春休みが長すぎる−1
文字数 1,280文字
* * *
竹越香澄は、どこにでもいるような普通の少女だった。そのはずだ。母親は早くに亡くなってしまったけれど、そのぶん、父親はとても彼女をかわいがって育てた。母の死を機に東京から越してきた、のんびりとした畑や田んぼに囲まれたその土地で、同じくのんびりと育った一人娘は、平和で平凡な幼年時代を過ごし、平和で平凡な小学生時代を過ごし、そしてそう、平和で平凡な、中学生になるはずだった。
小学校を卒業した直後、中学に入学するまでのとても短い春休みの間に、彼女はどうやら「普通」ではなくなった。
首。
やわらかかったはずの、その肌に、彼女は奇妙な病を得た。
小さな顎の下から、鎖骨の上あたりまで、首をぐるりと一周するように現れた皮膚疾患。
それはまるで、割れて尖ったガラスの破片が、モザイクのようにべたりと隙間なく肌の表面に貼りついたような見た目をしていた。そして見た目だけではなく、実際にその硬化した部分の肌は、異様なほどの鋭利さでもって、触れたものをざっくりと裂いてしまう。
彼女の首に触れる布も、彼女自身の伸ばした髪の毛先も、患部を診ようとする医師の手にはまる医療用手袋も、ただひとりの愛娘の病状に取り乱し、その小さな体を抱きしめようとする父親の両腕も、彼女の肌はいともたやすく切り裂いた。
なにが起きたのか。
驚愕する周囲の中で、案外いちばんに落ち着いてしまったのが、当の本人である香澄だったのかもしれない。
いってみれば台風の目のようなものだ。周りが暴風雨になればなるほど、真ん中の目はくっきりと静寂を保つ。
もちろん、最初からそうだったわけではない。
あの朝。
なにか、埃のようなものが喉に詰まった感じがして、香澄は咳き込みながら目覚めた。
頭の下には、カバーがあちらこちらざっくり切れてしまった枕があり、その裂け目から出てきたのであろう羽毛の塊が、ふわふわとシーツの上で転がっていた。
なんだ、これ。
ぎょっとして飛び起きた香澄は、咳の止まらない己の喉元を知らず右手で押さえた。そのとき。
ぴうっ、と。
まるで漫画のように、自分の喉のあたりから血が噴き出した。
続いて訪れる強い痛みに右手を見れば、今、喉に触れたばかりの自分の人差し指と中指の腹がぱっくりと切れている。
予想外の事態に大いに焦り、勉強机の上に置いてある手鏡を慌てて覗き込めば、そこには割れたガラスのモザイクと化した自分の首が映っていた。
思わず叫び声をあげた香澄の部屋に、「香澄どうした⁈」と同じくらい大声をあげて駆け込んできた父・光晴の目、いつも少し眠たげな、優しげに目尻の下がったその細い両目が、娘を見た瞬間に、眼球が零れ落ちんばかりに見開かれた。
それを見て、「お父さん、そんなに目が開けられるんだ……」と、己の首周りの衝撃的なビジュアルを鏡の中に目の当たりにして薄れかけた意識の中、ものすごくどうでもいい感想を抱きながら、香澄は再度布団に倒れ込みそのまま気絶した。
【続く】
竹越香澄は、どこにでもいるような普通の少女だった。そのはずだ。母親は早くに亡くなってしまったけれど、そのぶん、父親はとても彼女をかわいがって育てた。母の死を機に東京から越してきた、のんびりとした畑や田んぼに囲まれたその土地で、同じくのんびりと育った一人娘は、平和で平凡な幼年時代を過ごし、平和で平凡な小学生時代を過ごし、そしてそう、平和で平凡な、中学生になるはずだった。
小学校を卒業した直後、中学に入学するまでのとても短い春休みの間に、彼女はどうやら「普通」ではなくなった。
首。
やわらかかったはずの、その肌に、彼女は奇妙な病を得た。
小さな顎の下から、鎖骨の上あたりまで、首をぐるりと一周するように現れた皮膚疾患。
それはまるで、割れて尖ったガラスの破片が、モザイクのようにべたりと隙間なく肌の表面に貼りついたような見た目をしていた。そして見た目だけではなく、実際にその硬化した部分の肌は、異様なほどの鋭利さでもって、触れたものをざっくりと裂いてしまう。
彼女の首に触れる布も、彼女自身の伸ばした髪の毛先も、患部を診ようとする医師の手にはまる医療用手袋も、ただひとりの愛娘の病状に取り乱し、その小さな体を抱きしめようとする父親の両腕も、彼女の肌はいともたやすく切り裂いた。
なにが起きたのか。
驚愕する周囲の中で、案外いちばんに落ち着いてしまったのが、当の本人である香澄だったのかもしれない。
いってみれば台風の目のようなものだ。周りが暴風雨になればなるほど、真ん中の目はくっきりと静寂を保つ。
もちろん、最初からそうだったわけではない。
あの朝。
なにか、埃のようなものが喉に詰まった感じがして、香澄は咳き込みながら目覚めた。
頭の下には、カバーがあちらこちらざっくり切れてしまった枕があり、その裂け目から出てきたのであろう羽毛の塊が、ふわふわとシーツの上で転がっていた。
なんだ、これ。
ぎょっとして飛び起きた香澄は、咳の止まらない己の喉元を知らず右手で押さえた。そのとき。
ぴうっ、と。
まるで漫画のように、自分の喉のあたりから血が噴き出した。
続いて訪れる強い痛みに右手を見れば、今、喉に触れたばかりの自分の人差し指と中指の腹がぱっくりと切れている。
予想外の事態に大いに焦り、勉強机の上に置いてある手鏡を慌てて覗き込めば、そこには割れたガラスのモザイクと化した自分の首が映っていた。
思わず叫び声をあげた香澄の部屋に、「香澄どうした⁈」と同じくらい大声をあげて駆け込んできた父・光晴の目、いつも少し眠たげな、優しげに目尻の下がったその細い両目が、娘を見た瞬間に、眼球が零れ落ちんばかりに見開かれた。
それを見て、「お父さん、そんなに目が開けられるんだ……」と、己の首周りの衝撃的なビジュアルを鏡の中に目の当たりにして薄れかけた意識の中、ものすごくどうでもいい感想を抱きながら、香澄は再度布団に倒れ込みそのまま気絶した。
【続く】