04

文字数 10,196文字

「エイジか……ちくしょう、あんまり逃げられなかったな……」
 車から離れた場所まで引かれて地面に転がされた隣では、先に回収されていたヨキが荒く、絶え絶えに息をしていた。
 ヨレてしわくちゃのシャツやスラックスは土埃だけでなく、ガラスやプラスチックの破片がついたままで、いつぞや撃たれた傷が開いているのか、じんわりと左肩の部分が赤くなっている。ジジがバンに突っ込んだ時に怪我を負った顔はさらに擦り傷と切り傷にまみれていて、腫れ上がった頬が痛々しい。せっかくの美男子が台無しだ。
 ディーノとジジの姿が見えなくて、車へと目を向けてみると、ジジは運転席でシートベルトに吊られたまま、潰れ掛けの天井に力無く腕を垂らしている。隣の助手席にディーノの姿は無く、車から投げ出されたのか、路上に倒れ込んでぐったりとしていて、二人が生きているかどうかは、ここからではわからなかった。
「……お前、腕、腕っ!」
 ヨキに言われ、自分の有様を見てみると、僕の銃創も開いているばかりか、右腕が折れていた。道理で、シャレにならないくらい痛いわけだが、わざわざ庇う気力すら湧いてこない。これが満身創痍という奴なのだろうか。であれば、泊まり込みが何ヶ月も続いて精神が疲弊していても、体を動かせていたうちはまだマシだったのかもしれない。
「こんな奴らに殺しを踏み留まらせていたマリオは、本当に何者だったんだろうな……」
「早期退職したデカだよ。まさか、知らなかったのかお前ら」
 耳鳴りが続いている耳元で靴底が鳴り、僕とヨキに影を落としたカレルの顔は、まだ生きていやがる、と言いたげにタバコを咥える口の端を釣り上げ、虫を見るような目をしていた。
「あのジジイは金と引き換えに、捜査の進捗から、親父の女を寝取った男の名前と顔と居場所まで、俺たちにリークしていたのさ」
 忌々しい、と毒づきながらカレルは僕たちの顔の上に、タバコの灰を落とす。マリオが元刑事だということまでは頷ける。しかし、マフィアと癒着していて汚職をやっていたというのは、到底理解し難かった。
「仮にもジジイは刑事で俺らは安易に付け込めず、一定の距離を保っていたらいつの間にか、裏稼業の奴らから重宝されて、一目置かれるようになったって話だ。前にいた組織の親父もあのジジイを気に入っていたから、捨てる手間が省けたと、ディーノをすんなり渡したばかりか、俺たちが親父を裏切ったことがバレちまった。おかげで罠に嵌り、兄貴分や仲間は死んで、俺はよりによってあのジジイに捕まった」
 カレルの話を否定したい衝動に駆られるが、彼が僕たちに嘘をつく必要性が無い。だとしたら、それは真実に他ならない。
「そんな奴に俺とエイジは雇われてたってことか! そら、直ぐに通報なんかしようと思わねぇな、後ろめた過ぎて、元鞘を頼ろうなんて、とても頼れねぇ!」
「警察の給料は安いからな。端金で俺らとガチでやりあうよか、仲良くなった方が手っ取り早い。が、そんな野郎が正義漢ぶって俺を捉えに来やがったのが気に食わなかった。保釈金払ってとっとと出たはいいが、組織からは追ん出され、また一からやり直しだ。手前のことで忙しくてジジイのことはすっかり忘れていたが、お前らはいいきっかけをくれたよ」
 薄ら笑いを浮かべながらカレルが呟いた、ありがとよ、なんて言葉には一欠片の感謝も無く、ただ皮肉だけが込められていた。
 マリオも好きで、マフィアなんかとツルんでいたわけではないだろう。全てはドン・ドニーノの、自分の店を持つという夢の為に違い無い。マリオがマフィアと友好関係を築いていたからこそ、完全に壊れてしまう前にディーノを救えたのは確かで、僕たちは邂逅し、友となれた。
 法と正義と常識を遵守する立場にあったマリオは、マフィアと手を組むことを決めた時、一体、どれだけの勇気を振り絞ったのだろう。夢の為に、自分の信じる誇りを具現化する為に、手と名誉を汚すことを決断した時、どれだけの悲しみに暮れただろう。
 その上、早期とはいえ退職まで刑事の顔とマフィアを手引きする情報屋の仮面を使い分け、心を折らずに仲間を欺き通すなんて、並の精神力では不可能だ。誰もが簡単にできることではない。やり方は褒められたものではないが、自分の国を築き城を建てたマリオは、大成を成した男と言えるだろう。人生を成功させた点に関しては少なからず、賞賛に値する。
 そう、頭の中で言葉を尽くし、マリオが成したことを肯定しようと思っても、とどのつまり、ドン・ドニーノは汚い金で建てられたマリオのエゴの塊という現実は、いくら否定しても仕切れなかった。
 僕が素晴らしいと信じた物の実態は、そんなものだったのか? 経験が浅い若造だから、そんなものを素晴らしいと信じてしまったのか? マリオは、そんなところに何も知らない僕とヨキを引き込んだことに負い目を感じ、あの晩、自分を狙った襲撃とも知らずにカレルたちから僕とヨキを庇って死んだのか?
 冥土の土産の話しを終え、短くなったタバコを投げ捨てたカレルが踵を返すと、戦闘員たちはそれぞれ、僕とヨキの顔へ銃口を向ける。どうやらカレルは、一度捉えて別の場所で殺すのではなく、今ここで始末して退散することにしたらしい。
 カレルは死刑の執行に興味は無く、彼の代わりに彼の側近らしき長大な刃物傷の男が二人の戦闘員の間に入った。無表情でただ冷徹に僕らを見下ろす様は、立会人というよりも、満を持して迎える僕らの死を心待ちにしていた死神のように思えた。
 これが、愚かであることを辞めた結果か。誰かに自分の身を委ねようが、自分で意思決定をして納得した道を歩もうが、結局は心憂気なままであるしかないのか、人間とは。
「殺れ」
 刃物傷の男の宣言と同時に静寂を貫いて、銃声が轟いた。体が強張り、全身を蝕んでいる痛みという痛みが、一層強まる中、とっさに左手を胸に当て、心臓を庇った。何かが顔に降り注ぐ。暖かい。生温い。生きている。……何故だ!?
 ハッとして目を開くと、僕に銃を突きつけていた戦闘員が絶望の表情で膝をつき、彼を彼としてたらしめていた魂の灯火が、忽然と掻き消えてしまったように、半開きの口から白い残滓を吐き出しながら崩折れ、ピクリとも動かなくなった。
 続けざまにもう二回、銃声が響く。目の前を確かに、本来、見えるはずがない銃弾が、鋭く細い、どこまでも真っ直ぐな軌跡を描いて通過していった。それが、ヨキに向けていた銃をどこぞに定め直そうとしていた戦闘員の胸と腹に吸い込まれるなり、戦闘員は唐突に生命活動を中止する自身の体に当惑しながら、仰向けに倒れて死んだ。
 強引にヨキを立たせ、その身を盾にしながら刃物傷の男はジャケットの裾を翻し、横転したディーノの車の運転席に銃口を合わせる。銃弾を受けこの上ないしたり顔のまま、また意識を失ったジジが落としたのは、見間違えでなければ、車のエンジンを掛ける際に落とした自分のリボルバーではなく、ディーノがドン・ドニーノから車に逃げ込む時、押さえつけていた戦闘員から奪ったオートマチックだった。
 獣のような咆哮と共に、刃物傷の男に飛びついたディーノはその胸に、ガラス片を突き立てるだけに留まらず、腹を蹴飛ばし、自分の車に戻ろうとしていたカレルに向かって蹴り飛ばした。
「昔馴染みだからと、お前だけは見逃してやるかと、少しでも思った俺が馬鹿だった!」
 すんでのところで刃物傷の男を避けたカレルは、眉ひとつ動かさず機械的に銃を抜くが、構えるよりも早くディーノの腕が小さな火砲をカレルの手から弾く。続けざまにディーノは高々と拳を振り上げ殴り掛かったが、カレルはそれを掻い潜るばかりか、逆手に取ってディーノの背後に回り込むなり、後頭部を鷲掴んで車に叩きつけた。
「何だ、何が気にくわねぇんだ、あぁっ!? こいつらがそんなに大事か? そこまでして、守る価値がある人間なのかこいつらは? それとも、ジジイの復讐がしたいのかてめぇは!」
「とっつぁんの仇討ちもそうだが、ヨキとエイジはもう他人じゃない、僕の友達だ。そんな大切な人間が、目の前で殺されようとしているのを黙って見ているのは、僕の誇りに反する!」
「俺と仲間を売ったお前が、よりによってそのセリフを吐くか!」
「売ったんじゃない、知らされていなかっただけだ! お前が知らせなかっただけだ! 逆恨みされる謂れはないし、遅かれ早かれ君とは離反していた! 僕は、マフィアになんかなりたくなかった!」
「今更遅い! 俺がそうであるように、俺の一番側にいたお前の本質は悪だ! 俺についていった時点で、お前の運命はそう決まっちまったんだ! お前の手には罪と血がこびり付いてんだよ。裁かれてムショでおとなしくしてても洗い流せない汚濁がよ! そんな手でてめぇは客に飯を食わせ金をせしめてんだ!」
「その通りだ! だけど悪人が、飯を作れて何が悪い! 悪知恵と暴力を働かせて他人を踏み台にして得た権力と力で、人を駒として操るよりもよっぽど素敵で役に立つ!」
 ディーノと体格差があるにも関わらず、カレルは全く引け目を取っていなかった。互いに拳と蹴りを放ちながらも、時に頭突きや相手の体を抱え込んで膝を突き出し、関節をきめ、いなし、交わし、近くに落ちている武器には目もくれず、お互いにただ、目の前の男を打ち倒さんとしている。
 殴り合う最中、ディーノがカレルにぶつける言葉には、どこか違和感を覚えてならなかった。もっともらしいことを言っているが、彼がカレルと拳を交えているのは、僕たちに情けを掛けているからでも、行動理由の背景に存在しているドン・ドニーノの為とも思えない。
 いや、当初はそうだったのだ。マリオが死んだ以上、一人では店を回せず、残った僕たちはドン・ドニーノを飲食店として運営する為に必要なファクターで、苦しんでいた自分を拾ってくれたマリオと共に作り上げたドン・ドニーノは、地球上に残された彼の、唯一無二の居場所に他ならない。しかし、それとは別に、ディーノの根幹に関わる理由があるように見えた。
 マフィアの道に堕ちて母親を殺してしまった過去が原因なのか、カレルが拓いた道がディーノにとって望んでいたものではなかったからなのか。どちらにせよ、自身の行動原理を自分で掌握していなかった幼い頃のディーノには、自分の存在を存続させていく為に、カレルというメンターが不可欠だった。つまり、彼の行動理由には必ずカレルが関わっていて、そんなカレルの存在はディーノの罪にまみれた過去の化身だ。
 自分が悪に染まれるタチでは無いことに気づいた時には何もかもが遅かった。裏稼業から足を洗ってカタギに戻っても、ディーノは遺恨を拭い去れないでいたのだろう。犯してきた過ちを笑顔と陽気な態度の裏で悔い続けていたのかもしれない。
 だとするなら、過ぎた過去をそれとはしておけず、ディーノは自分よりも弱い僕たちを守り、聖域であるドン・ドニーノの尊厳を保ち、カレルと決着をつけ、悪の道を辿って穢れた自身を禊がなければ、潔白になったと思えないでいるとしか考えられない。
 どうりで、悪なんぞに向いていないわけだ。己が利潤の為にただ力を行使するにしては、ディーノは何事も真正面から捉えすぎている。双眸があまりにも、真っ直ぐすぎる。
 顔を上げると、戦闘員が取り落とした銃が目と鼻の先に落ちているが、いくら手を伸ばしても届きそうになく、悲鳴を上げている体を翻してうつ伏せになり、左腕で半身を起こしながら頭を突き出し、ただ前へ身を乗り出す。
 腕に荒く削れた石畳の路面が容赦なく食い込み、ジリジリと高温の炎で炙られるような感覚が走る。見開き、乾いた眼球の角膜に無数の棘を突き立てられているようだった。せめて右腕が使えたらどれだけ、楽だっただろう。武器までの距離が遠く感じてならなかった。
 二人は痛々しいくらい、暴力を振るうことに慣れていた。軍隊で訓練された兵士のように、身のこなしが洗練されているというわけではないが、相手を倒すことに一切の迷いが無く、生命力を振り絞り、ぶつけ合っている。これこそがまさしく、彼らと僕の差なのかもしれない。
 僕の生命力はきっと彼らよりも希薄だ。それは誰かをバカにしたり、それで笑ったりするようなある種の残虐さばかりか、暴力なんてとんでもないと争いを避け、気に食わないことを腹の中で処理し、なるべく穏便で穏やかに済むようにと、爪を剥ぎ、牙を折り、自分を殺して生きてきたからだ。そうあることを良しとして生きることを叩き込まれてきたからだ。
 二人の中にそんな戒律など存在しない。くだらない非暴力が習慣的に行動を支配する原則として僕の根底に根付いてしまっているのは、自身を殺して奥ゆかしくあることこそ美徳だと説かれ、物心ついた時からそう刷り込まれていたからだが、そんな踏ん反り返っている奴らが体良く僕らを使うことにしか役に立たない国民性など糞食らえだ。
「自分の人生を俺に丸投げしておいて、与えられたものが気にいらねぇからと、ほっぽり出すなんて幾ら何でも筋違いもいいところだ。形はどうであれ、お前は先延ばしにしていた落とし前をつけなきゃならねぇんだ! 俺が仲間を無くし、居場所を失ったように、のうのうと日向で生き延びて、小料理屋なんぞ営んでちゃいけねぇのさ!」
「お前たちの世界の道理を僕に説くな! お前は親友だった! おふざけ程度ならまだしも、マフィアと手を組んで本格的に悪いことに首を突っ込んだ時、どうにかしなければと思った。どこかでお前を、正しい道に戻せると思ったからその後を追ったんだ!」
「よくもそんな上から物を言えたもんだ。都合の悪い結果を、あたかも自分の都合が良いように解釈して能書きを垂れているだけじゃねぇか! どうあれ、お前は俺に自分の生殺与奪権を俺に明け渡していた大馬鹿野郎に変わりねぇ。それとも何か、いまだにこんなことをやってる俺がそんなに侘しく見えるのか? 無能で下等な哀れな人間に見えるのか!」
「あぁ哀れさ、哀れだとも! 僕は母さんを殺してしまったあの日、お前は親父から罠に嵌められたあの日、それまでの僕たちは壊れたんだ! 死んだんだ! そうして生まれ変わったにも関わらずまた、同じことを繰り返し、同じものを作ろうとしているお前はただただ物悲しいだけの存在だ! 側にいても結局、それ以外の選択肢をお前に与えてやれなかった僕が悔しくて仕方が無い! 自分のことで手一杯で、寄り添えなかったことを後悔している!」
「ならば死ね! ここで死ね! 肩入れしたところで何もできなかった自分の弱さを悔いながら俺に殺されろ! それが嫌ならマフィアをやっていた時みたいに俺を殺してみせろ!」
 弾丸を背に受けているだけでなく、僕やヨキと同じように全身に怪我を負っているディーノを払うカレルの姿はどこか、救いに唾を吐きかけ理解を拒み、己が信ずる己を保つ為に抵抗しているように映った。受けた仕打ちを恨むことを止めてしまったら、自分の中の何か、決定的な物が音を立てて崩れ落ちてしまうのを恐れるあまり、ディーノの膝を折り、鼻を潰し、腹を抉っているように見えた。
 ディーノにとってそうであるように、カレルの側にはきっと、信頼と信用の両方がおける人間はディーノしかいなかったのかもしれない。しかし、かつて共にあったカレルとディーノが宿した誇りが、正反対の色を帯びてしまったのは、生まれながらにして授けられた物が決定的に違っていたからだ。
 ディーノは母親に支配されながらも愛を注がれ、親に虐待されていたカレルは恐怖と痛みを強要されてきた。だからこそディーノは僕とヨキを自分とドン・ドニーノの糧にする選択肢を見出せ、カレルは僕とヨキを生贄として切り捨てることしか考えられず、力と権力を求めた果てで、互いに衝突せざるを得なくなっている。
 誰かを活用して自身の力とするという意味は同じでも、共闘者として歩み寄られるか、踏み台として足蹴にされるのかと言われたら、僕が望むのは前者の思想だ。だが、僕が近づきたいと思っている屈強で心やさしき百獣の王は、満たされない飢えに苛まれる孤高の猛禽に勝ち目があるとは到底、思えない。……それでは困るのだ。
 マリオの葬式を上げて丁重に弔ってやらなければならないし、汚れた店も修繕しなけりゃお客だって呼べない。心に折り合いをつけて、また社会にまかり通らなければならない。こんなところで自分の過去に振り回され、茶番を繰り広げている暇はディーノには無い。
 忘却の彼方に押し込めた、人が本来持つ闘争本能に火を入れる時は今だ。ディーノは襲撃者を殺し、ヨキは僕を、ジジは僕とヨキを助ける為に当事者として自身の手を汚した。この場にいる誰もが罪人となったのだから、僕だけが真っ白な傍観者のままではいられない。
 ディーノは自分の生きたいように生きれない人生にはなんの価値も無い、と言った。しかし力も知恵も経験も無い僕は、今はまだ何かや誰かに従属することによってでしか生き永らえる手段を持たない。良き友であり主君として仕えたい人間の死が意味することはすなわち、僕自身の消失でもある。
 ようやく見つけた居場所が、誰かのエゴの塊だとしても、それがなんだ。金は所詮、金だ。拠り所を持たず、生きているのか、死んでいるのかわからないゾンビに戻るのはごめんだ。ならば僕はそのエゴと、エゴの具現化に使われた不浄の全てを肯定する。
 マリオがあの夜、僕とヨキを庇ったのは決して自身の負い目なんかでは無い。あの状況で自分がやるべきことを瞬時に判断し、行動に移しだだけだ。肥溜めに身を投げ汚職にまみれたとしても、人として当然のことをしたまでだ。マリオという人間は腹の底から誇り高い男であったに違いない。
 ならばそのマリオの後継者であり、ドン・ドニーノの新たな主君たる獅子心王は、こんなところでかつての相棒である小悪党なんぞに殺されてはならないのだ。
 カレルの渾身の一撃が、ディーノの横っ面を吹き飛ばすばかりか体をも浮かせる。倒れ伏したディーノの首にカレルが腕を回した途端、ディーノは足を跳ねさせ、舌を突き出しながらも、肘をカレルの腹に突き刺すが、力を緩めることなくイヌワシの様な目を獰猛に歪ませながら、獣を一息に絞め殺すのに夢中なカレルは、僕の動きに気づいていないようだった。
 爪が銃身を引っ掻いた。もう一度、力一杯指を伸ばしてたぐり寄せた銃の安全装置は外す必要は無く、銃口をカレルの横っ面に合わせる。痛みが気を散らす上に、利き手ではない左手は安定せず、なかなか狙いが定まらない。これは玩具などではなく、引き金を引けば銃口の先にあるものを穿ち、粉砕する。ミスなど許されないが、ディーノに当てない自信も無い。
 血潮を奮い立たせ、原初の闘争の声に耳を傾け忘れようとしていた恐怖にたじろぎ、最悪の光景を脳内に描き始めた。怖くて怖くて堪らない。当てる相手を間違えたらそれこそ、本当に終わりだ。しかし、僕はディーノに、役に立つと確かに宣言した。であれば、その言葉通り彼の役に立たなければならなかった。
「腹を狙え。薄っぺらいけど、頭よか面積がデカい」
 ゆるりと、頭の両脇から伸びて来たヨキの腕が僕の、銃を持つ腕を掴んだ。右手は二の腕を抑え、前腕に左手を添えるだけでなく肘をついて支えにする。
「お前は俺を、二度も助けに来てくれた。自分に自信は無いし、なよなよしてるけどお前といると勇気が湧いてくる。今度は俺が、お前を助けてやるよ。どうだ、マシになったか? 抱きしめててやっからさっさとやっちまえよ」
 背後から漂ってくるヨキの体臭は端正な顔とは正反対に汗臭く、意図しない抱擁も決して気分が良いものではなかった。しかし、伝わってくる彼の体温は不思議と、頭から丸呑みしようと大口を開く恐怖を蹴散らした。不安と強烈な孤独感を打ち消した。悔しいが、とてもとても心強くて、震えが鳴りを潜めていく。
 気色悪い、と強がりながらも言われるがまま、照準をカレルの頭から腹部に合わせ直し、引き金に指を掛ける。自分が何者かはもはや関係無く、問われているのは何を為すかだ。当事者として目を背けられないのであれば、僕の分とヨキの分と合わせて持ち得ている全ての運を、この一撃にベットしてただ祈る。
 神様、どうかお願いです。ほんの少しでいいから、力をください。信じたものや人間に後ろめたい背景があろうが、そんなものに惑わされない、意思をください。自ら本懐の一途を辿っても尚、己が信じたものを真実とする一片の勇気を、僕にください。
 引き金に力を込める。確かな手応えと共に、振り下ろされた撃鉄が撃針を押し、叩かれた雷管に触発された火薬が炸裂し、発生した燃焼ガスが流線型の鉛を弾き出して、角ばったスライドが後退し、金色に輝く空薬莢を排出する。
 生まれて初めて僕は、抱いた殺意を明確な行動に移した。泣き寝入りするでもなく、腹の中に溜めたまま消失を待つでもなく、行使した手段は神経と骨を震わせる反動と引き換えに、カレルの脇腹の皮膚に穴を開け、肉を裂き内臓を破壊し、地面へと叩きつけた。
 解放されたディーノが呆気に取られながら僕とヨキに一瞥を注いだ後、すかさず落ちていたカレルの銃を拾い上げ、本来の持ち主へ銃口を向ける。
「撃つなぁっ!」
 カレルはまだ動いていた。僕の殺意は確かに彼を穿ったが、彼を完全に破壊するには至っていなかった。腹の底からひり出した叫びと向けられた銃口に、思わずと言ったようにディーノの身体がびくりと震えて硬直する。
「何故だ! ここで殺しておかなければ、カレルはまた襲ってくる! 僕たちに干渉してくる! そんなのは決して許されない! とどめを刺さなければ、連鎖は終わらないんだ!」
「連鎖は終わっても怨恨は続く! 汚れた過去を象徴しているカレルを殺して、悔やまずに生きれるなら撃てばいい! 君はきっと母親に加え親友だった従兄弟をも手に掛けてしまったと嘆くだけだ。限られた時間を、そんなくだらないことにはもう費やさなくてもいい! それ以上その手を、水と油と食材以外の物で汚すな! 君はもうマフィアでも人殺しでもない。君は料理人だ!」
 逡巡するディーノがカレルを見やる。そんなディーノにカレルが一言、殺せ、と囁いた。
「一度ならず二度までも、お前のせいでめちゃくちゃだ。どうしてくれんだ。お前も、何もかも失った俺みたいになっちまえば良かった。その程度で良かった! だけど今度こそ、俺はお前を許せない。俺を撃ちやがったあの餓鬼もだ。この借りは必ず返す。ここで撃たなかったらお前は必ず後悔する。俺の陰に怯えながら、お前は幸せになれるのか? 昔を背負って生きる今なんざ、クソ以下なのは知ってんだろ、絶好のチャンスじゃねぇか! やれよほら。クソバカみてぇに痛ぇんだ。どどめを刺せよ! 俺を殺せ!」
 神妙な面持ちで、ディーノの手が銃把を握り直すと、カレルの顔が悪魔のようにほくそ笑む。僕とは正反対の言葉でディーノを誘惑するカレルに思わず、銃口を向けかけるが、やめておけ、という囁きと共にヨキが後ろから制止する。
「奴はもう、何もできねぇよ。お前は自分の心の赴くままに、間違い無く完璧にそいつを扱って、敵として否定したい人間を撃ったんだ。そんならあとはもう、成り行き任せだ。チャチャを入れんな」
 何もかもが彼の言う通りで、噛み締めた奥歯の軋みが、耳元でいやに鮮明だった。遠くで鳴っていた緊急車両のサイレンが、徐々に近くなって来ている。これだけ公共の場でバカスカと好き勝手やったたばかりか、横転事故まで起こしているのだから、何処かの誰かが通報していてもおかしくはなかった。
 遅かれ早かれ、この事態は収束する。恐らく、僕たちの証言でカレルは再び投獄されることになるだろう。そうなれば僕とヨキを逃したミスの責任は取りようが無いし、僕とヨキを殺す意味も消失する。それ以前にカレルは部下の命と金で、人身売買に関わっている業者たちには示しはつけている。元より嫌がらせ目的の、過剰請求だった。
 ならばあとは、ディーノ次第だ。カレルを撃ち、彼と自分の過去を存在しなかった物として生きるか、生きながらえさせ彼と過去を自身の一部として抱えて生きるか。どのような折り合いをつけるかは、彼に委ねるより無い。彼自身が彼との決着をつけなければならない。これより先に、傍観者となった僕とヨキの意思と主義が入り込む余地は無い。
 全身の力を一度抜き、ディーノは再び銃を構えた。まじまじとかつての相棒であり、親友の顔を見つめ、何かを決した素ぶりを見せず、何ら感情も持ち込まずただ、繰り返し繰り返し、引き金を引いた。弾倉に篭められていた弾が無くなり、ストッパーがスライドを固定して、銃が空の薬室を曝け出しても、彼の足元に落ちた真鍮の薬莢が奏でる軽音は、いつまでも尾を引いていた。
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