1 戀の知らなかったこと

文字数 1,699文字

「そうよ、あの子。院長のお嬢さんなの」
 図書館へは2台の車に分かれて向かうことになった。
 それは(れん)にとって都合が良かったとも言うべきか。先ほど”院長のお嬢さん”の話をしていた女性を助手席に乗せ、詳しい話を訊いていた。
「戀君は知らなかったの?」
「ええ、家の話はしなかったもので」

 院長と言えば、どこかの病院の管理医師と言うことだろうか。
 院長とは法律上の名称ではないらしく、医療法10条によって【医業をなす病院や診療所の開設者は医師にその病院や診療所を管理させなければならないと定めて】おり、その管理者のことを院長と呼ぶ。
 その為、雇われ院長ももちろんいるわけだ。場所や形態によっては院長が理事長も兼ねている場合もある。
 なのでその院長がどのくらい偉いのか、また雇われなのかはわからない。
 だが戀にとっての問題はそこにはなかった。

 生活圏とはおおよそ半径4~6キロの距離。6キロなら車で10分程度。都心の混雑時は20分くらいのようだが、この辺が渋滞するのは事故があった時や通退勤、長期休みなどの混雑時くらいだろう。
 彼女たちは図書館近くの商店街の人たち。もちろんあのコンビニも生活圏に含まれる。駅からコンビニまでは車で20分以内だとしても、コンビニと図書館の距離となると数分程度。
 つまり彼女たちが知る、その医院が生活圏内にある可能性の方が戀にとって重要なのである。

「その院長がおられる医院はどの辺にあるのですか?」
 戀の質問に対して、彼女たちは口々に言う。
「確か駅から近かったわよね」
「戀君が言っていたコンビニと図書館の間だったはず」
 その話からおおよその位置を想像し、更に嫌な予感がした。
「救急搬送もされる大きなところだから、すぐに分かるわよ」

 ”なるほど、救急病院か”と思いながらこの先の可能性を考えて調べた知識を引っ張り出す。
 救急病院は通常の診療時間外に患者を受け入れ、応急処置や治療を行う。消防法に基づいて都道府県知事が告示、指定する医療機関のことだ。
 その指定を受けるためには、それなりの設備などがあることが条件となってくるがそれについては病院側の問題。戀にとって必要な情報ではない。

 救急指定病院には一次、二次、三次があるのだが、最初に運ばれる場所が一次。入院などの設備が必要となれば二次に送られるシステム。重症と診断された場合二次に送られるようだが、三次以外は恐らく一次を通るだろうと思った。三次救急は【複数の診療科領域にわたる重篤な救急患者】が対象となる。

 あの路地でかなりスピードを出していた車に跳ねられたという可能性も捨てきれないが、その場合は即死なのではないかと思う。即死でも救急車は呼ぶのだろうか? その辺の知識がなかった為、戀には判断がつかなかったが、まずは生きている可能性に賭けたい。
 なので、そんな事故が起きていないことを祈るばかりだ。

 とは言え、図書館に着くころにはすっかり複雑な心境となっていた。
 元カノは院長の娘。しかも救急指定病院の。これは天の導きとでも言うべきなのか。
 駐車場に車を停めようとしたところ、更なる衝撃が戀を襲う。
「そう言えば、あのお嬢さん。最近男性とよく一緒に散歩しているところを見るのよね」
「え?」
「これがなかなかイイ男なのよ」
 シートベルトを外そうとしていた手を止めた戀。何故自分がこんなに動揺しているのか分からない。

 まだ噂話を続けている彼女たちを余所(よそ)に戀は元カノのことに想い馳せる。未練があるわけではない。縛られているはいるが。
 彼女と別れることになったのも二年くらい前だったよなと、ぼんやりと思う。理由は思い出したくもない。非は自分にある。
 よくあるすれ違いによるもの。

 それだけ時間が経っているのだ、新しい恋人くらいできていても不思議はないだろう。
『わたし、惚れっぽいの』
 本人もそう言っていたではないかと戀は自分に言い聞かせる。ショックを受けているのは、決して彼女のことが今でも好きだからではない。
 自分だけが引きづっているから。

「さて。着きましたし、降りましょうか」
 自分に言い訳をして彼女たちに明るい笑顔を向けた戀であった。
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