第2話

文字数 2,500文字

「月森、ちょっといいかな」
 廊下ですれ違いざまに呼び止められた。国語教師の東雲だ。
「はい。なんでしょう?」
 向き直って尋ねると東雲は申し訳なさそうな表情で答えた。
「悪いんだが、放課後、もし時間が空いていたら仕事を手伝ってほしい」
「おれが、ですか?」
 予想外の申し出に目を見開く月森の反応を拒絶の意味に取ったらしく、東雲はすぐに前言を撤回した。
「いや、気にしないでくれ。突然すまなかったね」
「いえ、あの、おれでよければお手伝いしますが」
「ほんとうに?」
「はい。ちなみにどんな仕事ですか」
「図書室の蔵書整理なんだが。ほら、うちは司書がいないから、現文担当のぼくが管理を任されていてね。正直、ひとりではいつ終わるかわからなくて」
 ああ、と合点がいく。なぜ自分が指名を受けたのかも。月森はわりと頻繁に図書室を利用するため、東雲と顔を合わせる機会も多い。それで白羽の矢が立ったのだろう。
「わかりました。お役に立てるかわかりませんが、放課後、図書室へ伺います」
「ありがとう。助かるよ。じゃあまたあとで」
「はい」
 なんとなく、去っていく東雲の後ろ姿を眺める。とくに力を入れているふうでもないのに背筋がぴんと伸びている。歳はおそらく三十代半ばくらいだろう。月森は彼の授業を受けているが、板書の仕方や配付されるプリントの緻密さなどから、几帳面な教師だという印象を抱いている。月森もどちらかといえば几帳面なほうだが、東雲の作業を彼の期待通りに手伝えるかどうか、少し不安になる。
 ぼんやりしていた月森は、背後から自分を見つめる眼差しがあることに気付かなかった。

 *****

 放課後。
 いつもは有無をいわさず不破と一緒に帰宅させられるのだが、今日は用事ができたため、廊下を歩きながら不破にそれを告げた。
 話を聞き終えると彼は眉をひそめた。
「勝手なことを。なぜそんな雑用を引き受けた?」
 頭ごなしにそういわれてカチンとくる。
「勝手とはなんだ。そんなのはおれの自由だろ」
 いい返したとたんに後悔する。不破の目が怒りを孕んで月森を見つめる。まずい、と思った瞬間。
 ダン、と。
 顔のすぐ横の壁に不破が手をつく。壁を殴る、といったほうが適切なくらい力が込められていた。
 月森の顔から血の気が引く。
「いい度胸だな。おまえはまだわかっていないようだ。自分がだれのものなのかを」
「おれは、」
 おれのものだ、と思うがそれを口にすることはできなかった。
 不破の唇が月森の言葉を封じる。
「んっ」
 ドン、と不破の身体を押しやる。だがびくともしない。人目があるところ、しかも学校でこんなことをするなんて非常識にもほどがある。
 ああ、不破に常識を求めること自体が間違っているのだ。
 そう考えて月森は抵抗をやめた。
 不破はガツガツと月森の口腔を貪る。その行為は本来ならば愛情表現のはずなのに、そんなものはかけらもない。月森にとってはもはや苦痛でしかない。身体を固くしてひたすら耐える月森に見切りをつけたのか、唇を離すと不破はいつになく冷ややかな眼差しで彼に告げた。
「おまえは多少痛い目を見たほうがいいようだな。好きにしろ」
 そういい捨てると月森に背を向けて去っていく。
 不破の言葉の意味は理解できなかったが、彼がそんなふうに月森を置いていくのははじめてのことだった。とっさに追いかけようとして思いとどまる。追いかけてどうするんだ。放っておいてくれるというなら、それに越したことはない。
 月森はしばらくその場から動けなかった。
 我に返って図書室へ急ぐと、東雲はすでに作業をはじめていた。
「すみません。遅くなりました」
「いや、来てくれて助かるよ。なにかあったのかい?」
 振り返った東雲は月森の顔を見て眉を寄せる。ひと目で異変を悟られるほど、今の自分はひどい顔をしているのだと思うと情けなくなる。目を伏せて答えた。
「いえ、なにも」
 東雲が近付いてくる。肩に手が置かれて月森はびくっと身を竦める。彼の反応に驚いたようすで東雲は手を離した。
「すまない。そんなに怯えないでくれ。なにもしない」
 東雲の言葉に、自分の過剰な反応が恥ずかしくなる。
 ふだん、月森に触れる人間は不破しかいない。そして彼が月森に触れるのはたいてい欲望を吐き出すときだった。だから月森は触れられるたびに反射的に身が竦む。
「不破となにかあったのか」
 ぎょっとして月森は顔をあげる。東雲は表情を曇らせて彼を見ていた。
 地元のみならず、この高校でも不破の宣言は効果を発揮しており、教師までもが月森を敬遠している。だから、面と向かって不破のことを問うような人間は今まで存在しなかった。
 思わずまじまじと目の前の教師を見つめる。
「聞いてはいけないことだったかな」
 東雲の声にはっとしてふるふると首を振る。
「いえ、そんなことは。でも、不破のことをだれかに聞かれたのははじめてです」
 月森の返事に東雲は小さく笑う。
「そうだろうね。彼はこわい男だ。あれで高校生だというのだから、将来が空恐ろしいね」
 空恐ろしいというわりに恐怖などまったく感じていないような飄々とした表情をしている。彼はどこか冷めた目をして月森に尋ねた。
「あのうわさはほんとうなのか。月森は不破の」
 嫁だと、といいかけて東雲は言葉を濁す。月森の頬が朱を刷いたように赤く染まったためだ。唇をわななかせた月森を見下ろして東雲は表情をあらためた。
「いや。立ち入ったことを聞いてすまない。気を悪くしないでくれ」
 いえ、と月森はふたたび首を振る。羞恥のために顔を赤くしながらも、東雲の率直さには好感を抱いた。たとえそれがどんなに答えづらい問いであっても、ふつうに自分に話しかけてくれる人間がいたことが素直に嬉しかった。それほどまでに、月森は不破以外の他人との接触に飢えていた。
「あの、おれ、なにをすればいいですか」
「ああ、じゃあこちらへ」
 それからしばらくのあいだ、月森は無心になって与えられた仕事を黙々とこなした。
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