泣いてもいいですか
文字数 1,520文字
竹越家の朝は、男親と中学生の一人娘という組み合わせの割に、そこそこにぎやかだ。
毎日、大きな鏡の前で、光晴が香澄のサポーターを、就寝時専用のものから日中用のものへ、慎重な手つきで取り替えてくれる。最初は香澄が自分でサポーターを巻くつもりだったが、基本的にあまり器用ではない彼女が、あっという間に両指を血まみれにしたのを見て、光晴が血相を変えて以来、これが竹越家の朝の恒例行事となった。
光晴はイラストレーターだ。その父に、本来いちばん大切にしなければならない手を傷めるようなことを、香澄はさせたくなかった。だから、この作業をしてもらっているときは、自分の体が動いて、優しい父の指を余計に傷つけてしまうことのないように、それこそ息を止めるような気持ちで、彼女は光晴の作業が終わるのを待つ。そしてその間、このあとの朝食の時間、父と何を話そうかと考える。いつもは、昨日読んだ漫画や、光晴が買ってきてくれた新作のお菓子を食べた感想などを話している。しかし。
〈お父さん、あのね。昨日、わたしに学校で話しかけてくれた人がいたの。転校生〉
〈『あんた、おもしろい』って言われた〉
〈学校の子と、そういう普通っぽい会話したの、本当に久しぶりで、うれしかったんだ〉
そんなふうに話してみたらどうなるだろう、と思った。しかしながら、香澄は中学生である。お年頃だ。男の子の話を、そんなふうに自分の父親へ簡単には話せない。それに、仮に話しかけてくれたのが男子だ、と言わなくても。そもそも「久しぶりに話しかけられた」という言葉自体が、この優しい父の心を痛ませてしまうであろうことは、容易に想像がつく。
言えないなあ、と彼女は唇を噛む。
よしできた、と光晴がサポーターから手を離した。
「……どうした香澄、どこか痛いか?」
鏡に映る光晴の、大きいけれども指の細く白い両手が、確実に自分の首から離れているのを確認して、香澄は口を開いた。
「ううん、大丈夫。なんでもない」
軽く首を横に振った瞬間、
『大変だな』
少年の声が香澄の耳の奥で鳴る。まるで香澄の脳が、その声を鳴らすために作られた鈴でもあるかのように。
『大変だな。ひとりで』
それは。
彼女にとって、祟り神認定されてから初めて聞く、同世代からのいたわりの言葉だったのかもしれない。
いたわりの言葉だと、香澄が都合よく解釈できる言葉だったのかもしれない、といったほうが、より真実に近かったかもしれないが。
それでもよかった。
それは、香澄がいちばん欲しいと思っていた言葉だったからだ。
「今、自分は大変なんだ」と、誰かに承認して欲しかった。そうでないと、香澄自身が、この首についてあれこれ言われることに、実はどれだけ傷ついているかを感じ取ることができないからだ。昨日の夜、風呂の中で、首がこうなってから初めて彼女は、思いきり泣くことができた。「少しだけ」ではなく。
それでも、泣き声が風呂の外に漏れてしまわないように、湯に顔を埋めながらだったけれども。
香澄の母親が死んだときの光晴の慟哭を、その後の憔悴を、幼かった彼女はいちばん近くで見てきた。あれ以上の悲しい思いをさせたくなくて、香澄は父の前ではできる限り笑うようにしていた。
そしてそれは、「香澄の笑顔は本当にかわいい」といつも頭を撫でてくれた、亡き母の言葉を忘れないためでもあった。香澄にとって、たった三年しか触れ合う時間のなかった母の、それはほぼ唯一といってもいい思い出だった。
だから、泣きたくなかった。
でも、泣きたかった。たぶん、ずっと。ずっと。
毎日、大きな鏡の前で、光晴が香澄のサポーターを、就寝時専用のものから日中用のものへ、慎重な手つきで取り替えてくれる。最初は香澄が自分でサポーターを巻くつもりだったが、基本的にあまり器用ではない彼女が、あっという間に両指を血まみれにしたのを見て、光晴が血相を変えて以来、これが竹越家の朝の恒例行事となった。
光晴はイラストレーターだ。その父に、本来いちばん大切にしなければならない手を傷めるようなことを、香澄はさせたくなかった。だから、この作業をしてもらっているときは、自分の体が動いて、優しい父の指を余計に傷つけてしまうことのないように、それこそ息を止めるような気持ちで、彼女は光晴の作業が終わるのを待つ。そしてその間、このあとの朝食の時間、父と何を話そうかと考える。いつもは、昨日読んだ漫画や、光晴が買ってきてくれた新作のお菓子を食べた感想などを話している。しかし。
〈お父さん、あのね。昨日、わたしに学校で話しかけてくれた人がいたの。転校生〉
〈『あんた、おもしろい』って言われた〉
〈学校の子と、そういう普通っぽい会話したの、本当に久しぶりで、うれしかったんだ〉
そんなふうに話してみたらどうなるだろう、と思った。しかしながら、香澄は中学生である。お年頃だ。男の子の話を、そんなふうに自分の父親へ簡単には話せない。それに、仮に話しかけてくれたのが男子だ、と言わなくても。そもそも「久しぶりに話しかけられた」という言葉自体が、この優しい父の心を痛ませてしまうであろうことは、容易に想像がつく。
言えないなあ、と彼女は唇を噛む。
よしできた、と光晴がサポーターから手を離した。
「……どうした香澄、どこか痛いか?」
鏡に映る光晴の、大きいけれども指の細く白い両手が、確実に自分の首から離れているのを確認して、香澄は口を開いた。
「ううん、大丈夫。なんでもない」
軽く首を横に振った瞬間、
『大変だな』
少年の声が香澄の耳の奥で鳴る。まるで香澄の脳が、その声を鳴らすために作られた鈴でもあるかのように。
『大変だな。ひとりで』
それは。
彼女にとって、祟り神認定されてから初めて聞く、同世代からのいたわりの言葉だったのかもしれない。
いたわりの言葉だと、香澄が都合よく解釈できる言葉だったのかもしれない、といったほうが、より真実に近かったかもしれないが。
それでもよかった。
それは、香澄がいちばん欲しいと思っていた言葉だったからだ。
「今、自分は大変なんだ」と、誰かに承認して欲しかった。そうでないと、香澄自身が、この首についてあれこれ言われることに、実はどれだけ傷ついているかを感じ取ることができないからだ。昨日の夜、風呂の中で、首がこうなってから初めて彼女は、思いきり泣くことができた。「少しだけ」ではなく。
それでも、泣き声が風呂の外に漏れてしまわないように、湯に顔を埋めながらだったけれども。
香澄の母親が死んだときの光晴の慟哭を、その後の憔悴を、幼かった彼女はいちばん近くで見てきた。あれ以上の悲しい思いをさせたくなくて、香澄は父の前ではできる限り笑うようにしていた。
そしてそれは、「香澄の笑顔は本当にかわいい」といつも頭を撫でてくれた、亡き母の言葉を忘れないためでもあった。香澄にとって、たった三年しか触れ合う時間のなかった母の、それはほぼ唯一といってもいい思い出だった。
だから、泣きたくなかった。
でも、泣きたかった。たぶん、ずっと。ずっと。