第5話

文字数 4,156文字

 月森は上着を脱いでソファに横になる。たしかに少し窮屈だが、胎児のように身体をまるめていれば問題はない。ふと昨日のことを思い出して襟元を緩めると、ゆっくりと息を吐く。
 東雲の厚意はありがたかった。とても授業を受けられるような気分ではなかったし、不破の無言の眼差しに耐えられる自信もない。かといって医務室へ行くつもりはなかった。月森の訪問は保健医にとって歓迎すべきものではないだろうし、体調不良で休んでいるほかの生徒の障りになる。
 学校を休むことは論外だった。
 祖母に余計な心配をかけたくはない。今朝も、顔色の悪い月森を気にしていた。
『不破の坊となにかあったのかい』
そう尋ねる祖母に首を振って「なにもないよ」と答えたが、不破の迎えを待たずにいつもより早く出かけたことで、なにかあったと白状しているようなものだ。
 もう一度ため息をついて目を閉じる。昨夜はほとんど眠れなかったため、頭の奥がズキズキと鈍く痛む。
 そのまま彼は眠りに落ちた。

 *****

「……は、」
 自分の呻き声で目を覚ました。
 肩で息をしながら目を見開くと東雲が顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か。ひどくうなされていた」
 全身に汗をかいていて気持ちが悪い。首筋を拭うと汗でぬるりと滑る。指先が冷たい。冷たいというより感覚がない。訝しく思い、目のまえに手を翳すと小刻みに震えていた。
 東雲がその手を握る。彼はもう一方の手で月森の額を撫でながら汗を拭いた。
「こわい夢を見たのか?もう大丈夫だ。安心しなさい」
 小さな子をあやすようなやさしい声で東雲はささやく。そして、がたがたと震えつづける月森を抱き起こすと両腕のなかに包み込む。
「あ」
 とっさに身を引いた月森を離さずに東雲はいい聞かせる。
「逃げないで。ほら、ゆっくり息をして。そう、それでいい。落ち着いてきただろう?」
 東雲に抱きしめられて、いわれたとおりに呼吸を繰り返すうち、しだいに震えが治まってきた。力を抜いて身をゆだねると、東雲はより深く月森の身体を抱き込む。
「いい子だ」
 そう耳許でささやくと、よしよしというふうに頭を撫でる。冷静さを取り戻した月森は気恥ずかしさに襲われて遠慮がちに東雲の身体を押しやる。東雲はあっさりとそれを許した。
「すみません、おれ」
「謝る必要はないよ」
「あの、ありがとうございます」
 先ほどの東雲の言葉を思い出していい直す月森に、東雲はふっと笑みを浮かべる。
「どういたしまして。きみはほんとうに素直ないい子だね」
 月森はうつむいて顔を赤くする。悪い夢にうなされて怯えてあやされるなんて、高校生とはとても思えない。東雲も内心では呆れているに違いない。
 月森から離れると、東雲は棚から袋に入ったなにかを手にして戻ってくる。それを月森に差し出していった。
「その格好では風邪を引く。ぼくのシャツで悪いけど、着替えるといい」
「え」
 たしかに、月森のシャツは汗に濡れて冷たくなっている。だけど、毛布のことといい、東雲の用意のよさに呆気に取られて彼はぽかんとした。そんな月森の反応に東雲は苦笑する。
「私物化も甚だしいと思っているんだろう? ぼくは予備がないと落ち着かなくてね。不測の事態が起きたときにあわてたくない」
 その説明に納得した。東雲ならば、なにごとにも万全に対策を立てていて不思議はない。
 月森はシャツの入った袋を受け取って頭を下げる。
「すみません。お言葉に甘えてありがたくお借りします」
 背を向けた月森の後方で東雲はお茶の用意をしているようだった。
 着替えを済ませて振り返ると東雲がこちらを見ていた。
「目の毒だね」
「え」
 東雲は自分の首筋を指していう。
「不破はずいぶん情熱的らしい」
 東雲の言葉の意味を理解して月森は首を押さえる。羞恥のあまり頭に血がのぼる。うっかりしていた。昨夜、不破に無理やり付けられた刻印を見られたのだ。
 だが、東雲はそれ以上追求せず月森をソファへとうながした。
「もうじき昼休みになる。そのようすでは朝もろくに食べていないのだろう? 少しでも胃になにか入れておいたほうがいい。飲みなさい」
 月森のまえに置かれたのは珈琲ではなくカップに入ったスープだった。
「先生、こんなものまで常備しているんですか」
「呆れたかい?」
「い、いえ。いただきます」
 食欲はなかったが、汗で冷えた身体に温かいスープはありがたかった。もうすぐ昼ということは、月森は午前中ずっと眠っていたのだ。
 向かいで珈琲を啜る東雲を見つめて彼は尋ねる。
「あの、先生はどうして、おれにここまでよくしてくださるんですか」
 東雲の厚意には感謝しているが、月森に対する彼の言動は教師としての域を超えている気がする。なにより、不破をまったく恐れていないところが信じがたい。
「迷惑かい」
「まさかそんな」
 ぶんぶんと首を振って否定する月森に笑いかける。
「ひとが他人にやさしくする理由なんて簡単だよ。たんなる善意か下心があるか、もしくは好きだからに決まっているだろう」
「先生は」
「聞きたいのか」
 じっと見つめ返されて月森は口ごもる。東雲はおかしそうに笑みを深くして答える。
「少なくとも、たんなる善意ではないな」
 自分から聞いておきながら、月森はなんと反応していいのかわからない。返事に窮する彼に東雲はつづける。
「下心はたしかにあるね。ぼくは月森を描きたくてたまらない。きみのためなら労力を惜しむつもりはない。もしそれできみがぼくに好意を示してくれるなら、願ったり叶ったりだ」
「あ」
 そうだった。それで東雲は月森に好意的なのだ。
 ほっと息を吐いたのもつかの間。東雲はさらに言葉を繋いだ。
「ぼくは月森が好きだよ」
 不意打ちを食らって月森は固まる。
「え?」
「そんなに怯えた顔をされると傷付くな」
「いえ、あの」
「ぼくの気持ちは、おそらくふつうの恋愛感情とは違う。ぼくには小さな弟がいてね」
「はい」
「ずいぶん歳の離れた弟で、ぼくは彼がかわいくてしかたなかった。月並みな表現だが、ほんとうに天使のように愛らしい姿をした子で、ぼくが絵を描きはじめたのも弟がきっかけだった。だけど弟はある日いなくなった」
「えっ」
「忽然と。まだ小さかったから、自分でどこかへ行くはずがない。なにか犯罪に巻き込まれたか、神隠しに遭ったか。結局、弟は見付からなかった」
 東雲は言葉を切ると月森を見つめる。感情の読めないガラス玉のような瞳をして。
「この学校で月森を見たときは驚いた。その淡い色の瞳、色素の薄い柔らかな髪。なにもかもが弟とそっくりで、まるであの子が成長してぼくのまえに現れたようだった」
 東雲の言葉に驚きながらも、どこかで納得している自分がいた。東雲は月森を通して、いなくなった弟を見ていたのだ。兄弟のいない月森には彼の気持ちを想像するしかないが、それほどまでにかわいがっていた弟を失った悲しみはいかばかりか。
「気を悪くしたかな」
 自らの裡に沈み込んで思いを巡らせていた月森ははっと我に返る。
「まるで月森を弟の身代わりにしているようだ。すまない」
「そんなことは。それに、たとえ弟さんの身代わりだとしても、やさしくしてくれたのは嬉しかったから、べつにいやじゃないです」
 月森がそういうと東雲は表情を和らげた。
「月森はやさしいな」
「おれは、」
 首を振る月森に東雲はいった。
「なにかつらいことがあるならぼくのところへおいで。無理して事情を話さなくてもいい。ほかに行く場所がないのだろう? この部屋はきみのためにあけておく。我慢しないで甘えなさい」
 事情なんてお見通しのはずだ。月森を悩ませる原因はひとつしかない。それでも手を差し延べてくれる東雲が不思議だった。いくら月森が弟に似ているといっても。
「先生は、不破がこわくないんですか」
 東雲は笑った。
「ぼくにはあまりこわいものがないんだよ」

 *****

 その日から、月森は東雲のもとへ通うようになった。授業をきちんと受けて、放課後になると図書室へ向かう。
 月森は蔵書の整理に精を出した。気を遣わなくていいと東雲はいったが、なにかをしていないと落ち着かない。今の月森には没頭できる作業があったほうが気が楽だった。
 それを察したのか、東雲は月森の自由にさせてくれた。
 放課後、図書室は生徒たちに解放されている。東雲も毎日いるわけではない。生徒たちは月森の行動に奇異の目を向けることはあっても、表立ってうわさすることはなかった。月森が知らないだけかもしれないが。
 不破はあれから一度も接触してこない。
 以前のように強制的に家に呼び付けたり押しかけてくることもない。ただじっと月森を見ている。不気味といえば不気味なことこのうえない。
 だが、月森があからさまに彼を避けているのも事実で、このままではいけないと思いつつも、不破の顔を見ると反射的に逃げてしまうのだった。

 東雲はもう何枚かわからない数の絵を描いた。彼はほかの生徒がいるときには絶対にスケッチブックを持ち出さない。
 おそらく月森以外に、東雲が絵を描くことを知る人間はこの学校にはいない。
 月森が作業をしていると、いつの間にか東雲がスケッチブックを開いて鉛筆を動かしている。絵を描いているときの東雲は、少しこわい。ふだんは人当たりのいい雰囲気なのに、紙をまえにしたとたん近寄りがたい空気が漂う。
 畏縮する月森に気付くとふっと表情を緩めて「どうした?」と尋ねてくる。けれども月森はほんとうのことをいえない。いってはいけない気がして「ちょっと緊張して」などと言葉を濁してしまう。
 東雲の描く絵はやはり素晴らしいものだった。だれにも見せるつもりはないといっていたが、モデルをしているからだろう、月森にはすべて見せてくれた。
 あんまり見惚れていたためか、ある日、東雲は月森にささやいた。
「ぼくの家へ来るかい? 月森さえよければ、ほかの絵も見せてあげよう」
 それは願ってもない誘いだった。
 そして、週末の午後、月森は彼の家へ招かれた。
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