相変わらずオカンはデザインの仕事をしていた。――いつまでもディスプレイの前に座っていると、そのうちドライアイになってしまうような気がする。
「あら、戻ったのね。恵介くんとは話ができた?」
「まあ、それなりに。――もっとも、例の殺人事件の話が中心になってしまったけど」
「そんな事だろうと思った。――これ、晩ごはん」
 そう言って、テーブルにはラップがかけられた唐揚げとハンバーグが置いてあった。――わざわざ用意してくれたのか。
 夕食を食べながら、僕は母親と話をする。
「アンタ、小説家としての活動はどうなのよ?」
「正直言って、筆を折りたい。――どうせ僕の小説を読んでくれる人間なんていない」
「そんな事ないわよ? 絢斗が書く小説って、非現実的に見えて実は現実的だし――退廃的な文章も面白いと思うわ」
「それは建前で物事を言っているんだろ。本音を聞かせてくれ」
「建前じゃないわよ? じゃなければ、こんなことなんて言わないし」
「――そうか。勝手にしてくれ」
 僕は、所謂「コミュ障」と呼ばれる人間である。だから――聡子からもフラれてしまったのか。でも、僕は彼女に対する未練がある。タラタラだ。
 晩ごはんを食べ終わった所で、僕は風呂に入った。湯船の中で考えることと言えば――矢張り、件の殺人事件のことだろうか。そんな事を考えても仕方がないけれども、2人の友人の話や母親の話を聞いていると――考えざるを得ない。
 風呂から上がって、とりあえず髪を乾かす。丸坊主を強要されていた中学生の頃を除いて、僕は男性の割に髪が長い方である。故に、髪を乾かすのも一般的な男性より時間がかかる。ちなみに、オカン曰く「アンタは若い頃の田辺誠一に似てる」とのことらしい。――まあ、彼は元々モデル出身だから、早い話がイケメンだということに変わりはないのだが。
 それから、実家としての自分の部屋に入った。僕は整理整頓が苦手だが、オカンが「いつでも帰って来てもいいように」と常に掃除をしている。――僕が掃除嫌いだということを知っての行為なんだろうか。まあ、いいや。それはともかく、僕は持ってきたダイナブックの電源を入れた。
 どうせダイナブックの電源を入れたところで、やることは――あるのか? そう思いつつ、なんとなく小説の原稿を書いていく。恵介や聡子と会ううちに、小説のアイデアが浮かんできたのだ。このアイデアを逃すことは、RPGでメタル系のモンスターを倒しそこねることと同じである。――要するに、「逃がした魚は大きい」というアレかもしれない。
 サブスクでhitomiの曲を流しつつ、僕は順調に原稿を書いていった。京極夏彦ぐらいの分厚さは書けなくても、それなりの分厚さにはなるだろうか。
 しかし、僕の原稿に対するモチベーションは――恵介からのメッセージによって一旦かき消されることになった。
 ――絢斗さん、大変なことが起こりました。ゴーレムによる新たな殺人です。
 ――場所は、例のネットカフェ建設予定地の敷地内です。
 ――今すぐ事件現場まで来られないでしょうか?
 ああ、行くしか無いだろう。僕は着ていたパジャマを脱いで、適当なトレーナーとデニムのパンツを選んだ。そして、トレーナーの上に黒いライダースジャケットを羽織った。
 オカンは――いびきをかいて寝ている。
「すまない。――少し行ってくる」
 小声で母親にそう言って、僕はバイクに跨った。向かう先は――もちろん、幹線道路沿いにあるネットカフェの建設予定地である。なんとなく厭な予感はしていたが、今は目の前にある事件をどうにかしなければならない。そのためには――警察に協力することが、僕にできることなのだろう。そう思いながら、僕はバイクで事件現場へと向かっていった。
 ――クソ田舎の夜道は、バイクで走るにはあまりにも暗すぎた。
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