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文字数 13,376文字

 リストランテのようにかしこまった服装や気構えなど必要無い。対価となる金さえ払われればそれなりの料理とワインを提供し、店を利用する気概を持ち、他の客に迷惑を掛けない最低限の人格を有していれば、どんな人間も拒まずもてなす。バールの様に早朝から店を開けてエスプレッソは出さないが、贔屓にしてくれている客にはピクルスを、あるいは甘酢和えの小皿が振る舞われる。
 マリオの店はさして大きくも無いが、彼が住んでいるボートハウスの様に小さくもなかった。白い壁紙は薄黄色い照明を反射し、ぼんやりと明るい店内はどこか活気があり、壁に沿って並ぶ木製のテーブルには全て、同じデザインの黒い椅子が四つ付いている。
 カウンター席には少し背の高いチェストが据え置かれ、仕切りの上には、皿や店で使っているのだろうトマト缶に加え、数種類のワインボトルが並んでいる。カウンターの向こう側は厨房となっていて、磨かれた銀色のダクトやコンロや調理台、オーブンや調理器具の木製の把手が見えていた。
 各所に飾ってある絵画や民族性を象徴する動物や、妖精の置物といった細かい点に目を瞑れば、母国でも見受けられる肩のこらない小料理屋の景観は、すんなりと胸に落ちた。
「お前たちを助けてやった時に貸したナイフ、あれは俺のお気に入りだしそこそこの値段がしたが今じゃ川の底だ。予備の毛布も汚れちまったからクリーニングに出さなきゃならない。温かい飲み物と食い物を与えて介抱してやり、新しい服と靴も与えた。一晩、泊まらせてやったしな。その採算はざっと見積もって十日から二週間前後の計算になる」
「つまり二週間俺たちにタダ働きをしろと? おい爺さん、好々爺を気取っている割には、なかなかのヤクザじゃねぇか」
「人に使われる人間がいる傍らで人を使う人間がいる。俺は人を使う側なだけだ。二週間ってのもだいぶ甘々な見積もりなんだぜ? 少ないが賃金は払う。日払いだ。何かの足しにはなるだろう」
 攫われたとは言え幸い、僕らは国境を跨いでいたわけではなく、宿泊していたホテルへの連絡はすぐに着いた。事情を話すと置きっ放しの荷物やパスポートはホテル側で預かってくれていたから、代金は僕持ちになるが、輸送してくれるらしい。
 僕の無事を心底祝福してくれたはいいものの、なにぶん、ホテル側も初めてのケースであり、後の処理は自分で法執行機関か大使館に相談してくれという胸を伝えられた。
 ひとまず安心できたが、輸送費に加えて帰りの飛行機のチケットを取り直さなければならず、予算オーバーだ。クレジットカードが使えない程、金が無いわけではないが予想外の出費に変わりない。少しでも金が手に入るのはありがたかった。
「うまい話に聞こえるが結局それって問題の先送りじゃねぇか。今直ぐ警察に駆け込んで、拉致被害者をこき使った店だと、訴えたっていいんだぜ?」
「命の恩人の俺にお前はそんなことできんさ。せっかく来たんだ、休みがてら人の役に立って良い思い出作ってから帰れよ。それとも何か? 皿洗いをする自信も無いってのか」
 けっ、と不服そうにヨキはマリオの手から黒いエプロンを取ると、肩紐に腕を通した。彼が与えてくれた真新しい白いシャツと黒いスラックスのサイズは、僕には少しばかり大きかったがヨキにはぴったりで、エプロンを纏うと見事なギャルソンがそこに現れる。
 なかなか似合っているぞと嬉しそうに、マリオは僕らを厨房へ入れると一通り皿や道具がの場所を説明し、バケツとモップを手渡す。まずは店の清掃から始まるところは、万国共通なのかもしれない。
 ヨキは厨房を、僕はホールを任せられた。椅子を逆さまにして座面をテーブルに乗せるとバケツのペダルを踏んでモップの水を切り、角の方から床拭きを始める。学生の頃に個人経営の飲食店でバイトしていた頃をぼんやりと思い出した。
 老夫婦が経営する店はちょうど、ドン・ドニーノくらいの大きさで、いつも古い家屋の匂いがしており居心地が良かった。ガツガツと稼ぐ方針ではなかったが客の入りは多く、繁盛していて忙しかった記憶がある。営業が終わると毎回、全身からは皮脂と様々な料理の臭いが漂い、家に帰る頃にはヘトヘトでシャワーを済ませるとすぐに眠ってしまたが、大学卒業間近まで二人に使われていたのは、夫婦が僕を可愛がってくれていたからだった。
 夫婦は僕を孫のように感じていたのかもしれない。愛情とまでは言わずとも夫婦からは慈愛を感じられたが、数ヶ月前に僕を解雇した会社の人間からは、そういったものは全く得られなかった。
 バイトで、責任がそこまで重たくないことを差し引いても、あれは贅沢な環境だったのだろう。どうせ使われるのであれば彼らのような、人を駒としてではなく、人として見るような経営者の元に身を置きたかった。
 床拭きが終わるとマリオは、巨大な冷蔵庫から玉ねぎやパプリカ、ナスやトマトやズッキーニを取り出し、一通り切り方の見本を見せてナイフを預けた。
「なぁ、あの爺さん、怪しいと思わねぇか? 死にかけの人間に手を貸すのは善意や良心の類だとして、仕事まで与えるか? お前が爺さんの立場だったら、素性も知れない人間を自分の店で使おうと思うかよ」
 作業を始めてから間も無く、手伝うぜ、と隣に立ったヨキはしばらく黙っていたが、二つ目の玉ねぎをざく切りにし終わったところで、口火を切った。
「あんな目にあったばかりだし、一時的に人を信じられなくなっているだけだ。良いじゃないか、僕たちはマリオに貸しを作ったから、それを返済するだけ。ギブアンドテイク。感情が入っていない分、シンプルだ」
「爺さんが善人とは限らない。また生死の選択権を奪われても、黙っていられんのか」
「それは嫌だけど……」
「ならちょっとは、人のことを疑えよ」
 言いたいことを言い終わったヨキは、今度はパプリカに手を伸ばし、手元に集中し始める。返答の言葉を探してみるが、彼の言うことにも一理あるのでなかなか返答の言葉が見つからない。
 囚われて苦しみの渦中にいた時は是が非でも帰りたかったが、解放された今、国に帰ったところで僕は失業者で、寄る辺が無い。次の就職先も決まっていないし、旅先でフラフラもできないのであれば、働いていた方が気が紛れる。
 ただでさえ理不尽な暴力に晒され気が滅入っているのだから、とてもどん詰まりの人生を直視する気力なんか湧かず、ヨキには悪いがマリオの申し出は、気分転換と言う意味でも、社会復帰へのリハビリという意味でもありがたかった。
 言い返すのを諦めて僕も作業に戻ろうとしたところで、店の扉が開いた。入って来たのは大男だった。身長はざっと見積もっても二メートル近くあり、白髪交じりの長髪を後頭部で一本に束ねている。顔の彫りは彫刻の様に深くて口の周りと顎にヒゲを蓄えている。広い背中はどこか、超然とした雰囲気を纏っていた。
「あれ……? 君たちは?」
 僕たちに気づくなり、目を丸くした大男の声は掠れて野太く獣が唸っているようだった。
「やあ、おはようさん。こいつは料理長のディーノだ」
 大男に僕とヨキをどう説明するか言い淀んでいると、店の奥の倉庫からマリオが食材を抱えて戻って来た。
「一人しかいないからこいつが一番上。コーヒーや酒、客の相手は俺がやって、料理は全部こいつに任せている。給仕は手分けしてやっているが、しばらくお前らに任すよ」
「とっつぁん、新人なんて聞いてないぞ?」
「そりゃそうさ、さっき雇ったばかりだからな」
「あー……あぁ? ……そうか、うん。よくわからないけど、まぁ、とっつぁんが決めたのなら文句は無いよ。常連さんの紹介?」
「いいや、そういうのじゃない。それよりも来て早々で申し訳ないがちょっと手伝ってくれないか。セモリナ粉の袋が重くてな。ついでに二人のことも教えよう」
 食材を冷蔵庫にしまいながら飄々と言ってのけたマリオはまた倉庫に消え、溜め息混じりにヒゲを撫でつつ、僕とヨキの顔を観察しながらディーノもその後に続く。
「おい見たかよ……なんだあの絵に描いたようなガチムチ! あいつと二週間も一緒とか、冗談だろ……一つでもミスしたら殴り殺されそうだぜ。だから飲食は嫌なんだ! 臭いし汚いし、おまけにキツイ! 仕事しながらどう休めってんだ!」
 落胆しながらも、ヨキはしっかりと手元を動かしていた。なかなか律儀な奴だ。言葉遣いや素直じゃない性格で色々と損をして来た背景が伺える。なんだかんだ良い人間だというのに、もったいない。
 ヨキは気づいていないようだったが、ディーノの体格や背格好はそこらの大人よりも大人らしいというのに、爽快な青瑪瑙の瞳は幼子の様に澄み渡っていた。きっと、彼が想像しているような暴力的な人間ではないだろう。
 最後のパプリカを切り終えたので次はトマトに掛かる。つるりとしていて皮の表面がパンッと張っているのは変わらないが、ぶっとい唐辛子のように細長かったり、ボコボコと不恰好に膨れていたりしていた。
 見慣れたまん丸のトマトのように、これから青くて甘酸っぱいあの味がするとは、どうにも思えず、首を傾げているところに、やぁ、と柔らかく呑気に言いながら大きな紙袋を肩に乗せて戻って来たディーノは、僕たちと同じ様な服装に着替えていた。
 白いシャツの僕やヨキとは違い、ディーノは真っ黒なシャツとスラックスで全身を黒で包んでいて、着けているのもエプロンではなく、腰から腿を隠す前掛けだ。そんな佇まいは、真っ白なコックコートよりも、どこかスマートな印象を受ける。
「とっつぁんから事情は聞いたよ。まだ飲み込めてないけど大変だったそうじゃないか。ゆっくりしていきな。ただ、仕事はしっかりしてもらうし、僕の邪魔はしないでね?」
 どこか困った素ぶりを隠さず、それでも笑って見せたディーノは、小麦粉の封を開けるとボウルに移し、秤を使って分量を確かめながら水や卵を混ぜ合わせ、パスタを捏ね始める。作り方を熟知した手元に迷いは無く、生地がまとまるまであっという間だった。
「パスタは少し寝かせておいて野菜は……ええと、ヨキ、だっけ? 玉ねぎはいいから、先にナスを一本頼むよ。切り終わっている分は貰っていくよ」
 下処理が済んでいる野菜を自身の近くへ持っていったディーノは早速、オリーブオイルを注ぎ入れたフライパンを火に掛ける。
「何作るんだ?」
「サービス用の甘酢和えだよ。基本は注文を受けてから作るけれど、これはまぁ、店側の善意だから。メインのオーダーを疎かにできないからサービスは賢くってね。少し、スピードを上げてくれ。もうすぐオープンだからね」
「あんたと爺さん以外に従業員はいないのか? これで営業できてんのかよ」
「たまにとっつぁんの知り合いが手伝ってくれるけど基本は二人だ。夜もあるし無理はしない。と言っても、客の入りようによってはそうも言っていられないけどね」
 なるほどと嘆息するヨキからナスのボウルを受け取り、ディーノは調理へ戻る。人と話す時は朗らかでも、一度仕事へ戻ればその横顔は真剣そのもので、サービス用の作り置きだからと、妥協をしている様は一切見受けられなかった。
 今日もやるか、というマリオの宣言と共に、オープンしたドン・ドニーノは、開店当初こそ客足は穏やかだったものの、昼時になるにつれて続々とやってきた客で、あっという間に全ての席が埋まる。
「上がってるよー、急いで急いで」
 次々と出される料理の皿を運んでは荒れ果てたテーブルを片付け厨房に戻り、空になった皿を洗える限り洗ってまた料理の皿を運ぶ。足は自然と急ぎ足となって息が上がり、シャツの下がすぐに汗まみれた。
「なぁおい新人、アルフレードは馴染みなんだ。サービスしてやっとくれ」
 喧騒なんぞどこ吹く風と言うように、カウンターの客と話しながらコーヒーのマグを傾けているマリオに返事を返し、小皿に盛ったピクルを出す。大量にあった作り置きの甘酢和えはとっくに無くなってしまった。
「ヨキごめん、隣のフライパンを頼む」
「これ、もう出来上がってるんじゃねぇのか? 肉が焦げちまうよ」
「だから火から降ろして皿に盛り付けてくれ、ソースは鍋で温まってるから」
「盛り……ど、どんな風にすりゃいいんだ!?」
「君を信じる。それとこっちに来るなら手に着いた泡を落としてからにして!」
 もとより人手が少ないこともあり、僕とヨキは給仕だけに徹するのでは無く、補佐もしなければならなかった。マリオやディーノの言葉に険や棘は無かったが、稼ぎ時のオーナーと料理長の言葉の効力は強く、有無を言わさず体は彼らの指示通りに動く。
「うわあぁ、なんでこんなソースのかけ方しちゃうのさ!? 皿の半分が真っ赤だ!」
「肉全体にぶっかけた方が、客が得した気分になるかと思って……」
「多いよ! フォカッチャを多めに付けないと怒られるなこれは……」
 ちなみにヨキの盛り付けセンスは絶望的で、彼が仕上げた一皿を目の当たりにしたディーノは、平静と動揺の間で呻く羽目となる。それで学習したのか、その一件以来、調理補佐をして欲しい時にディーノは僕を呼ぶようになった。
「そうそう、トングを捻って。皿の真ん中になるべく高くね。そのジェノベーゼ、頼んだよ」
 忙しさに飲まれぬよう落ち着いて、ゆっくり。かつての給仕経験を思い出し、駆けたくなる衝動を抑え、確かな足取りで客の元へ料理を運び、グラスや食器を傷つけないように優しくかつ素早く重ねる。
 体はまだ、体捌きを覚えていたようだ。何だか懐かしい。できることなら企業に入らず、老夫婦の店で大学を卒業した後も雇われていたかったが、大卒の人間に見合う給料は払えないと言われてしまい、あえなく断念せざるを得なかった。
 デスクワークを経験したあとで改めて感じるのは、椅子に座りっぱなしよりも、こうして体を動かしている方が性にはあっているみたいだ。少なくとも、目の前のことに集中している限り、余計なことは考えずに済み、昼の営業時間が終了まであっという間だった。
「エイジ、ディーノを手伝ってやってくれないか。ヨキ、お前は俺と仕入れだ」
 賄いを食しコーヒーブレイクも終わると、マリオはお気に入りのハンチング帽を頭へ乗せる。もとより僕とヨキに拒否権などなくて、ヨキは、へいへい、と気だる気に言いながらエプロンをカウンターに置き、二人は連れ立って店を出て行った。
 手持ち無沙汰になった僕はディーノの指示を仰ごうと裏口の戸を開けて外に出るとそこには誰もいなくて、路地を挟んだ向かい側の建物の換気扇と室外機がゴンゴン唸っている。
「とっつぁん? ……なんだエイジか」
「仕込みを手伝えってさ」
 ディーノは店の側面に設けられた金属の階段に腰掛け一服していた。階段の上に目を向けると、小さなドアノブに行き着く。ドン・ドニーノが二階建ての家屋なところをから鑑みるに、一階が店なら二階は居住スペースなのだろうが、マリオもディーノも使っているようには見受けられない。物置にでもしているのだろうか?
 もうそんな時間かと、ディーノは太い手首に巻きつけたシンプルなモノクロの腕時計を見やる。そんな彼の口元で揺れる紫煙がこちらまで漂い、僕は思わず生唾を飲んだ。
「……なぁ悪い、僕にもタバコ、一本分けてくれないか?」
「ん? あぁ、なんだ。気が利かなくてごめんよ。ほら」
 ディーノのポケットの中でソフトケースはぺしゃんこになっていた。口を広げ、手首にスナップを利かせて振り、飛び出た一本を受け取ると火を借りて、久方ぶりのニコチンとタールと一酸化炭素を肺に取り込んだら思い切り咽せた。
「大丈夫? もしかして初めて吸ったとか?」
「いいや、ゲホッ……、久しぶりだったからだよ」
 昨晩、ボートハウスでマリオに日にちを聞いたら僕とヨキが拉致されてから約四日が経っていた。しばらくタバコを吸っていなかったから刺激は少し強く感じたが、相変わらず好きなものには変わりないし、やっぱり美味い。
「君の年齢は顔で測れないな。本当に成人しているのかい?」
「これでも二十五だよ」
「見えないなぁ……生意気盛りの子供みたいだ。覚えてから何年になる?」
「五年、かな。二十の誕生日に友達から強引に勧められて、絶対に吸わないと決めていたんだけど、思ったほど悪くなくて。気づいたら好きになってた」
「こんなのが好き、ねぇ」
「ディーノは違うの?」
「僕がやめられないのは、口唇欲求が強いからだ。忙しい時は忘れられるけど、休憩の時は寂しくてね。幾つになっても、ママンのおっぱいは忘れられないもんだね」
 そう言ってひとしきり笑った後、ジョークだよと照れ臭そうにはぐらかしながらディーノは火種をもみ消し、吸い終わったらおいで、と気さくに言い残し、長い後ろ髪を揺らしながら店の中へ戻っていった。
 ジョークと濁していたが、ディーノの口ぶりからはそんな様子は伺えなかった。あんな也をしているくせにマザコンなのかと思ったが、別にマザコンであることに体躯や年齢は関係ないかと、ぼんやり思った。
久方ぶりのタバコをフィルターギリギリまで味わい尽くし、僕も店へと戻る。ディーノはチビな僕と違って熊のような大男ではあるけれど、寂しがり屋なようだ。何故だか、彼とは仲良くなれそうな気がした。

 まず最初に客に振舞われるのは本日のマリネと、蒸したムール貝を豪快に持った皿、もしくは生ハムや薄切りにしたサラミなどの前菜類。
 頃合いを見計らってパセリとアンチョビのクリームペンネや、パルミジャーノとルッコラを使ったリゾットなど穀物を使った料理が提供され、バルサミコベースのソースを掛けた白身魚の甘酢和えや、きつね色に色づいたカツレツなどの主菜が続く。
 食後のドルチェはティラミスもしくはババロアで、マリオが淹れたエスプレッソが付いた。その後の食後酒は、客次第。
 ランチタイムはアラカルトのみだが、ディナーはそれ以外にもディーノが考案したコースも注文できた。食事と一緒にワインと談笑を嗜む客も多く、席についてから帰るまでの時間も長い。夜のドン・ドニーノは昼間とはまた質の違う賑わいで満ちた。
 昼間とやることはさして変わらず、料理とアルコール類を伝票に書けばいい。コースを所望された場合は、肉か魚かフルコースかアザーかを聞けば良かったが、客が好みに合わせてコースを作る時や、どの順番で料理を給仕して欲しいかを伝えられる時は、耳をそばだてなければならなかった。
 さらに、給仕以外に僕はディーノの手伝いをすることが多くなったし、ヨキはマリオの側でワインのコルクを抜く傍ら接客も担い、彼を気に入った常連客からグラスを勧められていたりした。
 長年の一人暮らしで僕は料理に慣れていて、根は真面目だがやさぐれ気味で、人を食ったような性格のヨキはバーテンが性に合う。働き始めてまだ一日が終わってもいないのに、各々が収まるべきところへ収まったということは、昼間の働きぶりでマリオが下した判断は正しかったわけだ。
 深夜近くまで営業するものだと思い込んでいたが、ディーノは二十一時以降の来客は断れと僕とヨキに指示を出した。その三十分後にはマリオがドリンクの注文を締め切り、入口の札をクローズに戻す。最後の老夫婦がボトルを干して水で酔いを覚まし、二十二時過ぎに店を出る頃には、皿や調理器具の三分の二が洗い終わって、マリオが淹れてくれたコーヒーを飲む余裕さえあった。
「まだ稼ぎ時だろ? 閉めるには早くないか」
「週末はもう少し遅くまで開けているが今日は平日だ。この辺で切り上げないと、俺たちが飲みに行けなくなるじゃないか」
 小さい店だし、人もいないし、欲張ってもいいことなんかありゃしないさ、と自分のマグカップを洗い終えるなり、マリオはテーブルの一つを占領し、売り上げを数え始める。
「そういうことだ。初日だし疲れただろう? 仕事を終わらせて飯でも食いに行こう。エイジはタバコを買いに行かなきゃならないしね。ほら、一本どうだい」
 給仕経験があるとは言え、学生の時より体力が低下している。一日中動き回っていたこともあり、じんわりと両足に疲労を感じていたところへ、ディーノから差し出されたシガレットはとてもありがたかったが、まだ仕事中なことを思い出して手を引っ込める。
「後で貰うよ。シンクにまだ食器が残ってるし、食洗機の中身も片付けなきゃならないし」
「そんなのすぐに終わるでしょ、いいから吸っておきな。顔、硬くなってるよ」
 苦笑を浮かべながらディーノは換気扇を回し、タバコの先に火を着けた。
「ちょっ、店の中は禁煙だろ!?」
 料理人にとって厨房はある意味、神聖な場所なはずで、そんなところで一服なんて不躾なことをやり始めたディーノに思わず狼狽してしまうが、ディーノはあっけらかんな態度を崩さず、いいよこれくらい、なんて微笑みを浮かべた。
「厨房は……聖域だろ?」
「大げさ。間違いじゃないけどそんなのは、教会とかそうあるべきところだけでいい。何でもかんでも神聖視するのはオススメしないな。いるの? いらないの?」
 そこまで言われてしまったからには貰わない訳にはいかず、食器についた洗剤を洗い流してエプロンで手を拭き、ディーノからタバコを受け取る。
「やれやれ、もう一踏ん張りだ。気楽に行こう」
 終わり間際が一番かったるいんだ、と器用にタバコを咥えたまま、ディーノは洗剤をスプレーしてコンロ周りの油汚れをやっつけに掛かる。そんな背中がかつての二人の恩人と被った。
 老夫婦は何かと口うるさく、世話焼きなところが鬱陶しいと感じないわけではなかった。仕事場に入る前に食事を済ませてきたと言うのに、余ったから食え、と女将さんは食べ物を出してくるわ、旦那さんは旦那さんでレポートが佳境で徹夜が続いていた時なんかは、しっかりせい、と栄養ドリンクや腹に優しそうな薄味の大根の煮物なんかを出してきた。
 なまじ流行りの店な分、下手な店の料理よりも美味くて始終、食い物につられてばかりだったなと、誰にも気づかれないようにほくそ笑む。
 恩人である夫婦が提供する食べ物を喜んで享受したのは、彼らの料理が美味かっただけでなく、二人が他者を承認することに長けていたからでもあった。食べ物という形で無償の善意を向けられても、それに対して一々、腹づもりを疑わなくても良かったし、夫婦の為、ひいては自分自身の為に働くことができた。つまり、夫婦の店は給料や待遇が良かったわけではないが、少なくとも僕の存在が許されていた場所でもあった。
 会社員の時を反芻してみると、仕事に精を出す反面でいつも不安だったような気がする。変に仕事ができてしまった分、妬みや嫉みを孕んだ無言の圧力なんかはいつも感じていたし、キャパシティもオーバー気味で、僕を承諾してくれる人は一人もいなかった。
 そんなものと言われれば、そんなものなのだろう。様々な思考と思惑が交差する労働の場で、自身の気持ちと相手の思考に折り合いをつけ、金の為だとのらりくらりとかわせる奴がいる傍ら、誰かしらに認められたいが叶わず、なんの為にこんなことをやっているのかと、根本を疑い始める奴もいて、僕は後者だったに過ぎない。
 仕事を全て片付けるとマリオとディーノは、近くのオステリアへ僕とヨキを案内した。オステリアはドン・ドニーノよりも解放的だったがどこか雑然としていて、メニューにコースは存在せず、好きな料理と酒を注文できる。小洒落た居酒屋のような飲食店だった。
 開店当初のドン・ドニーノはトラットリアを名乗っている通り、ランチでもコース料理を提供していたが、昼間はみんな家で食べるか、食べたいものを自由に食べる傾向が強く、下処理した食材が無駄になるので、ディナー限定にしたそうだ。
 厳密に料理をコースで楽しむ場所とは決めつけず、アラカルトとコースの両方を楽しめる。ただし飲食店の中で一番グレードが高く、ドレスコードがあるリストランテのように、こだわり抜いた食材を使った小綺麗な料理ではなく、郷土料理や家庭料理をメインとしているのがトラットリアだと、ワインで血色が良くなった顔でマリオが話していた。
「オステリアと唄いつつも、リストランテばりの料理と値段の店もあるし、定義なんてそもそも曖昧なんだよ。僕の料理の基本が家庭料理で、とっつぁんも高級志向ってわけじゃ無いから、ドン・ドニーノはトラットリアなのさ。それで、そこらの飯屋なんかよりも美味い物を出しているんだから、僕たちは良心的さ」 
「うわっ……なんだそりゃ」
「このくらい言えないと小さな店でも料理長なんかやってらんないよ」
 オリーブオイルと塩胡椒で味付けされたイカの輪切りにフォークを刺しながら、得意げなディーノにヨキは辟易するが、気にする素振りを見せず厚めに切った肉を頬張った。
 明るい性格なディーノとマリオはアルコールのせいでさらに陽気になっているせいか、二人はとてもよく喋った。僕たちの出身地から職業、どういう親に育てられどんな勉強をして、なんで拉致される羽目になったのかまで細かく聞かれたし、僕とヨキの口が疲れてきて言葉数が少なくなると、今度は自分たちの話を始めた。
「こいつは泣き虫で、初めて会った時も仕事のことでグズってたんだ。こんな風貌なのに情けないだろう? なんだか放っておけなくて、そんな仕事辞めちまえと引き取ったはいいものの、使い道を考えていなかった。その時、ドン・ドニーノの開店準備を進めていて、何ができるんだと聞いたら料理と答えたから、試しに料理をやらせてみたら、これが抜群に上手かったんだ。おかげで料理人を探す手間が省けた」
「料理は好きだったからねぇ。仕事も向いてないどころか、時期社長の座を巡る派閥争いで組織がぱっくり二つの派閥に別れて居心地も悪かったんだ。会社を辞めようと本気で思っていたからこっちも本当に助かったよ」
 落ち込んでいた時に助けられただけでなく、身柄を引き取りドン・ドニーノの立ち上げを手伝わせてくれたし、料理長にしてくれたマリオはある意味、父親代わりだと言いつつ、ディーノは優雅に片手を上げて給仕を呼び、追加のワインを頼んだ。既にボトルを三本開けているし明日も仕事だというのに、意外と刹那的な面があるようだ。
「いくら料理がうまいとは言え、会社員がいきなり料理人になんてなれるもんなのかよ」
「だから店が開くまで、必死に研究したよ。知ってる料理を一からレシピに起こすとこから始めて、適当にやっていたものを厳密にするように体に叩き込んだし、とっつぁんと色んなものを食べに行った。使ったことが無いスパイスや食材を調理したし、良いアレンジがないかは毎日考えてる。これはこれでしんどいけど、体を壊すほどストレスは溜まらないし、嫌な仕事と人間と関わっているよりもずっと楽しい」
「それで俺の店は潰れていないんだ。ディーノには才能があるってことだ」
 才能、か。それを言うなら僕にはどのような能力があるのだろうと、グラスを傾けながら考えてみるが、すぐにそれが無意味であると気付いた。考えている内はわからないと言ってしまえばそれまでだが、こればかりは理屈ではないし、社会にさほど必要ではないから、顕現しているように見えないだけなのかもしれない。
 そんなことで悩むような年齢ではないし、僕は僕だ。なんて強がってみるも、自分のやるべきことがわかっていて、それに準じている人間が正直羨ましい。
「どうした浮かない顔して。ワインが不味かったか?」
「いや……僕って決断能力が本当に無いなぁと思って」
 無職の身であればなおさらで、もっと視野を広げていれば良かったと後悔しそうになったが、そこまでいくといよいよ気分が落ち込んでしまいそうなので止めておいた。
「なぁマリオ、そう言えば僕とヨキは今夜、どこで寝れば良いんだ? 流石に今夜もボートハウスにまた世話になるのはちょっと、気が引ける」
「俺だってそれはごめんだ。店の二階が空いている。ドン・ドニーノが軌道に乗るまでディーノが籠っていた部屋だ、そこを使うといい。ただし、ベッドは一つ。一人はソファを……」
 そこまで言いかけたところでマリオのスマートフォンが鳴った。誰から掛かってくるかわかっていたのかマリオは会話を中断し、ろくに確認もせず着信へ応じ始める。
「俺だぁ……え? いやいや酔っちゃいないよ、飲んではいるがな。それで、どうだった……うん……うん……ちょっと待ってくれ。悪い、長くなりそうだ」
「今日はここまでだな、行くぞお二人さん」
「ちょっと待てよ、まだ四本目のボトルが残ってるぞ」
「ありゃ多分、カジノ仲間からの連絡だよ。邪魔しないほうがいい」
 歩きながら飲めと後ろ手に手を振りながら、さっさと行ってしまったディーノの後に続いてオステリアを出ると、冷えた空気が気持ちが良い。周辺の店もそろそろ店仕舞いなのか、歩道は満たされた腹と酔いで、和やかな雰囲気のまま帰路につく人間達がちらほらとしている。別れを惜しむカップルが、堂々と口づけを交わしているところを通り過ぎるのはバツが悪かったが、そんなもの慣れっこだと言わんばかりに、ディーノは上機嫌に口笛を吹き、ヨキは大きなゲップでやっかみを紛らわしていた。
「行儀が悪いなぁ」
「放っとけ、こちとら失恋したばっかなんだ」
「なるほどそれでヤサグレているのか君は! だっさぁ!」
「てめっ……ぶん殴るぞコラァ!」
 ディーノが腹を抱えて笑えば笑うほど、ヨキはムキになった。不思議な男だ、図体こそ厳ついが距離感が近くて威圧や重圧を感じさせない。会社を辞めてマリオに着いていったのも、ひょっとしたらこんな風に、大人になってからもずっと、無邪気さを保ち続けていたかったからかもしれない。
 ディーノの左右に揺れる背中は、スーツ姿で昼間の街を気取って歩くよりも、こんな夜に誰かと笑いあってタバコを吹かしている方がずっと似合っていると思った。
 昼間、食材の仕入れついでに、マリオは僕とヨキの下着類やシャツも買ってくれていたようで、一度、照明を落としたドン・ドニーノへ戻ってそれを取った後、裏手に回り、ディーノの案内で彼と共にタバコを吸った階段に足を掛ける。
 階段を登りきったところでポツンと、壁の中に佇んでいたドア開け、部屋の中の説明を簡単に聞いた後にディーノから鍵を受け取った。
「しばらく使っていなかったからちょっと埃っぽいかもしれないけど、まぁ好きに使ってよ。明日は今日と同じくらいに店に降りてきて。それじゃあね」
 チャオ、と言い残してディーノが帰ると、酒臭いヨキがズイッとオステリアから持って来た飲みかけのワインボトルを差し出してきた。
「お前も飲めよ」
 ボトルを受け取るとヨキは、どっかとソファに座り込んでしまった。慣れない環境で丸一日動き回り、酔っ払って疲れ果てたといったところだろうか。僕も人のことは言えず、ヨキのワインをラッパ飲みしながら、オステリアに行きがてらに買ったタバコを吸っている内に気が抜けて、半分も燃えないうちにじわじわ目の周辺が眠気を帯び始めた。
「やっぱり何か変じゃねぇか」
 ヨキの声にあくびをかみ殺しながら振り返ると、彼はソファの上に寝転んでぐったりと、両目を腕で隠している。
「なんだ、この手厚さは。妙に引っかかる。マリオもディーノも良い奴だけどなんか裏があるようにしか思えねぇ。俺は、考え過ぎなのか?」
「きっと、そうだ。一日目だぞ? 見極めるのにはもう少しかかる」
 まぁそうだよなぁ、という小さくぼやいたのを最後に、ヨキは沈黙してしまった。どうやら眠ったようだ。眠気をこらえながらシャワーを浴びてベッドに寝転ぶと、マットレスとシーツと枕からは仄かに、料理とスパイスの匂いがした。料理人が体を預けると、寝具にまで厨房の香りが染ってしまうものなのだろうか。
 嗅ぎ慣れない香りだし、使っていたのが男だとしても不思議と、気分がすんなりと落ち着いていた。僕は実はゲイだったんじゃないのかと一瞬、自身を疑ったが、ひと時の平穏を覚えたとしても、ディーノが恋しくて気持ちと感情は昂りそうにない。
 安心を覚えるのは、周辺にある物のほとんどが見慣れず、知り得ず、あちらこちらに無意識に興味を引かれ、一時的に情報が過多になっている中で唯一、ディーノの匂いは身近になりつつあるものだから安らぎを覚えているだけだ。
 願わくば男でそんな感覚は抱きたくなかったが、わがままは言っていられない。深い溜息を一つついて目を閉じ……ゆっくりと開く。一つ、とても大事なことを忘れていた。マリオから日給を受け取っていないじゃないか!
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