第7話

文字数 4,367文字

 月森の声に顔をあげて唇に残った血を舌先で舐めとる。その不破の眼差しはふだんの皮肉混じりのものではなく、獲物をまえにした捕食者のそれだった。ナイフを抜いたさいに浴びた返り血で服を染めた彼は、ひとの形をした獰猛な獣に見えた。
「あら、おいしそうな匂いだこと」
 凄惨な場に似つかわしくない呑気な声が聞こえた。
 驚いて頭を動かすと、いつからそこにいたのか、不破の母上が立っていた。血生臭い空気をものともせず、目の醒めるような美貌に笑みを湛えて月森たちを眺めている。
「独り占めするつもりかえ?」
 ちらりと向けられた目線の先には不破がいた。にこやかな母上とは対照的に、息子は不機嫌さをあらわに答える。
「あなたの獲物はあちらです」
 そう示された方向を見ると、気を失っているのか、ぐったりと壁にもたれた東雲の姿があった。
 母上は目を眇めてそちらを見遣り、ふふふと笑みを零す。
「なかなかいい男だこと。倅の嫁に手を出してくれたようだし、ようくお礼をしなくっちゃいけないね」
 彼女は東雲に近付いていく。
「なにを」
 起きあがりかけた月森を不破の手が制する。
「おまえを殺した男が心配なのか」
 認めたくない事実を突き付けられて月森は言葉に詰まる。不破のいうとおり、東雲はたしかに月森を殺そうとした。だけど。
「違う、先生は」
「違わない。どこまでもおめでたいやつだな。おまえはあの男に二度殺されたんだぞ」
「え?」
「母上、申し訳ありませんが、食事は部屋を移していただけますか」
「しかたのない子だね」
 不破の申し出に肩を竦めてみせて、彼女は東雲を引きずり部屋を出ていく。
「先生っ」
「おまえはまだ懲りていないのか」
 苛立ったようにいうと不破がのしかかってくる。月森の首を掴んで、吐血して汚れたままの彼の顔を舐める。
「やめ、」
「おまえは私のものだ。血の一滴まで。ほかのやつにはやらん」
「不破っ」
 言葉どおり、わずかな血さえも残すまいというふうに彼は月森の顔を舐めとる。そのまま喰われてしまうような気がして月森は身を竦めてぎゅっと目を閉じる。
 東雲に刺された傷口は不破によって塞がれたらしく、あれほど月森を苛んだ痛みももう感じない。
 結果として、不破は月森を助けてくれたはずなのに。助かった気がしないのはなぜだろう。むしろ危険度が増したような気がする。
 このまま最後の一滴まで不破に奪い尽くされてしまいそうで。
「う」
 涙がにじむ。喰われてしまうかもしれないという恐怖からではなく、ただただみじめで涙が込みあげてくる。不破にとって自分は餌でありただの所有物でしかない。この関係性が変わることはないのだ。そう思うとみじめでかなしくて、年甲斐もなく泣きたくなる。
 ふと気が付くと、不破がじっと月森を見つめていた。
「なぜ泣く。あの男のために泣いているのか」
 違う、そうではない、と首を振るが、これまでのできごとが一気に蘇ってきて、自分でもなにがなんだかわからなくなる。
「ふ……っ」
 両手で顔を覆い、声を殺して泣く。その手首を不破が掴む。
「泣くな。どうすればいい?」
 不破らしからぬ、途方に暮れたようなつぶやきに応えたのは月森ではなかった。
「やさしくして差しあげればよろしいのです」
 その声に月森ははっと顔を向ける。不破の後方に畏まった、黒髪の痩身の男。姿を目にするのははじめてだが、声はもう何度も耳にしている。
 男を振り返らずに不破がいった。
「月森のまえに姿を現すことを、いつ私が許した?」
「申し訳ございません。謹んで罰はお受けします」
 平伏する男に不破は冷ややかに告げる。
「当然だ」
「待て」
 月森は片手で涙を拭いながらもう一方の手で不破の腕を掴む。
「影は悪くない。罰はやめてくれ」
 驚いたように不破が目を瞠る。その背後で影がわずかに顔をあげる。月森と視線を繋ぐと目を細めた。
「おまえはいつからあれと仲良くなったんだ、え?」
 月森の首を掴む指先に力が込められる。その痛みと苦しさに顔を歪める。
「おやめください」
 畏まった姿勢のまま、はっきりと影が制止する。
「だれに向かってものをいっている」
「畏れながら主に申しあげます。いつまでもそのようなことをなさっていては、月森さまのお心は離れてゆくばかりです。また同じ過ちを繰り返すおつもりですか」
 淡々とした口調で主を諌める影に驚き、月森は息を呑む。不破は怒りを孕んだ眼差しで射竦めるように彼を見据える。
「お手打ちは覚悟致しております。ですが、これ以上、月森さまを追いつめることはおやめください。その方の素直な性質を歪めてしまうことは主の本意ではないでしょう。今の月森さまはひどく消耗しておられます。主がなさるべきは、力で押さえ付けるのではなく、やさしくいたわって差しあげることです」
「黙れ」
 不破が言葉を発した瞬間、影の身体が後方へと吹き飛ばされ壁に激突する。
「影っ!」
 月森は身をよじって起きあがると不破の胸倉を掴んだ。
「やめろ!」
 殺気立った眼差しが月森をとらえる。不破の怒りが空気を震わせ、びりびりと肌を刺す。だが怯んでいる場合ではない。
 口を開きかけたとき。
「月森さま、よろしいのです」
 まるでなにもなかったかのように平然としたようすで影がいった。彼は体勢を整えてふたたび畏まると月森に告げる。
「配下の身でありながら分をわきまえず、出過ぎた真似をしている私が悪いのです。主に進言するなどもってのほか。決して許されることではありません。ですがそれでも、私は黙って見過ごすわけにはいかないのです。月森さま、あなたのためだけではなく、主の御ためにも」
「賢しらな真似を」
 低く、不破がつぶやく。その双眸には冷たい炎のような怒りが揺らめいている。けれど、先ほどまでの殺気はもう感じられない。
 彼の眼差しに見据えられて月森は目を逸らすことができない。首をとらえていた手が月森の頬に触れる。びくっと身を竦める月森を見下ろす端整な不破の顔が、一瞬、わずかに歪んだのを月森はたしかに見た。
 傷付いたような表情だった。
 どうしてそんな顔をするんだ。不破が傷付くような道理はない。
「私が間違っていたというのか。私は」
 不破が言葉に詰まるのをはじめて目にした。月森に触れる手にも、いつもの強引さはない。信じられないものをまえにして、月森は身じろぎすら忘れて不破を見つめる。
「おまえがあまりにすげない素振りばかり見せるから、我慢ならなくなって、わからせてやろうと思っただけだ」
 不破の親指が月森の唇をなぞる。
「おまえは私のものだと。ほかのだれにも渡しはしない。逃がさない。私だけを見ていろ」
「なにを」
 いっているのだこの男は、と月森は思う。
 すげない素振りに我慢ならなくなった、だと?
 そもそも、いったいだれのせいでそんな態度を取ることになったと思っているのか。それに。
「おれはものじゃない。おまえの都合のいい玩具にされるのはまっぴら御免だ」
 押し殺した声で応える月森に、不破は眉をひそめる。
「玩具だと? だれがそんなことをいった。おまえは私の嫁だといっているだろう。なぜわからない?」
「わかるかよ! なにもわからない。おまえがなにを考えているかなんて。嫁だとか意味のわからないことをいって、力ずくでおれをめちゃくちゃにして。友人だと思ったこともないんだろう? おまえにとって、おれは友人にさえする価値のない、取るに足らない存在なんだろう」
 これまで胸に抱えていたものすべてを吐露して、月森は肩で息をする。ぐいと顎を掴まれて反射的に身がまえた。
 不破は眉間に深い皺を寄せて月森を見つめている。その瞳には怒りではなく苛立ちがあった。
「おまえは鈍いにもほどがある」
「はあ?」
 思わず間の抜けた声を漏らして月森は目のまえの男を凝視する。見兼ねたように、それまで沈黙を保ってふたりを見守っていた影が控えめに言葉を挟んだ。
「僭越ながら申しあげます。主、こちらの世界では同性を娶ることはごく稀で、いまだ広く認知されているわけではありません。ですから、そのようなおっしゃりようでは、主のお心を月森さまにご理解いただくことは難しいかと」
「では、どうすればいい」
「はっきりとおっしゃいませ。ただひとことでよろしいのです。月森さまが誤解なさることがないようはっきりと、主のお心をお伝えなさいませ」
 影の進言を撥ねつけることはなく、不破は厳めしい顔付きで月森を見つめていたが、ふいに彼の身体を抱き寄せて耳元でささやいた。
 ただひとこと。
「………え」
 耳に落とされたその言葉に月森は目を見開く。今、自分が聞いた台詞が信じられなかった。
 そんな月森の心中を見透かしたように不破は念を押す。
「二度はいわん。今の言葉を忘れるな。それが私の本心だ」
 ぶっきらぼうな口調でそういうと、月森の身体を抱く腕に力を込める。呆然としたままおとなしく抱きしめられていた月森は、我に返ると不破の胸を押し戻した。
「それがほんとうならなぜ、あんな、おれを辱めるようなことを」
「我慢ならなくなったといっただろう。私が何度、おまえは私の嫁だといって聞かせても、おまえはまったく聞く耳を持たないし相手にもしない。だからその身体にわからせてやろうと思った」
「おれは男なのに、男から『おまえは嫁だ』なんていわれて納得できるわけがないだろう。だいたいおまえは乱暴なんだよ。あんな鬼畜のようなやりかたで抱かれて。おれはおまえに憎まれているのかと思った。あれがおまえのやりかたなのか? だとしたら、おれはもう御免だ」
「おまえがあまりに抵抗するから火がついただけだ。わからないか? 私をやさしくするのも残酷にさせるのも、すべてはおまえしだいだ。そもそも、好きでもないやつを抱いたり嫁にしたりするはずがないだろう。私にそんな趣味はない。ほんとうにおまえは鈍いにもほどがある」
 まるで月森がすべての原因なのだといわんばかりのいい草に、開いた口が塞がらない。不破はいっこうに悪びれたようすもなく、月森の髪に鼻先を埋めては熱い息を吐く。もうなにも問題はない、とでもいうようなその態度に納得がいかない。納得がいかないが、かといって、触れてくる不破を振り払うことができないのもまた事実だった。
 複雑な心境でうつむく月森の頭を抱いて、不破は呆れたような声でいう。
「まあ、その鈍さがおまえの精神を守っているのかもしれんが。それにしても無防備過ぎる。あんなやつの家にのこのことついて来て。ふつうなら、おまえはとうに死んでいるぞ」
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