Phase 02 Awakening Mind

文字数 18,747文字

 現在時刻は午後9時30分ぐらいだっただろうか。幹線道路と(いえど)も、矢張り田舎の夜はすぐに眠ってしまう。――要するに、ほとんどの店は閉店しており、看板の電飾も消えていた。そんな中で、兵庫県警のパトカーの赤灯は悪い意味で目立っていた。
 事件現場では、浅井刑事が遺体の検分を行っている。
 僕は、遺体の検分を行っていた彼女に対して遺体の詳細を聞くことにした。
「浅井刑事、遺体はいかにも『建設業者』って感じの服を身にまとっているが、もしかして、殺害されたのは――笠原興業の関係者なのか?」
 僕の質問に対して、彼女は淡々と答えた。――推理小説でよく見る光景かもしれない。
「――殺害されたのは、倉田翔平(くらたしょうへい)さん。年齢は27歳。目撃者の証言によると、彼は笠原興業の社員で、(とび)職人として働いていたみたいです」
「なるほど。目撃者は誰なんだ?」
「今、私の先輩刑事が事情聴取を行っているみたいですが……あっ、戻ってきました。――ミズシマタカシさん、こっちです」
 浅井刑事が言う「ミズシマタカシ」――聞き覚えがある。中学2年生と3年生の時の同級生で、確か剣道の県大会で優勝した記憶がある。友人関係ではなかったが、生徒会長だったので顔は知っている。
 ミズシマタカシは、僕の顔を見るなり声を発した。
「おう、絢斗か。――俺だ、水嶋貴史(みずしまたかし)だ。恵介の野郎から聞いたぜ? お前が小説家として活躍してること。俺はそういうモノにはあまり興味がないが、確かにお前の小説は面白いと思うぜ?」
「――勝手にそう思ってくれ。それはともかく、殺人事件に居合わせたというのは本当なのか?」
 貴史は、事件発生時の状況を詳しく説明してくれた。
「ああ、本当だ。パチンコで大勝して帰ろうと思ったら、隣の空き地で人が倒れていたんだ。最初は酔っ払いかと思ったが――首に触れると脈がない。これは殺人事件だと思って、俺は警察を呼んだんだ。もっとも、俺の判断は間違ってなかったみたいだが」
「それで、凶器は残っていたのか?」
 僕がそう言うと、彼は――あっさりと存在を否定してしまった。
「残念だが、凶器は残っていなかった。その代わり――遺体の額にヘンチクリンな文字のようなモノが書いてあったぜ」
 彼が言う「ヘンチクリンな文字」――矢張り、ヘブライ文字か。そう思った僕は、彼に件の文字のことを聞いた。
「それって、もしかして――ヘブライ文字か?」
 目を丸くしつつ、彼は僕の質問に答えた。
「ああ、あのヘンチクリンな文字にはそういう名前が付いてるのか。俺は頭が悪いって自覚してるから、そういうモノが分からねぇんだわ」
「コホン。とにかく、その遺体のヘブライ文字を解読したら――犯人の狙いが分かるはずだ」
 ゴーレムは粘土で出来た人形に「emeth」というヘブライ文字の護符を貼り付けると動き出す。そして、護符の「e」を消して「meth」にすると――人形の動きが止まる。要するに、「emeth」はヘブライ語で「真理」を表し、「meth」はヘブライ語で「死」を表すのだ。
 僕がなぜそのことを知っているのかというと――『ゴーレムの殺人』の中で遺体の額に対して「e」にバツ印を付けた「emeth」という紙を貼り付けたからだ。いくらカバラに対して不勉強だとしても、これぐらいは常識だろうと思っていたからだ。――もっとも、そういうことを「常識」だと思う方が間違っていたのだけれど。
 しかし、今回の殺人事件が僕の小説の模倣だとしても――微妙に違いが生じている。『ゴーレムの殺人』では読者が分かりやすいように護符の文字はアルファベットを使用した。しかし、実際に発生した殺人事件の額にはヘブライ文字の護符が貼り付けられている。――矢張り、犯人はそういう知識を持っている人物なのか。
 それと、もうひとつ気になる点がある。それは遺体の状態だ。『ゴーレムの殺人』では被害者の遺体を全裸の状態で放置したが、今回の事件では服を着た状態で殺害されている。それは笠原玄次が殺害された時も同じだったし、倉田翔平が殺害された時も同じである。犯人は、完璧主義に見えて――案外詰めが甘いのか?
 『ゴーレムの殺人』のことを考えつつ、僕は事件を推理していく。――小説の内容をトレースしているように見えて、微妙に脇道をそれていることが気になる。
 今のところ同様の手口で殺害されたのは2人だが、『ゴーレムの殺人』では5人の犠牲者を出した。なぜ5人だというと――要するに、ページ数のカサ増しでしかない。事件の犠牲者を1人だけにしたところで、よほどの天才でない限り物語に膨らみを持たせるのは不可能に近いのだ。あの横溝正史(よこみぞせいし)でさえ、『犬神家の一族』での犠牲者は多い。『八つ墓村』に至っては、モデルとなった事件に合わせて――30人以上の犠牲者を出している。かといって、死者が0人のミステリ小説もあったりする。――子供に対して、そういうモノは刺激が強すぎるからだ。もっとも、子供がそういうモノを読んで実際に殺人を犯すなんてことは滅多にない。しかし、極稀にそういう小説から影響を受けて――殺人を犯してしまうこともある。それは長崎県で発生した小学生による少女殺傷事件が証明しているし、僕はその事件と同時期に――事件の被告人と同じ精神疾患であると診断されてしまった。
 あの事件を境として、僕の人生は転落していった。中学校では僕を善く思わない生徒から虐められつつも真面目に勉強していたが、矢張り担任の納得を得ることはできなかった。兵庫県の内申点制度は担任の裁量で判断されるので――僕は勉強ができても障害者差別で最底辺に近い状態だったのだ。それでも、親の説得で地元の進学校へと進学したが――矢張り周りと同調するのが苦手だった。結局、最悪だった環境を変えるべく2年生の頃に通信制高校へと転校することになったが、その分大学は京都でも随一の名門である同立館大学へと進学した。――同大に進学したところで、就活で結果が得られなければ意味がないのだけれど。
 結局のところ、就活に失敗した僕は障害者雇用で地元のソフトウェア会社でシステムエンジニアとして働くことになったが――矢張り、周りからの偏見と差別で自主的に退社。その後も再就職を目指していたが、僕は結局引きこもりになってしまった。
 流石にケースワーカーも僕の状況を見て「マズい」と思ったのか、数年前に豊岡から神戸へ引っ越すことになった。――要するに、「神戸で再就職先を探しませんか?」ということだった。
 その後の話はトントン拍子に進んでいった。そして、就活の結果――六甲アイランドのソフトハウスで内定を勝ち取ったのだ。
 しかし、不幸体質の僕に幸運は訪れない。未知の疫病の影響でソフトハウス側が内定を取り消したのだ。絶望した僕はその日のうちに阪急の岡本駅と芦屋川駅の間の線路に飛び込んで命を絶とうとした。――誰かが「非常停止ボタン」を押してしまったせいで、僕は命を絶つことができなかったのだけれど。
 疫病によるロックダウン中に(わら)にでも縋る思いで溝淡社のフェレス賞に応募した結果――どういう訳か拙作である『ゴーレムの殺人』が受賞してしまった。それも座談会で満場一致だったらしい。――思わぬカタチで僕に幸運が訪れてしまったのだ。
 その日から、井ノ瀬克典というちょっと風変わりな担当者とやり取りをしつつコンスタントに小説を出していったが、矢張り――溝淡社やファンからの要求は次第にエスカレートしていく。その要求がエスカレートした結果、僕は心身に異常を来たしてしまった。正直言って、限界だったのだ。
 そして、筆を折りかけて現在に至る。――そういえば、僕と並ぶ溝淡社ノベルスの看板作家である東尾攘夷(ひがしおじょうい)はミステリ作家としてデビューしたはずがいつの間にか異能バトルモノを書かされていたっけ? 流石に、担当者が変わった今はちゃんとミステリ小説も書かせてもらっているらしいけど。
 ――そういう回想をしている場合ではない。『ゴーレムの殺人』と似た状況の殺人事件について考えなくてはならない。
 『ゴーレムの殺人』での犠牲者が5人だとして――あと3人は殺害される計算になるのか。なんとしても殺人の連鎖を食い止めなければならない。
 この状況下で、僕にできることはあるのだろうか? 仮にあるとすれば、矢張り――一刻も早い犯人の特定か。数少ない友人である恵介と聡子がシロだとして、怪しいのは――貴史か。
 僕は、なんとなく貴史に対して職務質問のようなモノをした。
「そういえば、今はどんな仕事をしているんだ?」
 彼は、鼻を擦りつつ質問に答えた。――答えるにしても、態度というモノを考えてくれ。
「俺か? 俺は――笠原興業で建築士として働いているが、それがどうしたんだ?」
「いや、なんでもない。ただ――貴史が笠原興業に勤務しているとしたら、次に狙われる可能性も考えられる。それだけは頭の片隅に置いておいてくれ」
「流石に俺が狙われることはないっしょ。俺のことを何だと思っているんだ?」
 相変わらず、この男は話が通じない。――そう思いつつ、僕は話を続けた。
「そんなことはどうでもいい。今は、目の前の殺人事件に向き合わないといけないからな。――それで、もうひとつ質問がある。笠原興業で建築士として働く上で、デザインを手掛けた店舗は覚えていないか?」
 僕がそう言うと、貴史は――顎に手を当てつつ質問に答えた。
「ああ、大手ハンバーガーショップの外装から関西資本の家電量販店まで――色々と手掛けているぜ。もっとも、家電量販店に関してはテンプレ的なデザインがあるからデザインもへったくれもないんだけど。――そういえば、件のネットカフェの建築デザインも手掛けていたのは確かだぜ」
「それは本当か?」
「本当だ。チェーン店だからデザイン自体はテンプレ的なモノだが――やけに個室が多いと思った。まあ、『完全個室』を謳っているネットカフェだから、当然だと思っていたが」
「そのネットカフェチェーン店のフランチャイズ契約は――もちろん笠原興業が締結しているのか?」
「ああ、当然だぜ。――それが弊社のやり方だからな」
 この時点で、事件の手がかりを掴むことはほぼ不可能に近い。しかし、なんとなく事件の全貌は見えてきたような気がする。――そして、これは笠原興業と坂月組の権力闘争と言っても過言ではない。僕が相手にしているのは――殺人鬼ではなく、豊岡の闇に蠢く巨悪なんだろうか。仮に、僕がその巨悪に立ち向かったところで――停滞している豊岡の経済が再び動き出す訳じゃない。でも、豊岡に住んでいる友人や同級生のためにも、この事件は解決しないといけない。
 僕が貴史と話している間に――恵介と聡子も合流した。
「絢斗さん、矢っ張り来ていたんですね」
「当然だろう。――言い出しっぺは恵介じゃないか」
「私からも情報を共有させてもらってもいいかしら?」
「情報を持っている? どういうことだ」
 聡子が、事件に関する情報を持っている? 僕はその情報を彼女から聞くことにした。
「いい、一回しか言わないからよく聞きなさいよ? 私、あれから笠原興業と坂月組の関係についてディグっていたのよね。なんとなく、2つの間に繋がりがあるって思ったからね。それで――繋がりがあったのよ。殺害された笠原玄次は、元々坂月組の組員として組長と盃を交わしていたらしいのよね。――笠原興業のホームページの彼の写真をよく見ると、小指がないのよ。これは私の憶測でしかないんだけど、多分――笠原玄次は何らかのトラブルで坂月組を追われる身になったんじゃないかと思っているのよね。そして、追われる身でありながら一代で巨大な建設会社を築き上げた。――こんなところよ。分かったかしら?」
 彼女の情報で、散らばっていた点と線が少しずつ繋がっていきそうな気がした。僕は、そんな彼女に対して――相槌を打った。
「ああ、分かった。――それと、気になることがある。豊岡という田舎街が急激に発展していったのは今から25年前ぐらいだったな。そこに関わっていたのが――笠原興業だったのか?」
「その通りよ。要するに『私たちが小学生だった頃』に、笠原興業は数々のチェーン店のフランチャイズ契約を結んでいったのよね。――ほら、幹線道路から少し離れたところに複数の店舗が集まったモール街があるじゃん。アレも笠原興業が手掛けたのよ」
 あのモール街は――ドラッグストアや業務用スーパー、家電量販店に100円ショップも並んでいたか。僕が子供だった頃は、買い物の帰りにモール街の回転寿司店で寿司を食べるのが楽しみだった。しかし、大規模な水害を契機にモール街は衰退。気づけば回転寿司店もなくなってしまった。
 モール街を襲った水害――平成16年度台風23号である。それは滅多に台風による被害が発生しない豊岡の街を水浸しにして、多数の死者を出してしまった。モール街は用水路の間に囲まれていて、元々地面が低いところに決壊した川から大量の鉄砲水が押し寄せたから水浸しになるのは当然だろうか。――今から思うと、急激な都市化が進んでいた豊岡の街が衰退する契機となっていたのかもしれない。
 当然の話だが、あの水害を契機として豊岡では水害対策を強化。――その結果、豊岡におけるチェーン店を手掛けていた笠原興業の建築物の大半が水害対策をまともにやっていないことが判明した。要するに――あのモール街が水浸しになったのも、安普請で建てられた建造物が原因になっていたのだ。それで、笠原興業に対する信用は一時的に暴落する結果となった。――もっとも、笠原玄次が力技でそういう悪評をねじ伏せたという噂なのだが。故に、笠原興業を悪く思う人間が一定数いるのも事実である。
 ただ――豊岡市民特有の「保守的な人格」が災いして、笠原興業に対して強いことを言えない人間の方が多い。僕らが子供だった頃は気づかなかったが、大人になると――豊岡という田舎街は何もない。辛うじて、幹線道路に出ると街は賑わいを見せているが、そこから離れると――田んぼしか広がっていない。僕は、その事実にもう少し早く気づくべきだった。気づいていたら――こんなクソ田舎から離れてさっさと神戸なり芦屋なり西宮なりに引っ越していただろう。――まあ、今更「タラレバ」を言っても遅いのだけれど。
 そうなると、矢張り――この事件の犯人は水害の被害者だろうか? 僕はそういう考えに至った。そして、3人に対して水害発生時の状況を聞くことにした。
「そうだ。恵介と聡子、そして――貴史。ちょっと辛い話になるかもしれないが、あの水害が発生した時の状況を詳しく教えてくれないか?」
 僕の質問に対して真っ先にツッコミを入れたのは――聡子だった。
「急にどうしたのよ?」
「ああ、なんとなく――今回の事件は20年に発生した水害と関係があるんじゃないかと思ったんだ」
「なるほどねぇ。――話しても良いわよ?」
 そう言って、彼女は水害発生時の状況について詳しく話し始めた。
「えーっと、私は中央小学校区だったから――水害と言っても大した被害はなかったのよ。家も古くからある高台の上に建っていたし。でも、私の友人は高台の下に住んでいたから――結構大変だったみたいよ?」
「そうか。――ありがとう」
「こんなモノが事件の参考になるかどうか分からないけど、絢斗くんのためなら協力してあげるわよ?」
 正直言って、聡子と話すのは恥ずかしかったが――事件の手がかりを掴むためなら仕方ない。
 次に水害発生時の様子を尋ねたのは――貴史だった。
「俺は田亀野(たがめの)小学校区――要するにド田舎だな。あの周辺はかなり水浸しになった。俺は力持ちだったから、水浸しになった家の片付けを手伝わされていた記憶があるぜ。当然だけど、その年は冬休み返上で授業を受けた。今となっては良い思い出だけど――当時は『めんどくせぇ』って思っていたぜ」
「なるほど。――分かった」
 確かに、あの水害で甚大な被害が発生したのは――貴史が言う通り、田亀野小学校区である。ニュースでもその様子はよく見ていた。なんというか、茶色い水が溢れ出している様子は――僕の頭の中に悪い意味で焼き付いている。
 最後に、恵介にも同じ質問をした。――多分、彼が事件の犯人である可能性は低いだろうけど。
「恵介、あの水害が起こった時ってどうしていたんだ?」
「僕は正法寺(しょうぼうじ)――一応、校区としては中央小学校と五条小学校が選べました。でも、『少しでも近いところがいい』という理由で五条小学校を選んだ記憶があります。それはそうと――水害が発生した時期は暇だったからずっとゲームをやってましたね。ちょうど、『ファイナルクエスト8』が出る前でしたし」
「そういえばそうだったな。――まあ、恵介が事件に関わるってことはまずあり得ないと思っている。というか、そもそもの話――この事件の解決を依頼してきたのは恵介じゃないか」
 この時点で恵介はシロか。もしかしたら聡子もシロかもしれない。――矢張り、怪しいのは貴史か。そう思った僕は、彼に対してあることを聞いた。
「貴史、少しいいか?」
「絢斗、どうしたんだ?」
「突然で申し訳ないが――親戚に秦基博(はたもとひろ)の『秦』という名字の人間はいないか?」
 貴史は、鼻を擦りつつ――質問に答えた。
「残念だが、そういう名前の親戚はいねぇな。力になれなくてゴメンな」
「分かった。――なら、良いんだ」
 仮に今回の事件がそういう類の人物による犯行だとしたら――矢張り『ゴーレムの殺人』をトレースしていることになる。ただ、僕がユダヤ人のルーツに対する知識を得たのは――京極夏彦の小説だ。所詮、フィクションでの話でしかないのだ。
 でも、僕の仮説が正しければ――2つの事件の犯行は、恵介でも聡子でも貴史でもなく――僕が知らない第三者による犯行である可能性が高い。ここは、一旦引き下がるべきか。――これ以上事件現場にいても、兵庫県警に迷惑をかけるだけだし。
 そう思った僕は、一旦実家へと戻ることにした。
「――浅井刑事、何か分かったらすぐに知らせてくれ」
「分かりました。――綾川先生も気をつけたほうがいいですよ?」
 浅井刑事の言葉を受け取りつつ、僕はバイクに跨った。しかし、バイクに跨ったところで――恵介が引き留めようとした。
「絢斗さん、もう帰っちゃうんですか?」
 恵介の気持ちは分からんでもないが、矢張りこれ以上現場にいても何か分かる訳ではない。そう思った僕は――恵介を冷たく突き放した。
「――恵介と聡子も、帰った方がいい」
 2人共、ヤレヤレという顔をしている。当然か。
「仕方ないわね。絢斗くんがそう言うなら、私たちも帰ろうかしら?」
「そうですね。――ここは、絢斗さんの言葉に従いましょう」
 現在時刻は午後10時20分ぐらいだった。後は兵庫県警に任せるとして、僕らはもう事件に関わることもない。そう思いつつ――僕はバイクのギアを入れた。そして、そのまま暗闇に包まれた幹線道路から実家へと戻っていった。
 実家に戻ると――相変わらずオカンはいびきをかいて寝ていた。起こすのは申し訳ないと思いつつ、とりあえずパソコンの電源をシャットダウンした上で――リビングの照明を常夜灯にしておいた。
 それから自分の部屋に戻ったところで、僕はダイナブックをスリープから復帰させた。『ゴーレムの殺人』の原稿ぐらいSSDスティックに保存すれば良いんだろうけど、アレを「駄作」だと決めつけていた僕は――故障したダイナブックに原稿を残してしまった。というか、故障したダイナブックごと原稿を闇へと葬るつもりだったのだ。でも、僕の駄作をトレースした事件が地元で発生していることは事実であり、最悪の場合――文庫版として発売されている『ゴーレムの殺人』は発売停止処分になってしまう可能性もある。そう思っていた時だった。溝淡社からビデオチャットの招待メールが届いたのだ。
 恐る恐るビデオチャットの招待メールをクリックすると――そこには井ノ瀬克典の顔が映っていた。

 井ノ瀬克典は僕の顔を見るなり――口を開いた。
「綾川先生、聞きましたよ? なんでも『自分の処女作と同じ手口で殺人事件が発生してしまった』と。その件に関して――弊社に関する問い合わせが絶えないんです。もちろん、現時点で綾川先生の作品を出版停止にするつもりはないんですけど……」
 彼はかけている眼鏡を縦に動かしつつそう言った。――正直、少しあざとい。
 そして、彼は話を続けた。
「そうそう、例の事件で思い出して『ゴーレムの殺人』の生原稿を読んでいるんですけど、少し気になることがありまして」
「気になること?」
「はい。突然ですが、『ゴーレムの殺人』の舞台は神戸ですよね?」
「確かに――『ロケハンが面倒くさい』という理由で神戸を舞台にしたが、それがどうしたんだ?」
 僕の質問に対して、彼は申し訳無さそうに答えた。
「実は、豊岡で発生した連続殺人事件の前に――似たような事件が神戸で発生していたんです。当然、容疑者は捕まっていません」
「なるほど。――もしかして、神戸で発生した事件の容疑者がこちらに潜んでいると言いたいのか?」
「こちら? ――綾川先生、今どこにいるんでしょうか?」
「ああ、豊岡だ」
「――そうですか。なら、話は早いですね」
「話が早い? どういうことだ」
「せっかくなんで、兵庫県警に『神戸で発生した殴殺(おうさつ)事件』との類似点を見出してくれませんか?」
「そういうことか。――明日で良ければ、井ノ瀬さんの話に乗ろうと思う」
「ありがとうございます!」
 その後も、黒縁眼鏡の担当者との話は続いた。
「ところで……小説の進捗状況はどうなっているんでしょうか?」
「全く以てダメ。――正直、スランプ状態なんだ」
「でも、ファンは『三階堂冬彦(さんかいどうふゆひこ)』シリーズの新作を待ちわびています。前作である『鵺の鳴き声』から2年も経ったら、ファンもそろそろ痺れを切らすと思いますよ?」
「そうか。――勝手にしてくれ」
「冷たいですねぇ。まあ、綾川先生は元々筆が早い方ですから……そんなに思い詰めることはないと思いますよ?」
 確かに、僕は他の小説家と比べたら筆が早い方かもしれない。処女作である『ゴーレムの殺人』は執筆開始から僅か1ヶ月弱で脱稿。そして、『ゴーレムの殺人』の続編に当たる『邪神の聖遺物』は3ヶ月で脱稿した。――というか、僕は基本的に小説を「ロケットの切り離し」のように順々と執筆している。
 そして、『ゴーレムの殺人』から始まった『三階堂冬彦』シリーズは令和の溝淡社ノベルスを代表するシリーズとなった。そもそもの話、「三階堂冬彦」という主人公自体が「二階堂黎人」と「京極夏彦」のもじりであり、どちらも現役バリバリの小説家なので――「いつか怒られるんじゃないか」と思いながら『三階堂冬彦』という探偵小説を執筆していた。しかし、溝淡社からの内輪ウケは良い。――多分、フェレス賞に提出したペンネームが「綾川夏司」だった時点でこっそり笑っていたのだろう。
 『三階堂冬彦』シリーズは現時点で4作発売されている。処女作である『ゴーレムの殺人』、第2作である『邪神の聖遺物』、第3作である『狂気の科学者』、そして最新作である『鵺の鳴き声』だ。――このうち、文庫化されているのは現時点で『ゴーレムの殺人』だけである。ノベルスから文庫化される作品は少ないが、僕は「できるだけ多くの人に読んでほしい」という事もあって文庫化に対して寛容である。
 しかし、正直言って『狂気の科学者』の時点で井ノ瀬克典に対して「ライト文芸レーベルである溝淡社タイガー文庫に移籍したい」と申し出た。それは溝淡社ノベルスがいつ廃刊するか分からない状況の中で「新書判の2段組小説」を出し続けて良いのだろうかという懸念が僕の中であったからだ。それならまだライト文芸として出版した方が売れるだろう。僕はそう思っていた。
 けれども、世間と担当者は「綾川先生の小説はノベルスで出してこそ」と望んでいた。ヤケクソで脱稿した『鵺の鳴き声』はノベルスとソフトカバーの同時発売になったが――矢張り、売れたのはノベルスの方だった。理由は「単行本だと綾川先生の迫力がなくなる」とのことだった。そして――僕は万策尽きた。万策尽きたのがちょうど溝淡社の「5年ルール」が終了したタイミングだということもあって、ライバル会社である丸川書房向けに『ディストピア京都』というホラーミステリ小説を書き上げた。
 『ディストピア京都』は――執筆責任者である僕も認めるほどの駄作だ。多分、精神が病んでいる時に執筆し始めたので余計とそう感じるのだろう。要するに、「安倍晴明の生まれ変わりが荒廃した未来の京都で無双する」という感じの話だったと思う。――これじゃあ、よくあるネット小説を同じじゃないか。
 結局、『ディストピア京都』の売れ行きはイマイチだった。――当然だろう。精神を病みながら執筆していたからな。
 そういう訳で、僕は溝淡社から「三階堂冬彦の新作」を要求されていた。――矢張り、世間が望むのはその手の探偵小説なのだろう。しかし、万策尽きた状態の僕に新作が書けるのか? そう思うと、ダイナブックの前で過呼吸を起こすことも度々あった。当然だが、執筆した『三階堂冬彦』の原稿をゴミ箱にドラッグしては「ゴミ箱を空にする」というボタンをクリックしたこともあった。――そういう悪循環を繰り返すうちに、2年という月日が経過したのか。
 2年という無駄な月日を過ごすうちに、僕の執筆に対するモチベーションはすっかり失せてしまった。――筆を折ろう思っているのには、そういう事情があるのだ。どうせ、僕の小説なんて誰にも読んでもらえないからな。
 けれども、担当者である井ノ瀬克典とこうしてビデオチャットをしていると――「何かを書かなければ」と思うようになった。多分、一連の事件の中で恵介や聡子と接触することによって、僕は「小説家として失ってしまった心」を取り戻そうとしているのだろう。
 それから、僕は井ノ瀬克典とのビデオチャットを終えた。――書かなければ。

 *

 兵庫県警に解決を丸投げした一連の事件のことを気にしつつ、僕はダイナブックで原稿を書いていた。今のところタイトルは考えていないが、進捗状況は順調である。
 登場人物は――矢張り三階堂冬彦という探偵を主人公にして、シリーズで初めて相棒という存在を起用することにした。相棒のモデルは言うまでもなく錦織恵介であり、職業はジャーナリストだ。本来ならモデルに合わせて広告代理店のデザイナーにすべきだろうけど、それだと生々しすぎる。だから、敢えてジャーナリストという職業にした。――もしかして、彼からモデル料を請求されるのだろうか。
 小説のあらすじは単純なモノにした。――要するに、原点回帰を狙ったのだ。ザックリ言えば「芦屋の実業家の家で発生した遺産目当ての連続殺人事件を三階堂冬彦が解決する」といった具合である。ベタと言ってしまえばそれまでだが、この展開は探偵小説における「基本中の基本」である。
 ただ、殺人のトリックは――どうすべきだろう。ここはストレートに毒殺を選ぶべきか、それとも絞殺にすべきか。斬殺や撲殺も悪くない。――グロテスクかつミステリアスに考えるしかないか。
 そういえば、兵庫県警は一連の事件を「撲殺」と判断したが、それは飽くまでも兵庫県警の判断であり――本当に撲殺だとは限らない。もしかしたら、別の死因も考えられる。窒息死とか、圧死とか、溺死とか……。――溺死? ああ、そういうことか!
 一連の事件の遺体についてある「考え」に至った僕は、とりあえず恵介のスマホに電話をかけた。
 恵介は、眠そうな声で話しかけてきた。
「ふぁーあ……今、何時だと思っているんですか?」
「すまない。至急連絡したくて電話にした。それはともかく――一連の事件の死因は撲殺じゃない。僕の考えが正しければ、事件の死因は溺死だ」
「溺死? 事件現場に水のようなものは見当たりませんでしたが……」
「これは飽くまでも僕の考えに過ぎないんだけど、事件の凶器は――氷だ。氷は溶けると、水になる。仮に、5キログラムの重さの氷があったとする。その氷が溶けた際に得られる水の量は――5リットルだ」
「絢斗さん、もしかして……氷で後頭部を殴打した上でそれを溶かして――被害者に飲ませて溺死させたと言いたいんでしょうか!?」
「そうだ。――ここは僕を信じてくれ。そして、調べてほしいことがある」
「なんでしょうか?」
 僕は、恵介に「例のアレ」を依頼することにした。
「とりあえず、令和6年2月1日から令和6年2月29日までの間に神戸で『氷を凶器とした殺人事件』が発生していないかどうかを調べてくれ」
「なるほど。――分かってますよ!」
「今日はもう遅いから、調べるのは明日で構わない」
「じゃあ、調べた結果を――スマホに送信しますね」
「頼む」
 僕の見解が正しければ――一連の事件は所謂「完全犯罪」の元に成立しているのだろう。でも、犯罪に「完全」という言葉は存在しない。きっと、どこかで「不完全」な部分があるはずだ。
 ふと、オカンの胎内にいた頃を考える。胎内は温かい羊水で満ちていて、心臓の鼓動の音が聴こえる。それは産まれてくる前に聴こえる原始の音であり、生命の音でもある。やがて、産まれてくるその日になると、オカンは下腹部の激痛を訴えた。――所謂陣痛だ。よく「腹を痛めて子供を産む」と言うが、オカンが僕を産んだ時のエピソードを聞く限り、あながち間違ってはいないのだろう。
 陣痛に耐えながら、僕という存在が子宮口から産道を通り抜ける。――光が見えてきたところで、眩しさのあまり産声を上げるのだ。出産は生命の神秘であり、大事な儀式でもある。痛みと引き換えに僕という新たな生命が産まれたから当然か。
 しかし、オカンの場合――僕が産まれる前にある生命を喪っている。要するに、胎内には僕以外のもう一つの生命が宿っていたのだ。その生命はオカンが交通事故に巻き込まれた際に死産。――辛うじて、「卯月絢斗」という僕だけが助かった。
 双子として産まれてくるはずだった片割れは女の子であり、オカンも「絢乃」という名前を考えていたらしい。――もしも、あのまま双子として産まれていたらどうなっていたのだろうか? 矢張り、育児に対して2倍の苦労を強いられていたのか? 今更そんなことを考えても仕方がないけど、両親が離婚した原因の一つが――双子の片割れを死産してしまったことである。僕が産まれる少し前にバブルが崩壊して、父親は自棄になっていた。そして、アルコールに溺れてしまった。アルコールに溺れた父親は、運転中に事故を起こした。――飲酒運転だった。その結果、僕は胎内で独りぼっちになってしまった。当時は飲酒運転での罰則が今ほど厳しくなかったので、父親は交通事故を起こしたその日のうちに釈放されたが――当然、オカンは激怒した。そして、そのまま出産のために豊岡へ里帰りした。そういう事情もあって、僕は父親の顔を能く知らない。――そんなこと、知らないほうが幸せなのかもしれない。
 豊岡での里帰り出産を経て千葉という事実上の出生地へと戻った僕だったが、矢張り夫婦関係はギクシャクしていた。父親はアルコール依存症に加えてギャンブル依存症になっていたので、パチンコで負けては消費者金融から金を借りていた。そして、「返済できない」という理由であらゆる消費者金融から出禁を喰らううちに、ヤミ金融にも手を出すようになってしまったのだ。――ヤクザと思しき人物が家に押し寄せたこともあったらしい。
 堕落した父親を見限ったオカンは、僕が1歳になった頃に離婚届を提出した。その結果――僕はオカンと惨めな思いをしながら豊岡で暮らすことになったのだ。
 そういえば、僕は――本来存在し得ないはずの人格を発現することがある。それは、『ジキルとハイド』のように無意識のうちに発現するのだ。なんというか――心臓の鼓動と同調するように頭が脈を打つ。――まさしく、今置かれている状況だ。
 ――どくん。
 いい加減にしてくれ。
 ――どくん。
 また、この幻聴か。
 ――どくん。
 どうなっているんだ!?
 ――どくん。
 ――どくん。どくん。
 ――どくん。どくん。どくん。
 ――どくん。どくん。どくん。どくん。
 ――どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。
 う、うわああああああああああああああっ!

 *

 ここは、どこだ。――ああ、実家か。
 まったく、こんな所で私という人格を目覚めさせるなんて、絢斗も罪なヤツだわね。
 えーっと、ダイナブックには――書きかけの小説の原稿が表示されてる。
 私なら、もう少しこうするんだけどな。――こんな事、絢斗の躰を借りた状態で言っても仕方ないか。
 えっ? 私? 私の名前は――卯月絢乃だけど? 死んだ双子の片割れよ。――厳密には、死んだ訳じゃないけどさ。
 私、あの交通事故の後に――どうやら絢斗の心の中で人格を共用するようになってしまったらしいのよね。当たり前の話だけど、このことを知ってるのは――絢斗の親友だった恵介くんと聡子ちゃん、そして私の母親である御幸だけ。他の人には内緒よ。
 なんというか、私という人格が発現しちゃってる時の絢斗は――俗に言う「トランス状態」らしいのよね。昔の人が「狐憑き」とか言ってたアレよ。だから、絢斗自身は私の記憶を保持してない。でも、私は絢斗としての記憶を保持してるから――「卯月絢乃」という二重人格者が出来上がっちゃうのよ。ちなみに、絢斗は気づいてないと思うけど――「綾川夏司」というペンネームは私が考えたの。
 そして、うっかり絢斗の人格で「綾川夏司」として溝淡社に原稿を送ったら――フェレス賞を獲っちゃったって訳。まあ、結果的に「綾川夏司」という推理小説家はそれなりに売れてるから良いんだけどさ。
 あれ? ダイナブックのブラウザが立ち上がってる。――ふむ、凶器不明の連続殺人事件か……。ああ、豊岡を騒がせているあの事件ね。「綾川夏司」の処女作である『ゴーレムの殺人』と手口が似てることから絢斗の人格で事件を追っていることは知ってたわ。でも、どうすればいいんだろうね。絢斗は「事件の凶器が氷であること」まで突き止めて――意識を失った。そして、「私」という人格が目覚めたのね。
 こうやって「私」という人格が発現するのは――半年振りかしら? 前に「私」という人格が発現した時は、精神が破綻していた絢斗の人格と混濁(こんだく)してアパートの一室をメチャクチャにしてしまったけど、今は絢斗の精神も安定してる。だから、大丈夫。
 ――ここは、私に任せなさい。

 ――頭の中で女性の声がする。
 これが僕の頭の中にあった「違和感」の正体なのか。僕は失っていた意識を覚醒させた上で――独り言を言った。
「もしかして、喋っているのは――『頭の中のホムンクルス』なのか?」
 頭の中の「ソレ」は、僕の質問に対して――自信あり気に答えた。
「絢斗がそういうのなら、そうでしょうね。『ホムンクルス』って、本来ならフラスコの中で育つ人造人間だけど、私は――どういう訳か、絢斗の脳の中で胎児として生を受けた。その結果、絢斗は『二重人格者』となった訳。要するに、絢斗が気を失っているときに――『卯月絢乃』という『私』の人格が覚醒する。そういうことよ」
 なるほど。――頭が脈を打つように痛む時があるのは、僕の頭の中にあった「卯月絢乃」の人格が覚醒しようとしていたからなのか。心臓の鼓動と同調するように頭がどくどくと痛むのも、なんとなく分かるかもしれない。
 しかし、なぜ――このタイミングで「卯月絢乃」という人格が覚醒したのだろうか? 僕は改めて頭の中の彼女に対して質問した。――なんだか、シュールだ。
「絢乃、どうして――このタイミングで人格を覚醒させたんだ?」
 彼女は、悩みながら僕の質問に答えた。
「うーん、難しいわね。でも――これだけは言えるかも。絢斗、もしかして探偵として殺人事件の解決を依頼されてるんじゃないの?」
「確かに――僕の処女作である『ゴーレムの殺人』と似た手口による殺人事件が発生したのは事実であって、兵庫県警から事件の解決を依頼されている」
 僕がそう言うと、無意識のうちに体が動き出した。これは――絢乃の人格がそうしているのか。
 ダイナブックの前に座るなり、僕――いや、絢乃はプレゼンソフトを起動した。
「まず、『凶器が鈍器ではなく氷塊である』という着眼点は正しいわね。氷で相手を撲殺した上で、口に氷を含ませる。そうすると――『凶器のない撲殺死体』が完成するって訳。しかし、当然だけど氷は固体。このままだと口に含ませることが出来ないわ。それで私が考えたのは――『何らかの装置で氷を溶解させて、それを口に含ませた』って手口よ。それを実現できる装置は――『携帯型酸素吸引器』かしら?」
 そうか。酸素吸引器なら――氷を溶かした上で口にソレを含ませることができる。そうなると、一連の事件の犯人は――そういうモノの扱いに慣れている医療関係者か。
 ふと、ダイナブックの画面を見ると――見事なプロファイリングが完成していた。
「このプロファイリング、もしかして絢乃がやったのか?」
「そうよ。――絢斗、たまに『無意識のうちに小説が完成していた』っていう経験をしたことがあるわね?」
 言われてみれば、確かに――「僕の文章ではない小説」がダイナブック上に出来上がっていることがある。それ、絢乃のアイデアだったんだな。
 というか、僕が無意識のうちに執筆していた小説の大半は――絢乃が完結させていたのか。彼女に対して足を向けて眠れないな。――もっとも、向ける足なんてないのだけれど。
 そんなことを思いつつ、僕はプロファイリングを見渡す。――この顔、見覚えがあるな。確か、中学校の時の担任教師で――名前は「福代加世(ふくしろかよ)」だったな。担当教科は国語だったか。――あれ? 国語教師? ――ここまで、僕の小説の処女作と展開が一致する事ってあるのだろうか?
 僕は、絢乃に対して福代先生の件を尋ねた。
「どうして、明らかな部外者である福代先生を事件の容疑者に含んだんだ?」
 その疑問は――一瞬で氷解した。
「簡単よ。――彼女、神戸在住だから」
 ああ、そういうことか。確かに、僕は「卯月絢乃」の人格を覚醒させる前に――恵介に対して「神戸で同様の手口による殺人事件が発生していないかどうか」の調査を依頼した。――そして、スマホにメールが入っていた。
 ――絢斗さん、でかしました!
 ――確かに、神戸で今回の事件と似たような手口による事件が発生していたのは事実です!
 ――でも、妙なんですよね……。
 ――容疑者として指名手配されている「福代加世」って、どこかで聞いたことある名前なんですよね。
 ――あっ! 中学生の時の担任の先生!
 ――それも、国語の先生です!
 ――これが事実だとしたら、大変です!
 ――一刻も早く事件を解決しないと!
 メールの文章はそこで終わっていた。――もしかして、彼の身に何かあったのか。
 僕は、嫌な予感を感じつつも――メールに対して返信した。
 ――恵介、ありがとう。
 ――とりあえず、これは有力な情報として頭の中に入れておく。
 ――何かあったら、すぐに連絡してくれ。
 これでいいか。既読が付かないのが気がかりだけど、まあ――大丈夫だろう。多分、恵介は無事だ。
 それから、僕は絢乃と話――というか、独り言を続けた。
「それで、福代先生が一連の事件の犯人だということは本当なのか?」
「どうでしょうね? 流石の私でも、それは分からないわ。多分、神のみぞ知るんじゃないのかしら?」
「そうか。――なら、仕方ないな」
 当たり前の話だが、絢乃の声は――僕の耳にしか聴こえない。なぜなら、彼女は僕の脳の中で直接喋っているからだ。――一歩間違えば、統合失調症の患者として精神病棟へと幽閉されてしまう。とはいえ、病院でも「脳に異常はない」と言われているので――多分、日常生活を送る分には問題ないのだろう。
 そうこうしているうちに、時刻は――午前7時になろうとしていた。「卯月絢乃」という人格が覚醒してから3時間は経過している。――引っ込まないのか。
 しかし、彼女は引っ込むどころか――僕の頭の中でずっと喋っている。
「そうだ、せっかくだから――聡子さんに会いたいわ」
「突然『会いたい』と言われても、彼女は中学校の教師だ。――そんな都合良く会える訳がないだろう」
「スマホを見てみなさいよ」
 彼女にそう言われたので――僕は、スマホのメッセージアプリを起動した。
 確かに、メッセージアプリには聡子からのメッセージが入っていた。
 ――絢斗くん、今日会えない?
 ――会えるんだったら連絡して。
 聡子がそう言うなら、会うしかないか。僕は、メッセージに対する返事を送信した。
 ――聡子、メッセージは見させてもらった。
 ――どこで待ち合わせすればいいんだ?
 既読が付いた後、すぐに返事が来た。
 ――そうねぇ……ここは、絢斗くんの家で会えないかしら? どうせ実家にいるんでしょ?
 ――すぐに向かうから、ちょっと待ってて。
 聡子の家は――僕の実家の3件隣にある。つまり――ご近所様である。故に、付き合いは小学生どころか幼稚園、いや、保育園の頃まで遡る。
 チャイムが鳴った。――聡子が来たのか。
 僕は、ドアを開ける。ドアの前には、紙袋を持った聡子が立っていた。
「絢斗くん、これ――食べて?」
 そう言って、聡子はお菓子を手渡してきた。
「――ケーキか」
「そうよ。色々考えてると、糖分が不足するんじゃないかって思って」
「そうだな。――ありがたく頂く」
 聡子を部屋の中へと入れた上で、僕は――一連の事件に対して現在分かっていることを説明した。
「なるほど。――あまり考えたくないけど、福代先生が容疑者であることまで突き止めたのね」
「ああ、そうだ。――もっとも、半分ぐらいは僕じゃなくて絢乃が突き止めたんだけど」
「絢乃ちゃんって――絢斗くんが時折話してくれる『もう一人の自分』のことかしら? まさか、本当に現れるとは思わなかったわ」
 聡子に言われたのなら――もう、話すしかないか。
「聡子、この話は眉唾モノだろうけど――よく聞いてくれ。僕は、本来双生児として産まれるつもりだった。でも、胎内にいるときに母親が交通事故に巻き込まれた。――僕は助かったけど、片割れはその時に消滅した。でも――頭の中に妙な違和感をずっと覚えていた。違和感を覚えるあまり、僕は激しい頭痛に襲われた後――意識を失うことがあった。そして、無意識のうちに僕は他の人格に体を支配されていた。――それが、『卯月絢乃』の正体だ」
「それで、今の人格は『卯月絢斗』なの? それとも、『卯月絢乃』なの?」
「厳密に言えば――絢斗と絢乃の両方の人格を併せ持っている状態だ。でも、体の支配権は僕――つまり、絢斗が握っている」
「へぇ、面白いわね。――お兄ちゃんに報告したら、興奮して鼻血を出して倒れるかも」
「あはは、冗談は止してくれ。――もっとも、聡子の場合は『本気で言っている』可能性も考えられるか」
 確か、聡子の兄は――脳外科医になるべく兵庫県でも有名な医科大学に進学していたな。僕がその話を聞いた時点で大学2回生だとして――18年の月日が経過しているから現在は38歳か。――もしかしたら、僕を「貴重なサンプル」として研究対象に入れる可能性も考えられる。――今はまだその時ではないか。
 聡子の兄の事を頭の片隅に置きつつ、僕は話を殺人事件へと軌道修正した。
「しかし――恵介からの返事が来ないな。一応、来ていたメールに対する返事は送信したのだが……」
「言われてみれば、私も恵介くんにメッセージを送ったけど――返事が来てないわ」
「そうか。――胸がざわつくな」
 それでも、聡子は「1パーセントの可能性」に賭けていた。
「根拠はないけど、恵介くんは事件に巻き込まれるような人間じゃないわ。――きっと、大丈夫よ?」
「聡子がそういうのなら――ここは、信じるしかないか」
 しかし、僕が思っていた恵介に対する生存確率は――ある知らせを受けて、ほぼ0パーセントに近い状態になってしまった。
 滅多に鳴らない僕のスマホが――鳴っていた。
 聡子が、僕に「スマホを鳴っていること」を知らせてくれた。
「恵介くん、スマホ鳴ってるわよ?」
 この番号は――兵庫県警の浅井刑事か。何か新しい手がかりでも掴めたのだろうか?
 僕は、とりあえず吉報を待ち構えながら「通話」ボタンを押した。
「もしもし、何かあったのか?」
「綾川先生! 大変です! 新たな事件の被害者が出てしまいました!」
「そうか。被害者は誰なんだ?」
「――錦織恵介さんです」
 ――えっ? 恵介が事件に巻き込まれた?
 浅井刑事の言葉で、僕の心臓の鼓動は早鐘を打つ。
 焦燥しつつも、僕は浅井刑事に対して事件現場を尋ねることにした。
「そ、それで――事件現場はどこなんだ?」
 浅井刑事は、申し訳無さそうに――事件現場を口にした。
「綾川先生にとって大変聞き苦しい場所かもしれませんが――錦織さんの勤務先である『スリースター』という広告代理店のオフィスです」
 ――矢張り、そういうことか。
 僕は、心臓の鼓動を落ち着かせつつ――聡子にあることを告げた。
「聡子、僕は今から――事件を終わらせに行く」
 当然だけど、聡子は半信半疑だった。
「それ、本当なの? 事件の犯人は――大切な恩師かもしれないのよ? それでもいいの?」
 静かな怒りを露わにしつつ、聡子に言葉を返す。
「ああ、いいんだ。――これ以上、事件の犠牲者が増えて堪るかっ!」
 黒いライダースジャケットを袖に通して、僕は玄関へと向かった。
 玄関には、オカンが待っていた。
 オカンは、僕に言葉をかけてきた。
「――絢斗、大切な友達を救いにいくのね?」
 僕の答えは――分かっていた。
「――もちろんだ。多分、恵介はまだ生きている。アイツ、意外としぶといからな」
「じゃあ、行っておいで。――私は、事件が解決することを祈っているから」
 オカンの言葉を背にしつつ、僕はカワサキグリーンのバイクに跨る。そして、ギアを入れて――バイクを発進させた。
 ――行き先は、今更言うまでもない。
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