第3話

文字数 4,210文字

 蔵書の整理は想像以上に手間のかかる作業だった。めったに読まれない分厚い文学全集などは埃をかぶっており、それを払い、損傷のあるものは補修のために抜き出していく。東雲によってある程度は進められていたが、蔵書すべてをひとりで管理するのはとても無理な話だ。
「ありがとう。今日はもう終わりにしよう。おいで。よかったら珈琲を入れよう。インスタントだけど」
「あ、はい。ありがとうございます」
 カウンターの後ろにある準備室へ招かれる。東雲の性格だろう、室内はきっちりと整えられていた。
 真っ黒になった手の汚れを洗い落として、すすめられるまま古びたソファに座る。珈琲の入ったカップを手渡され、月森は礼をいって受け取る。
 東雲はテーブルを挟んで椅子に腰掛けると湯気に目を細めながら月森を見つめた。
「手伝ってもらって助かったよ。ありがとう」
「いえ。あまりお役に立てなくて。あの」
「うん?」
「先生ひとりが全部管理するなんて大変じゃないですか?図書委員にもやらせたらいいのに」
 月森がいうと東雲は表情を曇らせた。
「そうなんだけどね。今期の委員の生徒たちは、なんというか、本に対してあまり愛情を持っていない。正直にいうと、そういう子たちに手伝ってほしいとは思わない。それくらいなら自分でやった方がいい」
 柔らかな風貌からは想像もつかない冷ややかな口調に驚いて月森は目を瞠る。そんな彼に東雲はとり繕うような笑みを浮かべてつづけた。
「ぼくの悪いくせなんだ。自分のテリトリーに介入してほしくないと思ってしまう。でも、さすがにひとりでは無理があってね。月森なら、日ごろから本の扱いが丁寧だし几帳面だから手伝ってもらえると助かると思って、甘えてしまった。すまなかったね」
「いえ、そんな」
 なんとなく落ち着かなくて月森は目を伏せてカップに口をつける。家では珈琲を飲む習慣がないので新鮮な味だった。
 東雲は当たり障りのない話題を振っては月森から言葉を引き出す。不破以外の人間とそんなふうに話をするのははじめてで、月森は次第に緊張が解けていくのを感じた。
 そしてそのまま彼は意識を失った。

 *****

 名前を呼ばれた気がした。
「……ん」
 頭が重い。ふたたび眠りに引き戻されそうになるのを振り切るために月森は手を動かして目を擦る。
「ああ、目が覚めたかい」
 そう声がして、月森はにわかに混乱する。自分がいったいなにをしているのかを思い出すまでに時間を要した。
 月森はソファに横になっている。テーブルの向こうには東雲が座ってこちらを見ている。その手にはノートのようなものが広げられていた。
「よく寝ていたから、起こすのが忍びなくてね」
 そういってノートを閉じると東雲は立ちあがり、こちらへ近付いてくる。月森はあわてて身体を起こす。急に動いたせいか軽い目眩に襲われる。ぐらついた身体を東雲が支えた。
「すみません」
 いつのまに寝てしまったのだろう。恥じ入ってうつむく月森の肩を支えたまま東雲はやさしい声でいう。
「謝ることはない。疲れているのだろう。ずいぶん細いが、ちゃんと食べているのか?」
 東雲の手が頬に触れてそのまま首筋へと滑る。びくんと身体を震わせて月森は身を退く。シャツの襟元が寛げられていた。驚いて顔をあげると、月森の疑問を察したように東雲は答えた。
「寝苦しそうだったから襟元を緩めたんだよ。勝手に触ってすまなかった」
「いえ」
 東雲はじっと月森を見下ろしている。なんだろう。妙な空気を振り払うために月森は違う話題を探す。テーブルに置かれたノートが目に付く。よく見るとそれはスケッチブックだった。
「あの、先生、あれは?」
「ああ、趣味で絵を描いていてね。悪いとは思ったが、月森を描かせてもらったよ」
「えっ」
「とても気持ち良さそうな寝顔だったから、つい出来心で。気を悪くしたかな」
「いえ、そんなことは。あの、見せてもらってもいいですか」
「どうぞ」
 あっさりとうなずいて東雲はスケッチブックを差し出す。それを受け取ってページをめくり、月森は息を呑んだ。
 自分が、いた。
 ひと目でそうわかるほど、緻密に書き込まれた一枚の絵。テーブルのうえにはなんの変哲もないふつうの鉛筆が置かれている。その鉛筆でこんな絵を描けるなんてにわかには信じられない。
 才能。そうとしか思えない。
「すごい」
「気に入ってくれたかな」
「先生、どうして絵の道に進まなかったんですか」
「それは誉め言葉かい?ぼくは趣味で描いているだけだからね。自分のために描くだけで、他人に見せるつもりはない。好きなものを紙のうえに閉じ込めて自分だけのものにしたい。そのためにぼくは絵を描くんだよ」
 絵心のない月森には東雲の言葉はよくわからなかった。紙に描いて閉じ込める、という感覚が理解できない。首を傾げながら、ただ、もったいないと思う。自分をモデルに描かれているのはへんな感じがするが、それを抜きにしても東雲の絵にはなにか力があった。
 黙り込んでじっと手許に見入る月森に、東雲は小さく笑う。
「そんなに真剣に見つめられるとなんだか困るな。月森に頼みがあるんだが」
「え、はい。なんでしょう」
「もしいやでなければ、モデルになってほしい。実はずっときみを描きたいと思っていた。今日その絵を描いていて、もっといろいろなきみの姿を描いてみたいという思いがさらに強くなった。引き受けてくれないか」
「どうしておれなんかを」
「卑下することはないだろう。月森はきれいだよ。自分で気付いていないのか?」
 臆面もなくささやかれて月森は言葉を失う。自分の容姿をそんなふうに感じたことなどないし、他人からいわれたこともない。あるとすれば、不破の母上から「おいしそう」といわれるくらいだ。
「モデルといっても、あらたまったものじゃない。月森が許可をくれたらぼくが勝手に、というと言葉が悪いが、ふつうに生活しているきみの姿を描くだけだ。何時間もじっとしていろなんてことはいわない」
 拒絶しない月森に手応えを感じたのか、東雲は彼を落としにかかる。
「月森の都合のいいときだけでかまわない。ここで好きな本を読んでいるだけでもいいし、きみさえよければどこかへ出かけてもいい。どうだろう」
 東雲の絵に惹かれるものがあるのはたしかだが、それ以上に、敬遠されがちな自分に好意的な態度で接してくれることが嬉しかった。
「放課後、ときどきでもよければ」
「もちろんかまわない。引き受けてくれるかい」
「はい」
「ありがとう。嬉しいよ」
 一瞬、不破の顔が脳裡を掠める。だが目を閉じてそれを振り払う。
 不破は関係ない。自分は自分だ。おのれにそういい聞かせるように月森は小さくうなずいた。

 月森は固辞したのだが、自分が用事を頼んだせいで遅くなったのだからと、東雲はなかば強引に月森を車に乗せて家まで送り届けた。
 さらには、家のひとにひとこと挨拶を、とまでいうので、それだけは勘弁してほしいと断った。教師にわざわざ送ってもらったことがばれたら、厳しい性格の祖母になんと小言を食らうかわかったものではない。それに、月森の祖母は夜が早い。8時にはもう床に就いていることも少なくない。
 おそるおそる玄関の戸を引いて「ただいま」と声をかける。廊下や居間には明かりが灯っているが、月森のためにそうしてあるだけかもしれない。ひとの気配がない。
 祖母はもう休んでいるらしい。
 なんとなくほっとして、奥の自室へ向かう。襖を開けた瞬間、暗闇から声が響いた。
「えらく遅いお帰りだな」
 自分の喉がひゅっと息を呑む音が聞こえた。乱暴に腕を掴まれて引き倒される。畳に倒れ込む月森の背後で襖が閉じられる。鬱蒼と茂る木々に遮られて彼の部屋には月明かりは届かない。真っ暗闇のなか、混乱する自分の乱れた息遣いだけが妙にはっきりと耳に届いた。
 ぐいっと顎を掴まれ無理やり顔をあげさせられる。耳許で氷のような冷ややかな声がした。
「ほかの男の匂いをさせて帰るとは、悪い嫁だな」
 そういって不破は首筋に吸い付く。
「痛っ、離せ!」
 抵抗しようにも、うつぶせた状態のため自分の身体を支えるだけで精いっぱいだった。そのうえ、上向きにされた喉が圧迫されて息ができない。
 月森の首筋から鎖骨にかけて執拗な刻印を終えると、ようやく不破は手を離した。月森はそのまま倒れ込む。
 なぜ不破がここにいるのか。
 そんな疑問よりなにより、暗くて視界がきかないこと、不破の姿が見えないことが月森の不安を増長させる。
「起きろ」
 頭のうえから声が降ってくる。耳慣れた軽い金属音に身体が反応する。ベルトのバックルを外す音だ。これからなにをされるのか、させられるのかがわかって、月森は身体を震わせた。
「や」
 素早く身を起こし後退った月森の肩をものすごい力が掴んで引き寄せる。まるで見えているかのように不破の指が的確に月森の唇をこじ開ける。
 そのまま口のなかに指ではないものが突っ込まれた。
「っう……んんっ」
「歯を立てるなよ。やりかたは教えただろう」
 非情な男は猛りはじめたおのれの一部を月森の喉に突き立てながら行為を強いた。不破の両手が後頭部を押さえ付ける。咥内でじわじわと質量を増していくそれが月森の呼吸を封じる。苦しさのあまり涙が滲んだ。
「ふ……っ、んん」
 月森は固く目を閉じて顎を動かす。彼がどんなに哀願しようと不破は途中でやめたりはしない。絶対に。それがわかっているから、少しでも早く解放されるためには不破のいうことをきくしかない。
 畳にひざまずいた姿勢でなにも見えないまま、月森は手と舌を使って不破に奉仕する。頭を動かして摩擦を加えると、苦しげな不破のため息が微かに聞こえた。
「月森」
 掠れた声で名前をささやき、月森の頭を掻き抱くようにしながら腰を打ち付けてくる。不破の先端が喉の奥に突き刺さり吐き気が込みあげる。
「んぐ……、っう」
 それでも不破は容赦しない。大きく腰を揺らして月森の咥内を犯し続ける。彼の頬を涙が伝い落ちた。それが苦しさのためか屈辱のためかは彼にもわからない。
 そんな月森をさらに不破が追い詰める。
「制服を汚したくなければ零さずに飲めよ」
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