鬼ごっこが終わるまでは
文字数 1,668文字
少年が、クッキーの油のうっすらとついた人差し指を無造作に伸ばして、香澄のサポーターの分厚い縁に触れた。
思わず身を引きつつ、思いきりその指を払いのけてしまった香澄だが、やってしまってから、あ、若干失礼な反応だったかな、と我に返る。
でもさすがに年頃のお嬢さんとして、異性に気安く触られることへの反射的な拒絶が起こるのも無理はないはずだ、と思い直した。
この行動は「また自分の首のせいで誰かに怪我をさせてしまうのが忍びない」という、香澄の中の天使のような気持ちからのものだったのか。
それとも「こいつが怪我をするのはどうでもいいけれど、また騒ぎになるのが面倒臭い」という、ある意味悪魔サイドな自己保身によるものだったのか。
そのときは香澄自身にもよくわからなかった。
「硬いな、そのサポーター。そんなごついもん巻いてて暑くない? 今日も三十二度くらいあるんだろ? 気温」
しかし、避けられた当の本人は、香澄のその動きの持つ意味を一向に気にしていないようだった。
「暑いと言えば暑いけど……」
「ふうん。そっか。大変だな。ひとりで」
「……。あのさ」
「んー?」
「あんた、人のことを祟り神とか言っておいて、その祟り神が作ったものを思いきり食べたけど」
「おう」
「祟られるの、怖くないの?」
「え? 竹越はおれのこと祟るつもりなの?」
「いや、だからわたし人間だし。そんな力ないし」
そんな力がもしあったら、今すぐその口が開かないようにしていると思う。
と続けようかとちらりと思ったが、そこは口に出さなかった。
怖かったからだ。
もしも本当に、祟りが発動したらどうしよう。
そのうっすらとした不安は、確かに香澄の中にもあるのだ。そんなことが起こるわけがないのは、自分がいちばんよく知っているはずなのに。ただの肌荒れに、祟りを起こす力などうっかり宿ってたまるものかと。
しかしながら。
空の瓶に調味料のラベルを貼れば、それは「塩入れ」や「砂糖入れ」になる。
そして自分は不特定多数の人間から「祟り神」というラベルを貼られている。
だから、もしかしたら。
空だったはずの瓶の中に、「祟り」という名の調味料が、既にみっちり入ってしまっているかもしれない。
人は思ったよりも簡単に名づけられたものになってしまう。昨日までは普通の生徒だった子も、生徒会長という肩書きを得た瞬間に、それらしい雰囲気を醸し出すようになる。清純な女性アイドルも、隠していた喫煙の習慣が発覚した瞬間に、それまでの方向性を変えることを余儀なくされてしまったりする。
鬼ごっこだってそうだ。あなたが鬼よと言われれば、もうその人間は鬼なのだ。いくら自分は鬼ではないと、鬼自身が主張しようとも。その鬼ごっこが終わるまでは。
「……どうでもいいけど、さっきからあんたあんたって、馴れ馴れしくない? 初対面だよね」
「竹越もおれのこと、あんた呼びしているんだけど」
ふと、香澄は唐突な喉の渇きを覚える。
そうか、と気づいた。
父親や医者以外の人間とこんなに普通に喋ること自体が、香澄にとっては本当に久しぶりのことだった。
人と話せば、喉は渇く。
《祟り神》と言われるようになってからは、首の皮膚、つまり喉の外側を意識することばかりで、喉の内側がこんなふうに震えることを、香澄の体は忘れかけていた。
話さないときは、むしろ、喉の奥に水があまるくらいなのに。
だから、気を緩めるとそれが、涙として体の外へ出て行ってしまうのに。
鐘の音が響く。授業が終わったようだった。その鐘に気を取られた香澄の手から、少年はあっさりとクッキーの袋を奪い返した。最後の一枚を口に放り込んで、ゆっくりと伸びをしながら立ち上がる彼の、思ったよりも背の高い姿を香澄は傘の下からじっと見つめた。
彼が言う。
「購買に行きそびれてでも探した甲斐あった。竹越。あんた、おもしろい」
思わず身を引きつつ、思いきりその指を払いのけてしまった香澄だが、やってしまってから、あ、若干失礼な反応だったかな、と我に返る。
でもさすがに年頃のお嬢さんとして、異性に気安く触られることへの反射的な拒絶が起こるのも無理はないはずだ、と思い直した。
この行動は「また自分の首のせいで誰かに怪我をさせてしまうのが忍びない」という、香澄の中の天使のような気持ちからのものだったのか。
それとも「こいつが怪我をするのはどうでもいいけれど、また騒ぎになるのが面倒臭い」という、ある意味悪魔サイドな自己保身によるものだったのか。
そのときは香澄自身にもよくわからなかった。
「硬いな、そのサポーター。そんなごついもん巻いてて暑くない? 今日も三十二度くらいあるんだろ? 気温」
しかし、避けられた当の本人は、香澄のその動きの持つ意味を一向に気にしていないようだった。
「暑いと言えば暑いけど……」
「ふうん。そっか。大変だな。ひとりで」
「……。あのさ」
「んー?」
「あんた、人のことを祟り神とか言っておいて、その祟り神が作ったものを思いきり食べたけど」
「おう」
「祟られるの、怖くないの?」
「え? 竹越はおれのこと祟るつもりなの?」
「いや、だからわたし人間だし。そんな力ないし」
そんな力がもしあったら、今すぐその口が開かないようにしていると思う。
と続けようかとちらりと思ったが、そこは口に出さなかった。
怖かったからだ。
もしも本当に、祟りが発動したらどうしよう。
そのうっすらとした不安は、確かに香澄の中にもあるのだ。そんなことが起こるわけがないのは、自分がいちばんよく知っているはずなのに。ただの肌荒れに、祟りを起こす力などうっかり宿ってたまるものかと。
しかしながら。
空の瓶に調味料のラベルを貼れば、それは「塩入れ」や「砂糖入れ」になる。
そして自分は不特定多数の人間から「祟り神」というラベルを貼られている。
だから、もしかしたら。
空だったはずの瓶の中に、「祟り」という名の調味料が、既にみっちり入ってしまっているかもしれない。
人は思ったよりも簡単に名づけられたものになってしまう。昨日までは普通の生徒だった子も、生徒会長という肩書きを得た瞬間に、それらしい雰囲気を醸し出すようになる。清純な女性アイドルも、隠していた喫煙の習慣が発覚した瞬間に、それまでの方向性を変えることを余儀なくされてしまったりする。
鬼ごっこだってそうだ。あなたが鬼よと言われれば、もうその人間は鬼なのだ。いくら自分は鬼ではないと、鬼自身が主張しようとも。その鬼ごっこが終わるまでは。
「……どうでもいいけど、さっきからあんたあんたって、馴れ馴れしくない? 初対面だよね」
「竹越もおれのこと、あんた呼びしているんだけど」
ふと、香澄は唐突な喉の渇きを覚える。
そうか、と気づいた。
父親や医者以外の人間とこんなに普通に喋ること自体が、香澄にとっては本当に久しぶりのことだった。
人と話せば、喉は渇く。
《祟り神》と言われるようになってからは、首の皮膚、つまり喉の外側を意識することばかりで、喉の内側がこんなふうに震えることを、香澄の体は忘れかけていた。
話さないときは、むしろ、喉の奥に水があまるくらいなのに。
だから、気を緩めるとそれが、涙として体の外へ出て行ってしまうのに。
鐘の音が響く。授業が終わったようだった。その鐘に気を取られた香澄の手から、少年はあっさりとクッキーの袋を奪い返した。最後の一枚を口に放り込んで、ゆっくりと伸びをしながら立ち上がる彼の、思ったよりも背の高い姿を香澄は傘の下からじっと見つめた。
彼が言う。
「購買に行きそびれてでも探した甲斐あった。竹越。あんた、おもしろい」