第6話

文字数 4,133文字

 東雲の家は月森が通う高校がある町にあった。
 月森が住む町よりははるかに開けたところだが、それでも車がないと生活に不自由するような土地で、東雲の家はさらに町外れにある一軒家だった。
「ご実家ですか」
「いや、借家だよ。ぼくはどうもアパートやマンションみたいな密集したところが苦手でね」
 東雲らしいと思う。彼はときどきふと神経質な面を見せることがある。
 以前「自分のテリトリーに介入されたくない」という話をしていたが、その言葉どおり、彼は自分の所有物に触れられることをひどく嫌う。あからさまではないので、よくよく注意していないと気付かないかもしれない。ほかの生徒や教師と接する東雲を見ていて、月森は早い時期にそれに気付いたので、今のところ東雲の癇に障るようなことはしていないつもりだ。
 それに、東雲は月森には甘い。
 彼の弟に似ているからだと思うが、それにしても月森への態度は破格の扱いだと思わざるを得なかった。
 東雲のテリトリーへ入るのは緊張した。学校とは違い、ここは完全に私的な空間だ。月森が通されたのは八畳ほどの広さの和室で、整理が行き届いているというより、もの自体がない。いっそ潔いくらいに無駄を排除した部屋だった。
「なにもなくてびっくりしただろう?」
 紅茶を運んできた東雲は月森の胸の内を読んだようにいう。
「掃除がしやすそうですね」
「きみはうまいことをいう」
 月森の答えにおかしそうに笑うと、東雲は抱えてきた数冊のスケッチブックを彼のまえに差し出す。
「ずいぶん古いものもあるから、月森の気に入るかどうかわからないが、ゆっくり見るといい。ぼくはここできみを描いているよ」
「はい。失礼します」
 スケッチブックを引き寄せて、いちばんうえのものから表紙をめくる。てっきり人物画だと思っていたのだが、予想に反して表れたのは風景画だった。一面に広がる森、だろうか。木の幹の皺から葉の陰に至るまで丁寧に描き込まれた一枚の絵。色さえついていれば写真と見紛うような写実的な筆致。
 執拗なまでに書き込まれた線は東雲の性質を表していた。
 月森は呼吸をするのも忘れて見入った。
 ページをめくるたびに表れる風景に引き込まれる。植物の絵がほとんどだった。それも、花をつけるものはひとつもない。なにかを中心に据えるのではなく、そこにある風景をそっくりそのまま切り取ったような、そんな印象を受けた。
 じわじわと手に汗が滲む。
 眺めている自分が絵のなかに閉じ込められていくような錯覚にとらわれる。息苦しくなっていったん視線を外す。顔をあげると、壁に背を預けてスケッチブックに向かう東雲が目に入る。
「どうした?」
「いえ」
 月森は小さく息を吐いて用意された紅茶に口をつける。少し冷めてしまったが渇いた喉にはちょうどいい。
 次に現れたスケッチブックは今までより年代を感じさせるものだった。
 表紙をめくって息を呑む。景色ではない。小さな男の子。最初に描かれていたのは、まだ歩くこともできないような幼児。それがページをめくるうちに少しずつ成長していく。ふっくらとした頬にぱっちりとした大きな瞳。幼児特有の愛らしさが感じられる。東雲から渡されたスケッチブックの大半はその男の子の絵で占められていた。その量から、対象への愛情の深さがわかる。
 東雲の弟なのだろう。
 最後のスケッチブックでは、彼は幼稚園に通う年ごろにまで成長していた。
 ページをめくる手が止まる。
 後半のほとんどは彼が眠っている描写だった。なにもおかしなところはないのに、月森は弾かれたように手を離した。息が苦しい。無意識に喉を押さえてページを閉じる。
 東雲がじっと彼を見ていた。

 名前を、呼ばれた気がした。
『月森さま』
「……ん」
『月森さま、どうかお気をたしかに』
 頭のなかに響いてくる声。眠ろうとする意識に直接はたらきかけてくる。
 影?
 ゆっくりと、感覚が戻ってくる。そのとたん、さっと皮膚が粟立つ。なにかが身体に触れている。
 重たい瞼を無理やり開いて瞬きを繰り返す。
「気が付いたかい」
 すぐそばで東雲の声が聞こえた。月森の身体に覆いかぶさり顔を覗き込んでいる。
「せん、せ」
 うまく舌が回らない。霞がかかったように頭がぼんやりする。肌を撫でる手の感触だけが月森の意識を繋ぎ止める。
 そんな彼のようすを観察しながら東雲がつぶやいた。
「少し薬が効き過ぎたようだね。動けないだろう?」
 薬? なにをいっているのだろう、と訝しく思う。
 東雲はてのひらを滑らせて月森の腹部を撫でる。ぞわりと背筋が軋む。見ると、着ているパーカが胸のあたりまで捲りあげられており、あらわにされた肌のうえで東雲の手が動いていた。
 その指が臍の脇でつと止まる。
「ここに痣がある。不思議だね。ぼくの弟にも同じ場所に痣があった」
 抑揚のない口調にぞっとする。
 月森の痣を凝視していた東雲は、視線をあげるとゆっくりと顔を近付けてきた。目を見開く月森の唇に自分のそれを重ねる。
「ん」
 顎を掴まれ、東雲の舌先が侵入してくる。身体を拘束されているわけではないのに手足が思い通りに動かない。
 薬。
 先ほど東雲がいっていた。おそらく月森は薬を盛られたのだ。あの紅茶に入っていたのだろう。
 どうして。
 混乱する頭のなかにふたたび声が響く。
『月森さま、聞こえますか』
 影だ。
『ご無礼をお許しください。説明している余裕はありません。月森さま、主の名をお呼びください。お早く』
 彼らしからぬ性急な呼びかけに月森は戸惑う。なにより、東雲に唇を塞がれている今の状況についていけない。
 いったいなにが起きているのか。
 咥内を這い回り、絡み付いてくる舌が気持ち悪い。不破の咬みつくような口づけとは違う、ねっとりと纏わりつくようなその動きに思わず総毛立つ。
 どうして。なぜ東雲がこんなことをするのかがわからない。彼が不破のような真似をするはずがない。
 そう、脳が拒絶する。
『月森さま、私にはあなたをお助けすることができません。どうか今すぐ主の名を』
 頭のなかに響く声。東雲には聞こえていないのか、影の声には反応を示さない。
 彼は唇を離すと、月森の目を覗き込んでささやいた。
「こわがらなくていい。すぐに済むから」
 感情を写さない、ガラス玉の瞳。
『月森さま!!』
 影が叫んだその瞬間。
 胸に衝撃を受けた。
「……っは、」
 衝撃のあと、ものすごい痛みが月森を襲う。
 胸にナイフが刺さっていた。
 東雲がナイフの柄を握り、そのまま刃を身体の奥へと沈めていく。彼はまったくの無表情で、なんらかの衝動に駆られて凶行に及んだというようすではない。
 ただ淡々と。
 月森の身体を貫いていく。
 喉の奥から血が逆流してくるのがわかる。
 どうして。
 脳裡を駆け巡るのは疑問ばかりで。それさえも激痛が押し流していく。吐き出した血液が月森の顔を濡らす。
「苦しいかい? もうすぐ楽になるから。そうしたらちゃんときれいにしてあげるから、心配はいらないよ」
 悪夢に怯える月森を宥めたのと同じやさしい声で東雲はささやく。彼はナイフから手を離して赤く染まった自分の手を見つめる。
「ああ、せっかくのきみの血だけど、これではきみの絵を描けないね」
 その言葉で理解した。
 東雲は月森の絵を描こうとしている。最後の絵を。
 そして月森は紙のなかに閉じ込められるのだ。東雲の弟のように。
「……ゎ」
 声にならない声で、友の名を呼ぶ。
「ふ、わ」
「待ちくたびれたぞ」
 幻聴が聞こえる。子どものころから聞き慣れた、傲岸そのものの声が。
「不破」
 東雲がつぶやく。え、と月森は思うが、急速に失われていく血液と薬の効力のために、彼はもう視線すら動かすことができない。
 幻聴はつづく。
「先生、黙って見ていればあんた、ずいぶん好き勝手な真似をしてくれたな。だが月森は私のものだ。返してもらおう」
「だめだよ。この子はもうぼくのものだ」
 東雲の手が月森の髪を撫でる。
 その瞬間。
 月森の視界から東雲が消えた。身体にのしかかっていた重みがなくなる。
「う……」
 部屋の隅で呻き声がした。
「調子に乗るなよ。今まであんたを見逃していたのは、こいつに灸を据えるためだ。痛い目を見て少しは自分の立場を理解できたか? 月森」
 声が近付いてくる。
 胸にナイフを突き立てられ床に転がされた月森の目に、冷ややかに自分を見下ろす幼馴染みの顔が見えた。
 幻聴でも幻覚でもない。
「ふ」
 不破、と。名を呼ぼうとしたが声が出ない。
 月森の傍らに膝をつくと不破は目を覗き込んできた。
「いいザマだな。私以外の男に懐くからだ。痛いか?」
 あたりまえだろう、と怒鳴りつけたいが、声が出ないしそんな気力もない。血まみれで倒れた幼馴染みをまえにして落ち着き払った態度を崩さない不破に、絶望的な気分になる。
 やはり自分は彼にとって取るに足らない存在でしかないのだと。
 そんな月森に彼は淡々と告げた。
「心配はいらん。月森、おまえは死なんよ」
 そうして不破は無造作にナイフを引き抜く。
「がはッ」
 ただでさえ苦しいのに、まったく手かげんなく肉をえぐられて痛みのあまり意識が飛びそうになる。ナイフによって堰き止められていた血液が噴き出しあたりに飛び散る。
 不破が身を屈めて傷口に顔を近付けた。
「……っ!!」
 激痛に身体が跳ねる。
「我慢しろ。傷を塞いでやる」
 月森の胸に顔を埋めたまま不破がいった。のたうちまわることすらできず悲鳴を咬み殺して耐えているうちに、すうっと痛みが引いていくのを感じた。
「……っは、」
 全身で荒い息をしながら、そろそろと手を動かす。まだあまり力は入らないが、自分の意思どおりに機能する。薬が切れたのか、それとも不破がなにか施したのか。
 おそるおそる顔を拭うと、赤い血がべったりと付着して思わず目を背ける。
「不破」
 ようやく言葉になったのはひどく掠れた声だった。
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