第11話

文字数 3,945文字

 いくら不破に開発されて敏感になったとはいえ、そういった意図のない影の手に反応してしまうなど、あさましいにもほどがある。影もさぞかし呆れたことだろう。そう思うと、このまま消えてしまいたいくらいの自己嫌悪に襲われる。すっかりうちひしがれてうつむいた月森に、影が謝罪の言葉を告げた。
「失礼いたしました。月森さま、ご無礼をお許しください」
「え」
「私の手許が狂ってしまったばかりに、おつらい思いをさせてしまいました」
「違う、おれが……っ」
 月森の背中を支える腕に力が込められる。それ以上いうな、とでもいうように。いつもと同じ淡々とした、でもわずかに柔らかみを帯びた声音で影がささやく。
「月森さまに非はありません。なにもお考えにならず、今は私にすべてお任せください」
 月森が自責の念にかられていることを察したのだろう。その必要はないと、影はそう伝えてくる。
 泣きそうになった。
「ん……、影、ごめん。ありがとう」
 素直な月森の感謝の言葉に、影が一瞬、苦しげに目を伏せたことに月森は気付かなかった。

 *****

 身体を洗ってすっきりすると、月森は服を着替えて祖母の待つ家に帰った。真っ青な空高く昇った太陽が容赦なく地上を灼きつけるが、月森の実家と不破家のあるこのあたりは特殊な土地柄のせいか、真夏とは思えないほどひんやりとしている。
 祖母は台所で忙しく立ち働いていた。どこからひっぱり出してきたのか、見たこともない大きな鍋からはもうもうと湯気が立ちのぼり、テーブルのうえにはところ狭しと大皿が並べられている。
「だれか、お客さんが来るの?」
 唖然としながら尋ねた月森を振り返ると、祖母は外泊を咎めることなくうなずいた。
「今夜は祭りじゃけえね」
 さっきも聞いた台詞だ。
「祭りって?」
「行ってみるかい」
 返事になっているようないないような。
「おばあちゃんも行く?」
「うちは用意せんといけんから、おまえひとりで行っといで」
「え、いや、じゃあ手伝うよ」
「おまえは手を出したらいけん。これはうちがやらんといけん仕事じゃけえ、かまわんと、おまえは祭りに行っといで」
 ぴしゃりといわれてしまい、月森は悄然とする。
「今夜は、不破の坊から離れたらいけんよ。はぐれんように、ようひっついときさんよ」
 祖母の言葉に月森は目を見開く。
「不破は出かけてるって、さっきご住職が」
「じゃけえ、祭りに行っとってんじゃろ」
 不破が、祭りに?
 そういわれてみるとたしかに、先ほど住職に不破の所在を尋ねたとき、「今夜はお祭りだからね」という答えが返ってきた。それなら最初から「不破は祭りに出かけている」と教えてくれればいいものを、となにやら腑に落ちない。住職は、性格の悪い息子とは異なり、いたずらに他人を弄するような人格ではない。あの不破家の家長だけあって、今日のようにときおり思いがけないふるまいをして月森の度肝を抜くこともあるが。
「祭りって、どこであるの」
「おまえたちの行っとる学校があるへんじゃろ」
 月森はすでに半分くらい、祭りに行く気になっていた。なにしろ、あの不破と祭りという組みあわせが異色すぎる。興味をひかれてもしかたない。
 月森は、祭りというものを体験した記憶はないが、それがどういうものなのかはなんとなくわかっているつもりだ。概念はうっすら理解している。
 祖母は手を拭きながら月森のそばを通って座敷に向かった。なんとなくあとをついていくと、祖母は箪笥の上段からがまぐちの財布を出し、なかから四つに折り畳んだ千円札を二枚、丁寧に取り出して白いぽち袋に入れた。
それを月森に差し出す。
「夕方から屋台が出とるはずじゃけえ、不破の坊となんか好きなもんでも買うて食べんさい。おかしげなもんには手を出したらいけんよ」
 小遣いをくれるのだ、と理解して月森はあわてた。
「えっ、いいよ、今月のお小遣いまだ残ってるから」
「子どもが遠慮せんのよ。くれるゆうもんはありがたくもろうとき」
「……ありがとう」
 月森は礼をいって両手でそれを受け取る。
 これだけ大量の料理をこしらえるくらいの来客があるのに、ひとり遊びに出かけるのは気が引けるが、盛んに祭りへ行くようすすめる祖母の口ぶりから、どうやら月森がここにいないほうがいいらしいと察して、彼は出かけることに決めた。
 いったん着替えてから、ふたたび台所に顔を出す。
「それじゃ、行ってきます」
 手を止めて、祖母がわざわざ玄関まで見送りに出てきたことに月森は戸惑う。
「ええかね、絶対に不破の坊から離れたらいけんよ。迷子にならんようにして、知らん相手にはついていったらいけん。ほいで、ちゃんとここまで帰ってくるんよ。わかった?」
 まるで小さな子どもにいい聞かせるような台詞に、月森は苦笑しながらうなずく。
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ」

 正直にいえば、この身体で山道を下って駅まで向かい、一時間近く電車に揺られて外出するのはしんどいものがあったが、月森はなんとかこらえて、車窓に広がる見慣れた景色を眺めた。
 部活動に入っていない月森は、夏休み中にわざわざ学校へ行く用事などない。一緒に遊びに出かけるような友人もなく、夜ごと不破に呼びつけられる以外は、宿題を進めたり本を読んだりして静かに過ごしていた。
 月森にとってはそれがあたりまえで、不満はない。こうして生きていられることが彼にとっては奇跡なのだから。
 それでも、電車のなかで、同年代の少年少女たちが楽しそうにはしゃぐのを見るとふっと目を背けてしまう。賑やかな輪に入りたいとは思わない。だけど、そばにだれもいないのは寂しい。月森には不破しかいない。今はもう、それでいいと思っている。
 でも、その不破に、こんなふうに置き去りにされるのはいやだ。そばにいたらいたで憎らしくてしかたないのに、いざいないとなると不安でたまらなくなる。ずいぶん勝手な話だ。いつも不破に文句ばかりいっているくせに、放置されたらされたでまた文句をいうのだから。我ながらかわいげのない性格だ。不破のことをあれこれとあげつらう資格はない。
 月森はため息をつく。
『月森さま』
 頭のなかに直接語りかけてくる声。影だ。月森ははっとする。今は人目があるので影は姿を見せない。だけど、影はいつも月森のそばにいる。だからだろうか。影は、まるで月森の思考を読んでいるかのようなタイミングでこうして声をかけてくる。
「ごめん」
 周囲に聞こえないくらいの小さな声で、月森はつぶやく。影はいつもそばにいてくれるのに、自分はひとりだ、寂しいだなどと考えてしまうなんて。
『主はいつも、あなたのことを想っておられます』
 影は、やさしい。
「ごめん」
 そのやさしさに甘えてばかりだ、と月森は深くうなだれるしかない。

 *****

『――――月森さま、』
「ん……」
「ああ、気が付きましたか」
 すぐそばで知らない男の声が聞こえた。月森はゆっくり瞼を開く。
「だ、れ?」
 ぼやけた視界に、だれかがこちらを覗き込んでいるのが映る。
「覚えていませんか。あなた、駅で倒れたんですよ」
「え」
 焦点が結ばれて、見覚えのある男の顔が見えた。そのまま視線を下げて男の服装を確認する。どうりで見覚えがあるはずだ。男は、月森が通学のときに利用する駅の職員だった。
 あわてて起きあがろうとして、目眩に襲われる。
「…………っ」
「ああ、無理をしないで。おそらく貧血でしょう。顔が真っ青でしたよ」
「すみません、ご迷惑を」
「いえ、お気になさらず。もう少し休まれたほうがいいですよ」
 自分が倒れた、と聞いて月森は驚いていた。記憶をたどろうとするが、電車から降りたことすら覚えていない。
 月森はソファに寝かされていた。事務室、だろうか。壁にかけられた時計の針が六時を回っていた。ずいぶん長い時間眠っていたらしい。
「祭り、」
 思い出してぽつりとつぶやくと、男が反応した。
「祭りにいらしたんですか。だれかと待ち合わせですか」
「いえ」
 なんだろう。違和感を覚えて月森は身体を固くした。男の顔が近付いてくる。顔色を見るためというにはあまりに近すぎる。とっさに両手を伸ばして男の顔面を押さえた。
「むぐ」
「なっ、なんですか」
 いきなり接近してくる不審な男の挙動に抗議しかけた言葉はそこで途切れた。月森の両手首を男の手が掴んで顔面から引き剥がす。
 男はふつうではなかった。目が血走っていて息が荒い。ひどく興奮している。
「ずっと、きれいな子だなと思っていたんですよ。夏休みになってから会えなくてつまらなかったけど、まさかこうしてふたりきりになれるなんて」
 ぞっとした。
「離せっ」
 掴まれた手首を頭の両側に押さえつけられる。ただでさえ力が入らないのに、これでは動けない。
「ずっと気になっていたんですよ。いつも寂しそうな目をしているでしょう? 今だって、ほら」
 頭を殴られたような衝撃を受ける。こんな、弱りきった相手にのしかかってくるような卑劣な真似をする男に、胸のうちを見透かされるなんて。
 ――ほんとうはだれかに縋りたいのだろう?
 かつて月森にそうささやいた東雲の声が不意打ちのように脳裡に蘇る。耳にやさしい甘い言葉はすべてまやかしだった。月森の心を搦めとるための罠にすぎなかった。
 月森が信じられるのは、影の言葉と、そして――。
 ――――好きだ。
 たった一度、耳許でそっけなくささやかれた不破の言葉だけだ。
 だれでもいい、わけじゃない。月森が求めているのはただひとりだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み