まるく黒い月を見る−2

文字数 1,147文字

 少女がこの、もう使われていない古い井戸の底へ落ちたのは、二か月前だ。

 落ちたときはまだ確かに息もあった。しかし、ひとりでは到底出られるはずもないほど深い湿った地面の下で、彼女の息はすぐに途絶え、その体は誰にも気づかれることもなく、ゆっくりとゆっくりと腐っていった。

 そうして、古い井戸の中でひとり死んだ少女は、けれどこうして今、なぜか夜空を見ることができている。

 どうしてなんだろう、と考えられるほどには、もう頭は動かない。当然か、もう脳みそだってほとんど残っていないだろうしと、彼女は空を見上げたままぼんやり思う。

 冷たい風が、また吹き降ろしてくる。

 肉が腐り削げた胸元に、かろうじてまとわりついている、かつて毎日来ていた制服だった布の切れ端が、その風で軽く揺れた。

 最初に腐り始めたのはどこだったかなあ、と、すでに脳髄も崩れ果てた頭の中で、彼女は思い返す。

(あ、し)

(そうだ)

(足から)

(だった、な)

 腿やふくらはぎの裏から溶け出した自分の肉が、次第に井戸の水をどろどろとねばっこいものに変えていった。それを見てショックを受けるとか悲鳴をあげるとか、もうそういう反応をする気力は、その頃には残っていなかった。

 ああ、もうすでに水が液体じゃない、なんだっけこれ、これ以上溶けきれないって、浸透圧じゃなくてええと、飽和……? と、かつて理科で習ったことを思い出せば、引きずられるように、学校の授業の断片的な記憶が、がらんどうの体からぽろぽろとこぼれだしたものだった。

(記憶)

(学校)

(覚えてる)

(いちばんはあの、調理実習、のあと)

 少女は笑う。とはいっても、肉を失った顔が笑みを形作るわけでもなく、ただ、彼女の意識だけが、かつて?だった部分に笑みを刻んだように感じただけなのだが。

 あれはいつだったか。担任の教師がなにを張り切ったのか、今日の実習で作ったクッキーは大切な人へプレゼントしましょう! などと、わけのわからないことを言いだしたのだ。

 大切な人、と言われて少女の頭に真っ先に浮かんだのは、たった一人しかいない肉親である父だったが、あいにく彼は、甘い洋菓子が苦手で進んでは食べない。

 娘である自分の手作りだ、といったら喜んでくれるとは思うが、それでも嫌いだとわかっているものを渡すのは嫌だなあ……とその頃の少女は考えていた。

(あのときは)

(うれしかった)

(食べて、くれて)

(ほ、んとう、に)

 父親ではない、クッキーを食べた相手の顔を思い出そうとして、少女は泣けない両目で空を見上げた。

(わから、ない)

(食べたのは、)

(だれ?)

 星は、やはり見えない。



【続く】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み