03

エピソード文字数 9,587文字

 フライパンの上で煮立つトマトソースは血のように赤く、焦げ付かないようにヘラで混ぜると熱せられたフライパンの底に流れ、ジュウと音を立てながら水分を蒸発させる。
 食材を調理する段階で各種スパイスは使っていて、その上でソースまで香りが高いとなると、味がごっちゃになる。それを回避する為か、ドン・ドニーノのトマトソースはとてもシンプルで、みじん切りにした玉ねぎとニンニクを、オリーブオイルでローストしたところにホールトマトを入れたら、ローリエの葉で香りを移し、ぽってりするまで水分を飛ばしたら塩で味を整えればよかった。
 店の奥からはさっきからディーノの笑い声が聞こえていた。顔見知りが来たとかで、挨拶に行ってしまった彼の代わりにコンロを任されたはいいが、相手は女性で、口説いているのか一向に戻って来る気配が無い。
 隣のコンロでは底が深めのフライパンの中で、小さな貝の形をしたパスタと、それを凌ぐ量の野菜がゴロゴロしているズッパが良い感じに煮えている。
 トマトソースも頃合いだったから一旦火を止め、あらかじめ切っておいたバゲッドをトースターで焼く傍ら、ズッパを深皿に盛り付ける。ズッパとはスープという意味らしい。それにしては具が多過ぎやしないかと思ったが、あくまでも飲み物ではなく食べ物という扱いのようだった。
「トマトソースの火はまだ止めちゃダメだよ!」
 焼けたバゲッドを小皿に移し終え、料理を運ぶ準備が整ったところで聞こえた声に顔を上げると、ディーノが足早に駆けて来ていた。丁度、ズッパの皿を持ち上げた振り返り様で、間近に迫った彼を避けられず、皿の縁がまともにディーノ体にぶち当たり、中身がひっくり返る。
「うおあーぢゃぢゃぢゃっ!」
「あぁぁぁッつい!」
 今の今まで煮えていたズッパがまともに右手に掛かり、皿を落としそうになったが気合で耐えつつ、調理台の上に放り出して熱い雫と具材を振り落とすが、早くも肌の表面は赤みを帯び始めている。衣服越しに肌を焼かれたディーノは、反射的にズボンからシャツの裾を掻き出し、ボタンも外さずヘソの辺りまで捲り上げ……何故かそこで静止した。
「何してんだよ! 脱げ、シャツ脱げ!
「あ……いや、だ、大丈夫! 僕は大丈夫!」
 そんなセリフとは裏腹に、捲ったシャツを戻すディーノの顔は青ざめていて、額に脂汗を滲ませながら火傷の痛みに耐えている。
「すぐに作り直さないと、あぁでも君はまず手を冷やせ! ヨキっ、ヨキっ! お客さんにズッパが少し遅れるって言って来て!」
「いや、でも……」
「こんなの慣れてるから! いいから冷やせ!」
 珍しく強く言うディーノに逆らえず、患部を流水に晒す最中、ヨキが客の元へ走って行く。見かねたマリオは氷が詰まったビニールをディーノに押し付け、持ち場に戻った。
 充分に幹部を冷やしマリオから貰った軟膏を塗ったとはいえ、ヒリつく痛みはしばらく収まりそうになく、薬品が着いた手で料理や洗い物をするわけにもいかず、雑用としてコーヒーの在庫を確かめに倉庫へ行くと、着替えているディーノとばったりと鉢合った。
 ズッパが掛かったところは僕と同じように赤みを帯び、肌の色も相まってより鮮明だが、それよりも僕の目を惹きつけたのは、彼の体に彫り込まれたタトゥーだった。
 左の二の腕では獅子が雄々しく咆哮し、左肩と左胸の辺りでは、聖母の横顔が微笑を湛えている。その二つを差し置いて、胸部の中心から腹にかけて走る、文章の並びと巨大な目の刺青は特に目立っていた。
 聖書の一部を抜粋しているのだろうか。頭文字の位置を揃えて等間隔に並ぶ文章は、複雑な筆記体な上に小さく、遠目からでは何を意味しているのかはわからない。
 しかし、文章の下でディーノの顔を見上げる克明に描かれた赤い瞳は、常にお前を見ているぞ、と言わんばかりに血走っていて、そうなると文章は聖書の一部などでは無く、強烈にディーノ自身を縛り付ける戒めのようにも思える。
「あんまり、まじまじ見られると照れるよ」
「えっ!? あ、いや……ごめん……」
 どこか諦めたように溜息をつくディーノから視線を逸らすだけでは、見てはいけないものを見てしまった罪悪感までは紛らわせず、壁の後ろに身を隠し、彼の視界から一時的に消える。
 なるほど、そういうことか。ズッパが掛かった時にディーノがシャツを脱がなかったのは、自らの体に掘ったタトゥーを見られたくなかったからだろう。
しかし……何故だ? 店に来た客を見る限り、活発そうな青年の首筋や、柔和な老婆の腕にも時折、タトゥーを見かけた。この国では割とタトゥーはポピュラーなのだから、隠すのは不自然ではないだろうか。
 若気の至りを後悔しているのか、後ろめたい記憶があるからなのか、と首を傾げていると新しいシャツを纏い、火が着いていないタバコを咥えたディーノが倉庫から出てくる。
「びっくりさせたかい?」
「まぁ多少は……タトゥーはあんまり好きそうに見えなかったから」
「よく言われる。でも、ウケが良いんだこれが。女の子の前で服を脱ぐと、途端に視線が熱っぽくなるんだよ。あら、意外とアブナイ男なのね、っていう風にさ。エイジもどう?」
「うっ、ま、まぁ考えておくよ……なるべく、前向きな方向で」
「ただでさえ顔が幼いんだ、箔を着けてみな」
 屈託の無い笑みとウィンクを置いて、ディーノはタバコを吸いに行ってしまった。残された僕はしばらく動けず、そういえばマリオから頼まれたコーヒーを取りに行く途中だったことを思い出すと同時に、すっかりはぐらかされてしまったことに気がついた。
「何してんだお前……」
 コーヒーの缶ケースを携え、まかないを食べていたマリオの元へ戻ると何故か、渋い顔をされてしまった。
「あれ? これが欲しかったんじゃなかったっけ」
「俺は在庫が幾つあるかを数えてこいと言ったじゃないか、持って来いとは言ってないぞ」
 改めて聞くと確かに、そうだったかもしれない。マリオに謝りつつ、すごすごとまた倉庫へ引き返す。陽気でフランクな国民性と言えば確かに聞こえは良いかもしれないが、なかなか捉え所が無く掴めないのはとても厄介だ。
 軟膏が効いたのか夜になる頃には火傷の痛みはだいぶマシになっていたが、僕を気遣ってかディーノは僕を呼ばず、呼んだとしてもわざわざヨキと言い直し、その度にヨキの表情は複雑になった。
「何故だ……どうして料理を散らかす……ソースの量が増えたり減ったりする……」
「うるせぇなぁ、そんならただ皿に移すだけの料理をやらせろよ」
「それでよくフリーのwebデザイナーが務まるね」
「関係ねぇだろうがよぉっ! 盛り付けは一発勝負じゃねぇか! レイアウト決めた後でもコード書き直してオブジェクトの配置直しできるの! 整えるデザインと飾り付ける盛り付けは全然違うの!」
 のっぴきら無い二人のやりとりを聞いているとどうしてももどかしくなる。ディーノの側で仕事ができないと判断されたぶん、マリオが僕のことを呼びつけて、給仕の傍らに酒とカウンター席の客の話し相手を任されることが増えた。
 料理と違って酒には馴染みが無く、ワインは注文通りのボトルの栓を抜けばよかったが、カクテルはレシピを読みながら、辿々しくシェイクしたりステアしたりするりなかった。
 さらに客の相手までし始めると、いよいよ混乱を極める。と言うのも、こちらから話題を振らずとも客は勝手に話しかけて来る上、一度話し出すと中々止まらず、それでいてバカスカグラスを空けるので、相槌を打って酒も作ってとなると、腕が絡まりそうになる。
 しかもリキュールの分量を計る為に愛想笑いで凌ごうとしたり、シェイカーで凍えた指先に気を取られ、曖昧な返答をしようものならすぐに不機嫌になるのも困り物だ。
「飯の方はそこそこでもこっちはてんでダメだな、お前さん」
「酒は誰かとバーに行く時くらいしか飲まないんだよ!」
「なぁ、ディーノと俺は結構モテるんだ。何でか知ってるかい?」
「愛嬌があるから?」
「飯も酒も作れて話もうまいからだバカタレ」
 そんな僕をマリオはひとしきり小馬鹿にし、客と共にゲラゲラと笑いあった。勿論、良い気分ではないし、かと言って露骨に顔を曇らせるわけにも行かず、尖りたがる唇を引き伸ばしていなければならなかったが、そうやってさえいればマリオはコーヒーを作っていようが、飲まされた酒で顔を赤くしていようが、何度だって助け舟を出してくれた。
「あ、ちょっと、困るって、おい!」
 カウンター席に座る客の空いたグラスと、できたばかりのカンパリソーダのグラスを交換する最中に聞こえたヨキの声に、顔を上げて思わずギョッとする。昨晩の伊達男がヨキの制止を振り切り、予約客用に空けていたチェストに腰掛けるところだった。
 昨日はジャケットルックだった伊達男は、柄シャツに両膝に穴が空いた黒いダメージデニムと、ラフな出で立ちだった。髪型も整えていることは整えているが、昨晩のようにウェットな光沢までは放っていない。
 予約客用のチェストは丁度、マリオが正面に来る位置にあり、昨晩のようにマリオが男を外に連れ出しやしないかとヒヤヒヤとしたが、マリオは何かしらの覚悟でも決めていたのかどっしりと構えるだけでなく、伊達男と軽く握手なんかを交わしている。
「エイジ、スプリッツァ一杯頼むよ」
「あ、あぁ、わかった」
 二人の間柄はなんなのだろうと眉をひそめつつ、ワイングラスに多めの氷とスライスしたオレンジを入れ、白ワインと炭酸水をグラス半分まで注ぎ、ステアする。もう半分をアペロール……ビターオレンジとハーブのリキュールで満たし、最後に客が飲みやすいようにストローを突っ込んだ。
 橙色と水面で弾ける炭酸がどこか晴れやかな印象を与える食前酒が、マリオを介して伊達男へ提供されると、マリオは僕に給仕に回るよう言いつけた。
 逆らうわけにもいかず、散らかったテーブル席を片付けながら二人の会話に聞き耳を立ててみるも、騒がしい店内ではいくら意識を向けてもなにも聞き取れなかった。
「気づいてるよな? 昨日は都合がすこぶる悪くて今日はご機嫌なんてありえるか?」
「いやぁ、わかんないよ。きっと、マリオとはプライベートでも繋がりのある間柄なんだ」
「煮え切らねぇなぁ。カジノに入り浸ってると気分の浮き沈みが激しくなるのかね」
 手短にヨキと会話を交わし、僕らは何事も無かったかのように仕事へ戻る。しばらく給仕に集中し、ふと、伊達男がいた席を見ると、彼の姿は無く、飲み干されたスプリッツァのグラスと、空になったフリッタータのスキレットがポツンと残っていた。
 営業が終わると、マリオから日給が入った封筒が手渡された。手のひらに乗せるとズシリと重く、陰で中身を改めると昨日と同じように、少し多めに紙幣と小銭が入っている。恐らく、休日手当ということなのだろう。少額とはいえケチらず、しっかりと対価を払ってくれるところに、マリオの良心が滲み出ているように思えた。
 仕込んだ食材は余るどころか途中で数が足りなくなり、一から作らなければならなかった程だ。疲れているディーノを労わり、食事は四人でオステリアで摂ることになった。
ブロッコリーをアンチョビで和えてオーブンで焼いたつまみにフォークを刺しつつ、マリオにあの伊達男のことを聞くと、ケタケタと笑いながらギャンブル仲間だと答えた。
「親しい間柄にしては、昨日と今日で随分な温度差を感じたけどな」
「昨日、カウンターに座っていた常連はカーディーラーの支店長をやっているんだが、生真面目な奴で、ギャンブルが大嫌いなんだ。向こうは俺がそんなものに手を出さず、堅実に生きていると思っているから、ジジがいられるのは都合が悪かったんだよ」
「ジジ……?」
「あいつの名前さ。店も満席だったし、日を改めてもらったんだ」
「変な名前だなぁ」
 ふーん、と鼻で頷く割にヨキの目はじっとりとしていたが、白ワインのグラスを傾けながら壁に立てかけてある黒板に、チョークで書かれた『本日のオススメ』に目を向けたところを見ると、一応納得したようだ。
 客も店員も結局は人で、当然相性がある。交友関係が広いマリオは様々な仮面を持っているのだろうし、うまく立ち回らなければ店と客の信頼関係は維持できないのは、個人経営店の店主の辛いところなのだろう。
 とっつぁんは器用だねぇと、呟くディーノはどこか他人行儀で、よく見ると双眸は仕事が終わってホッとしているような、眠気に負けかけているようなで、とろんと遠くを見つめていかにもなグロッキー状態だった。
 だから腹に溜まるようなクリーム系のパスタの皿と揚げ物が乗った副菜の皿、ワインボトルを一本開けて食後のコーヒーを飲んだら早々にお開きとなった。
 ディーノとは帰り道が逆方向だったから、店の前で別れて三人で帰路につく。飲み食いしたばかりで腹は満たされていたが、アルコールで気が大きくなっているだけでなく、食欲にも拍車が掛かっているのか、一歩前を歩くヨキが物足りねぇなと呟いた。
 宵も深まってきたこともあり、立ち並ぶ飲食店はぼちぼち閉店の準備に取り掛かっている中で、外観を黒いペンキで統一したバールの、白文字で書かれた看板は未だ暖色の照明が煌々と照らしている。
 店先を通りかかると同時に、おっ、と嬉しそうな顔でヨキがマリオの側を離れてバールに近づいて行く。まさか入る気じゃないよな、と身構えてしまったが、ヨキはドアを開ける代わりに、ドアの隣に設けられた小さなカウンター付きの小窓の前に立った。
 小窓の向こう側はキッチンに繋がっていて、外からヨキが呼び掛けると声に気づいた料理人が顔を出し、いらっしゃいと微笑みながら、カウンターの端に立てかけられていたメニューらしき紙を手渡すのが見えた。
「んー……あぁー? おい、これなんて書いてあんだ?」
 背後を仰いだヨキの目は、ちょっと来い、と訴えている。どうしたのさ、なんだなんだと疑問を口にしながら、僕とマリオはヨキに歩み寄り肩越しにメニューを覗き込むと、彼の指先は、半分に切ったパイスティックのような、半月形のパンのようなものの断面から、トマトソースとチーズが垂れているイラストを指差していた。
「パンツァ……エロ……なんだこれ」
「パンツェロッティ。揚げピザだ」
 パンツがエロくて、なんでパンとチーズとトマトソースなんだと首を傾げていると、マリオが助け舟を出してくれた。
「絶対美味いやつじゃんそれ! なぁおい、これ三つくれよ!」
「あーあー俺はいらん! 一つキャンセルで、そうだな……レモンジェラートはあるか?」
 オーダーを受け取った店員がにこやかにキッチンへ引っ込むが、僕は別に何かを食べる気は無かったし、マリオも不承不承という雰囲気を隠さず、ワクワクしているヨキへ渋々、金を渡す。
 まず、マリオのジェラートが先に出てきて、少し遅れてパンツェロッティが二つ差し出された。パンツェロッティが入ったカップはカイロのように暖かく、相当熱いのは充分予想できたにも関わらず、勢い良く齧りついたヨキは案の定、あっつい! と口の中を火傷しつつも、目をキラキラさせながら頬を膨らませている。
 ちびちびと縁の方から齧り取り中身に到達すると、カリカリの生地と塩っ気のあるソースが酔いでボンヤリとしていた目を覚まし、まさしくそれだと言わんばかりに、溶けたチーズが体を喜ばせる。なんというかこれは、癖になってしまいそうだ。
 パンツェロッティは予想外に大きく、完食した頃にはズンと腹の中が重たくなるのがわかった。ヨキも膨れた腹を摩ってご満悦で、とっくにジェラートを食べ終わっていたマリオは、まるで餓鬼じゃないかと、一人で笑っている。
「店に拘束されているおかげで、これくらいでしか異国情緒を味わえねぇんだ。大目に見ろジジイ」
「人をジジイ呼ばわりして食い意地は一丁前なところが子供だと言っているんだ俺は」
「雇い主様、労働と対価と美味い食い物をありがとよ。一発キスでもさせてくれ」
「おいクビにするぞ」
「願ったり叶ったりだぜ、へへっ」
 静かな夜道にヨキの威勢が良く、しかしどこか眠たげな声が反芻する。一日動き回って腹一杯になって眠くなってしまうなんて、本当に子供のようで、捻て不貞腐れているとろはたまに瑕でも、飾らない性格は素直に好感が持てた。
 ボートハウスに行くには、ドン・ドニーノの側にある角を曲がらなければならず、マリオに別れを告げようとしたが彼の足取りは僕たち同じ方向を向いたままだった。
「そこまで餓鬼扱いすんじゃねぇよ」
「帽子を忘れたんだ。ついでに取って帰るだけだよ」
「明日にすりゃいいだろぉ?」
「あいつは俺のお気に入りなんだ!」
 ムキになっているものの、街灯が照らすマリオの顔はまんざらでもなさそうで、ディーノの性格が穏やかだからこそヨキとの男臭い会話は、どこか新鮮なのだろうと思った。
「鍵を頼むよエイジ」
 さっさと歩いてしまっているヨキに代わり、マリオから入口の鍵を預かったところでパキンと、遠くの方で固い枝が折れるような音がした気がして、聞き間違いを疑い耳の穴に小指を突っ込んでみたが、パキン……パキン、パキン! と、立て続けに三回それが起こる。決して幻聴なんかではないと確信すると同時に、足元で何かが弾けた。
「えっ、えっ、なになに!?」
「エイジッ! ヨキッ!」
 血相を変えたマリオの手が僕のシャツを鷲摑んだかと思ったら、そのまま建物の隙間へ引き摺りこまれる。
 巨大なゴミ箱の陰に追いついてきたヨキと共に、マリオから押し込まれる最中も、乾いた音は絶えず鳴っていて、状況が全く把握出来ない僕は、僕とヨキに被さるマリオをただ受け止め、縮こまっているしかなかった。
 路地の向こうから車が走り去る音が聞こえ、周囲は静謐に包まれた。いつの間にか、肺が小刻みな呼吸を繰り返している。突然襲いかかってきた何かが遠ざかったことに気がつくまで、しばらく時間が掛かった。
 呻きながら体を起こしたマリオのシワシワな手が、僕の頬を慈しむように撫で、次いでヨキの顎に指を添え、美女にキスを促すような優雅な手つきで軽く持ち上げる。
「……良かった。どうやら怪我は、無いようだな」
 暗がりの中で微笑むマリオの表情は、今までに見てきたどんな顔よりも優しくて、彼の背中に回した手の平が熱を帯びながら濡れそぼって行くのを感じた。
「じ、ジジイ、どうしたんだよ急に、気色悪いな……」
 ヨキが弱々しく笑みながらマリオの様子を伺う中、急速に萎れて行く花のように、マリオの表情が曇る様子は、夜が落とした陰の中にいてもはっきりと確認できた。それとは対照的に、手の平に伝わる熱は温度を増していて、マリオの弱々しい鼓動も相まり、彼の魂が僕に乗り移るような錯覚に陥る。
 何が起きたか理解できていなかった。しかし、ようやく回り始めた頭は、何か重大な、二度と取り返しがつかないことが起きてしまったことに気がついた。
「ヨキ、肩だ! 肩を貸せ! ドン・ドニーノまで走るんだ!」
 マリオの腕を左肩に回し、反対側をヨキが持ち上げ、軽そうでズシリと重たい体を担ぐ。割れた木板の隙間から吹き込む風のように、不吉に呼吸をするマリオはどうしても歩けなくなっているようで、紳士によく似合うブラウンの革靴が、地面に擦れて削れていく。
 ドン・ドニーノの前でマリオを下ろした時には、全身からむせ返るような老いと鉄の臭いがしていた。濡れたままの手の平をポケットに突っ込み、マリオから渡された鍵を取り、震えながら捻ると確かな手応えと共に錠前が降りる。
「ジジイ、ジジイ、返事しろ!」
 ドアを開け放つとすかさず、マリオを担いだヨキが転がり込んできて、地面に崩折れた。濃紺の闇の中で、マリオの半身を抱える彼の悲痛な呼び声が反芻する。ヨキはさらに、マリオのスラックスのポケットに手を入れ、探り当てたスマートフォンの画面に指を走らせるも、光り輝くディスプレイはヨキの手を濡らしていたマリオの残滓を照らすだけで、なんら反応を示さなかった。
 厨房に駆け込み店の明かりをつけると、マリオの体内から漏れ出した純粋な真紅が木板の床を絶望で染め上げていた。生まれて初めて、肺と食道と心臓をいっぺんに荒縄でふん縛られるような苦しみ覚えて、左胸の肉に指を食い込ませずにはいられなかった。
「へっ、なかなかかっこよかっただろ……」
「何言ってんだ! ジジイ、パスワード! スマホのパスワードを教えろ!」
 自身のスラックスで手とスマートフォンを拭いながらヨキが彼の耳元で叫ぶ。さっきまであれだけ活力に溢れていたというのに。意図せず食べる羽目になったレモンジェラートを、美味そうに小さなスプーンで掬っていたと言うのに。苦しそうなマリオの顔は、ゾッとするほど生気が零れ落ちていた。
「賭場でな……女に後ろから刺されて死ぬのが俺の夢だった……そんなくだらなくて、どうしようもない死に方をしたかったってのに……」
「それじゃああんまりだ。死ぬなんて言わないでくれお願いだ」
 救急箱を持ってきたものの、どうにかなりそうもなく、マリオの手を取るとやんわりと握り返してくる。節くれだった指の感触が痛々しいほど鮮明で、得体の知れないものが腹の底からこみ上げ喉元にくると嗚咽に変わり、両目から医師とは無関係に涙が溢れて仕方がなかった。
「俺なんかの為に涙なんか流すな馬鹿者。店の中に運び込みやがって、これじゃあしばらく営業できないじゃないか」
「ディーノ、ディーノを呼ばねぇと! 頼む、スマホのパスワードを教えてくれ!」
「やめろヨキ、あいつなんか呼ぶな」
「うるせぇクソジジイ! とっとと教えろってば!」
「そう言うてめぇはクソ餓鬼だよ。今際の際にディーノの顔なんざ見たくない!」
 激しく咳き込んだかと思ったら、不気味な音と共に血を吐きながらも、マリオは腕を伸ばし、ヨキの手からスマートフォンをひったくると、店の奥へと放り投げる。
 未だ、脳の処理が追いついていないがとにかく、僕とヨキはマリオに助けられたことだけは理解していた。しかし、知り合ってまだ一週間程度の僕たちを身を呈して守られても、残された僕たちは一体どうやってその恩に報えばいい。一人何も知らないディーノに、どんな顔を向けろと言うんだ。
 この人はこんなところで死ぬべきではない。しかし、いくら死ぬなと願い生きろと祈っても、衰えた老体にそんな体力など残っている筈もなく、マリオは、まだまだ続いたであろう生涯を早急に終えようとしている。
「お前とヨキが見ているってのに、ディーノにまでこんな死に様を晒したんじゃなぁ……」
 盛大なのは嫌だよ、と呟いたマリオの目には僕とヨキのぐしゃぐしゃな顔がしっかりと写り込んでいると言うのに、彼はもう何も見えていないようだった。
「……何故だ? 教えてくれよマリオ。立ち会えないディーノが、かわいそうだ」
「決まっているだろう」
 鼻水を啜って涙を拭い、咳払いをしてもなお震えてしまう声で問うと、ドン・ドニーノの小さなゴットファーザーは、血の池の中で静かに、穏やかに、至極満足そうな顔で最後の言葉を紡ぐ。
「照れ臭いじゃないか」
 マリオの瞼がゆるりと落ちた。鼻と口の周りを生ぬるい血で濡らした死相はしてやったと言わんばかりに、微笑んでいた。
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