01

エピソード文字数 8,388文字

 マリオは背中に三発の弾丸を受けていて、内一発が致命傷になったことが検視の結果でわかったが、そもそもマリオは老体で、致命傷になる、ならないに関わらず、銃弾を受けた時点で生きながらえることは不可能なように思えた。
 警察からの事情聴取が長引いたのは、僕とヨキが観光ビザで入国していたにも関わらず、ドン・ドニーノの従業員として働いていてさらに、誘拐の被害者という事実が話をややこしくさせたからだった。
 僕とヨキはホテル側から通報が行く前になんとか抜け出し、連絡を取れていたが、他にも拉致被害者は存在していて、相次いで通報を受けていた警察側はその情報を欲しがっていたから根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。
 ビザに関しても問われたが本来の目的で取得した観光ビザは有効期間内だったし、就労ビザに関しても、僕とヨキはドン・ドニーノの正規従業員ではなく、かと言って他に仕事をする目的でこの国を訪れたわけでもなく、保護されていた僕とヨキが労働力となっているのはあくまでも善意で、支払われていた賃金に関しても店の善意だと説明すると、警察官からは訝しげな顔をされたが、なんとか納得してもらえた。
 聞きたい情報を全て聞き出した後、警察は事が事でもあるし、保護と帰国を打診してきたが、了承しかけてふと、思い留まる。
 国に帰っても、その先のことが全くイメージできなかった。どういう風に生活していたのか、なぜあの場所に住んでいたのか、どうしてあんな国にいたのか、一瞬、何もかもがわからなくなって見上げた天井では、LEDの光が眩しかった。
 ドン・ドニーノにいる時の僕はヨキの友人で、ディーノの小間使いで、マリオの雑用係を兼任するウェイターだった。しかし、そこから踏み出してしまったら当然の如く、何者でもなくなってしまう。
 国に帰るということはすなわち、また寄る辺無き者に戻ることに気がついた。ドン・ドニーノは意外と、僕の中に定着していたらしい。生活の一部として、日常の一部として、確立されようとしていたようだ。
「どうしました?」
 と親切そうな顔をした警官の青い瞳が、黙ってしまった僕の顔を覗き込んでいる。時計の針が妙に大きく耳に響く中、申し出を断ると警官は顔じゅうに驚きを浮かべた。
「どうして! 信じられない! あなたは怖い思いをしたばかりじゃないか! こんなところにいるよりも、自分の家で傷を癒したほうがいいですよ!」
「いいや、ダメだ。確かに怖い思いをしたけれど! まだ、帰るわけにはいかない」
 しっかと警官の目を見つめながら訴えると、それ以上は何も言わず、しかし不承不承という態度を隠さず、彼は僕の言い分を呑んだ。
 雇ったマリオが死んだのであれば、僕がドン・ドニーノにいる必要は無い。残ったとこで何ができるというわけでもないが、そそくさと国に帰り、死んだマリオに対する気持ちに整理をつけ、何もかも最初からやり直そうとは、どうしても思えなかった。ここでドン・ドニーノを離れてしまったら僕はきっと、一生後悔する。
 それはヨキも同じだったらしく、あれだけ不平不満を口にしていた彼も残ることを選択していた。ドン・ドニーノに帰ってくるなり二人揃ってその旨をディーノに伝えるろ、彼は怒りを露わにして、何故だ! と僕たちを怒鳴りつける。
「君たちは馬鹿なのか!? なんで申し出を拒否したんだ! 遊びはもう終わりなんだよ、国へ帰るんだ!」
「ふざけんな! このまま帰れるかよ! ジジイは俺たちを庇って死んだんだぞ! こんな中途半端な気分のまま、勝手にやってくる明日を生きろっていうのか!? また、本来の人生をなぞれってのか!? できるわけねぇだろうがっ!」
 ディーノに食ってかかるヨキはまるで狼の如く、犬歯をむき出して睨み返し、是が非でも引き下がらないと態度で示す。
「川から流れて来た俺たちを警察に連れて行かず、店でこき使うって考え方がまず、普通じゃねぇ。何故マリオはすぐに通報せず、お前はそれに疑問も持たなかったんだ? お前らは何をしようとしていたんだ!? 俺とエイジはどうされる予定だったんだ!? それを知るまで絶対に消えてやらねぇ! 後ろめたいことも言いにくいことも全部明かせよ!」
 両手の拳を固く握り締めながらヨキは、今だ収まらない怒りとも悲しみとも虚しさとも切なさとも言い難い、湧き上がってくる感情の本流に耐えている。飲食店のオーナーであるマリオと料理長のディーノは、健全な職業を営んでいるにしては、どこかきな臭い雰囲気を常に漂わせていた。だからこそ、彼の口から紡がれる言葉はディーノに容赦が無く、口調も苛烈だったが、言葉を全て受け止めたディーノの表情に、ゾクりと背中が寒くなる。
「吐け? 消えてやらねぇ? 一介の小間使いが偉くなったもんだな。いつからそんなデカい口を叩けるようになったんだ君は」
 眼球は奈落のように深い闇を湛え、奥歯を噛み締めた口元では蓄えた髭の一本一本が、余す事なく忿怒で尖っていた。そこに普段の彼が湛えている親しみや優しさという、生ぬるいものは一片も無く、父親代わりの人間の死に立ち会えなかったことに対する哀と、そんな人間が身を呈して命を救った人間たちの身勝手に対する怒りがない交ぜになり、激しく歪んだ様相はまさしく、悪鬼悪魔の形相をした獅子だった。
 ディーノがヨキの胸ぐらを掴んだかと思ったら、ヨキの体は暴風に晒されたかのように軽々と左右に揺れ、浮かび上がったかと思った時には既に、ディーノはヨキをテーブルの上に叩きつけていた。
「何の覚悟も無く首を突っ込もうとは見上げた度胸じゃないか。君の言う通り、僕たちの挙動は怪しく見えたかもしれない。それも僕らが、君とエイジという異分子とリスクを抱えていたからだ。君たちは誘拐の被害者で、ここで匿われている逃亡者じゃないか」
 ドクンと、心臓の鼓動が一つ強くなった気がしたのは、マリオが目の前で殺されたことで、まざまざと自分の、本当の立場を思い出してしまったからだった。拉致の最中川に飛び込み、溺れかけながら行き着いたのが、マリオのボートハウスとドン・ドニーノだ。そんな逃げ果せた場所で受け入れられ、いつの間にか見ていた夢がかき消していた鋭利な現実を、ディーノは改めて僕たちの喉元に突きつける。
「君らは、安くない経費と人件費とリスクを侵して仕入れられた商品だ。商品であるからには、誰かにとって役に立つものだし、色々な活用方法がある。ただ、タチが悪いのは、自分で考え行動し、言葉を発する生き物というところだ」
 僕とヨキはいわばビジネスの餌だ。しかもそのビジネスは、法を逸脱した世間一般の理から大きく外れた仄暗いものだが、それでも成り立ってしまうのは、やはりある程度の市場規模が大きく需要が有り、利益を生むからに他ならない。
 事業が公にできないのであれば、商品を仕入れる業者も、商品を買う業者も、間に立って仲介やサポートをする人間も、内容をおいそれと口外できない。秘密裏に交わされている取引が明るみに出てしまえば、商品の仕入れ業者、販売業者、仲介者の三位一体が危うくなり、そんな金儲けのやり方はあっという間に破綻する。
 だから向こう側の目下の問題はディーノが言うように、逃げた商品の僕たちが自分で考え喋って動くという特徴を持っている点にあり、あの晩の襲撃は共倒れを防ぎたい業者による口封じ目的ということになる。
「もう君たちは普通の旅行者でもないし、普通の人間でもないんだよ。敵は君たちがドン・ドニーノにいるところまで掴んでる。だからここは危険だ。わかったら帰るんだ。君たちに居られると、こっちも迷惑なんだよ……痛かっただろう? 怖がらせて悪かった」
 胸の内を少し吐き出し落ち着いたのか、鬼気迫る激しさから打って変わり、ディーノはシャツから手を離して小さく、すまない、と呟いた。しかし、ヨキは自身から離れようとするディーノの腕を掴み、今度はこちらの番だと言わんばかりにずいっと、自分にディーノの顔を近づけ額を打ち合わせる。
「答えになってねぇ。俺が問うたのはマリオやお前が本当は何者で、俺たちはどうされようとしていたかってことだ。どういう立場にあるかを、改めて言われる筋合いはねぇんだこのボケ!」
「どうするつもりもないし、マリオはドン・ドニーノのオーナーで、バリスタ兼バーテンで、僕は一介の料理人だ! それ以上でも以下でもないよ」
「神に誓ってそう言えるのか? 口封じをするだけなら、俺たちを狙っている連中は深追いして、殺すことだってきた。だけど実際、撃たれたのはマリオだけで、マリオを殺したら奴らはとっとと行っちまいやがった。奴らの本当の目的は俺たちじゃなくて、マリオを殺すことだったんじゃないのか!?」
「そんなこと言われても、僕はあの場所にいたわけじゃないからわからないよ……僕が来た時にはもう、とっつぁんは死んでいたじゃないか!」
「そうなる可能性があったからその前に俺とエイジをどうするか、いつぞやコソコソとジジイと外で話していたんじゃないのか!?」
「邪推だ! 愚痴ついでにトマト缶が値上がりしたから別のに変えてくれと交渉されていただけだで、やましい話はしていない! 庇われた意味がわからないのか!? 君とエイジを売ろうとしていたら、そんな奴の為に自分の命を投げ出すわけないじゃないか!」
 ヨキの腕を払い、強い視線からも顔を背けるディーノは、片手を腹の中心に当てていた。その仕草は、手持ち無沙汰といたたまれなさで何かに触れて安心したいとも、言いたくても言えない事情に触れて、自制と理性を保っているようにも見え、そういえば彼が体に掘っているタトゥーの存在を思い出した。
 ディーノのタトゥーの中には彩りや、自分の理想像を表現するようなものだけでなく、もっと禍々しくて逃れられない過去を象徴するような物も含まれている。ディーノが口を継ぐんでいるのは、あの文章と目が常にあるからではないだろうか。だとするなら、これ以上ディーノに何を聞いても、恐らく無駄だ。
 わざわざ体に彫り込み、肉体と精神を強固に縛っているのだから、例え彼のガールフレンドを捉えて僕とヨキが知らなければならないことを吐かなければ殺す、と脅したとしても、彼は許しと解放を乞うだけで、腹の中は明かさないだろう。
「もういい、やめろヨキ。ディーノを困らせるだけだ」
「邪魔すんな! お前だってこいつや、店が気がかりだから残ったんじゃないのかよ」
「そうだけど! ディーノは多分、何をされても答えないよ。頑なになっているんじゃなくて、ディーノなりの事情で答えたくても、答えられないんだ。これ以上は部外者が踏み込むべきじゃない! ディーノにはディーノの世界がある。ここで無理にこじ開けて、二度と交われなくなってしまったらそんなの……悲しいじゃないか!」
 良くしてもらってはいるけれど、こうなってしまった以上、僕とヨキは、マリオやディーノやドン・ドニーノにとって、降って湧いたな嵐のような存在でしかない。僕とヨキを受け入れてくれたドン・ドニーノはいい環境だし、マリオもディーノも素敵な人間だ。それを自ら否定せざるを得ないようにする必要はない。
 関係の破壊は、最終手段だ。崩さなければ何も得られないと断定するのは、別の手段や方法を探してからでも遅くはなかった。
「ディーノ、マリオが出入りしていた賭場はどこだ」
「聞いてどうするつもりだよ。賭場なんて、どんな奴がいるかわからないじゃないか」
「ということは、知っているんだな?」
「……もうこの話は終わりだ。二階に行け。配達業者に問い合わせて、今すぐ荷物を届けてもらうように手配するよ」
「話してくれなければ、自力で探す。ドン・ドニーノにいるのは危険なんだろ? 君に取っても迷惑なんだろうし、僕とヨキは、いないほうが都合がいいじゃないか」
「襲撃にあったばかりなのに外をウロつくなんて今度こそ本当に死ぬぞ!」
「僕たちには僕たちの事情があるから留まったんだ。あんたが話してくれれば早いけど、叶わないのなら仕方無いよ」
「仕方……無いだって……!? とっつぁんがどんな思いで君たちを庇ったのか少しは慮れよ! ここですぐ君たちが死んだら、とっつぁんは、マリオは犬死じゃないか!」
 消失していた怒りがディーノの顔に再び宿る。こんなに明確に、怒りを向けられたのはいつぶりだろう。しかし、多少ビビっているとはいえ落ち着いていられるのは、ディーノが銃を持っていないからだ。
「絶対に教えないからな」
「それじゃあやっぱり自力で探すしかない。出歩くわけだから、僕もヨキも殺されてしまう確率が高くなるけど、教えてもらえないんじゃあそうするよりないよ」
 ディーノの目が一瞬、大きく見開いたかと思ったら、何かを言いたげに僕らの顔を交互に睨み、拳を作ると背後の壁に叩きつける。ディーノの怒りは木製の壁に大穴を穿ち、衝撃でこの場の空気だけで無く、ドン・ドニーノの家屋も大きく震えた。
「ポートタウン三番地……オラータというホテルの地下に遊技場がある。とっつぁんが出入りしているとしたら、そこしか知らない……」
 大馬鹿者共が、と吐き捨てディーノは一度も振り返らずに外へ出て行く。店を開いてからずっと、マリオとコンビを組んでいたディーノは、僕たち以上に大きい喪失感を抱いているに違いないし、相方が身を呈して僕らを守ったというのに、当の本人らが命を粗末にするような真似をしては、憤りを覚えるのは充分に理解できた。
 しかし、数日前まではただの無職な旅行者だったのに、誘拐され逃げ出し、行き着いた食堂で給仕する羽目になるばかりか、得体が知れない奴から襲撃までされては、いい加減黙っていることにも嫌気がさしていた。
 結局、彼の良心につけ込んでしまったのはバツが悪いが、次に取るべき行動は決まったし、賭場の場所を聞き出せたのは大きかった。
「ちくしょう、ディーノの野郎思いっきりやりやがって」
 したたかに打ち付けた背中をさすりながら強がっているが、ヨキは今にも泣きそうな顔をしている。大丈夫か、なんて、ありきたりな言葉しか掛けられなかったがヨキは滲んだ涙を拭うと一言、「死ぬほど怖かった」と子供のような声で鳴き、体を震わせた。
「……食い殺されるかと思った」
「あぁ」
「……それと」
「何?」
「背中が、めちゃくちゃ痛い」
「……大丈夫か」
 テーブルの下から椅子を引いて腰掛けるなり、深いため息をついてヨキは消沈してしまった。時刻はまだ、昼過ぎだ。本来であれば慌ただしく働いていた頃だと言うのに、僕たちの間に立ち込める沈黙と静謐が空虚を呼び寄せ、否応無しに浸らせる。肌に突き刺さるもどかしさに耐えられず、ぼんやりと開けた口からは、ディーノのタトゥーのことが漏れていた。
「あいつ、そんな似つかわしくねぇもん入れてたのか」
「見かけ通りと言われた、そんな気はするけどね。それよりもあれだ、君は、さっさと国に帰ってしまうと思っていたのに残るとは意外だね。仕事だってあるだろうし」
「……ぶっちゃけ、パソコンさえあれば仕事なんてどこでもできるんだ。フリーランスだし会社に出向かなくても、メールや電話、SNSのカメラ通話で打ち合わせなりなんなり、どうにでもなる。ただ、納得いかねぇのは俺はこの国に観光に来てんだ。金払って遊びに来てんだ。なのに攫われて、働かされて、襲われて、俺を庇ってジジイは死んで、何もかも台無しだ。良い思いを一つもしてねぇ! このやり場のない気持ちをどうしろってんだ!」
「素直じゃないよな。あれだけ疑ってたのに、状況が変わったらコロッと考え方が変わるんだもん。何でそう、天邪鬼なんだよ? だから……」
「女にもフラれちまうんだってか? 仕方ねぇだろ、そういう性分なんだよ」
 額に垂れてきた前髪を掻き上げながら、僕が言おうとしたセリフを先取りしたヨキは、相変わらず複雑な表情を浮かべたままだ。どうしようもなくバカな奴だ、と呆れてしまえればよかったのだが、こんな奴と友達になれて僕は本当にラッキーだった。
「普通に、普通の旅行であって欲しかったよ。僕の為の慰安旅行だったのに」
 言いつつポケットから二階の鍵を取り出し、ホルダーに指を突っ込んで回すとヨキは、何をする気だ、と言いたげな視線を向ける。
「なんにせよ金がいるし、給仕の格好じゃ出歩けないな……カジノの場所も調べないと。ディーノがいくつか服を置きっぱなしにしてたよな? 勝手に借りたら怒られるかな」
「おいおいおい、ちょっと待て。目的も無しに本当に行くのか? てか、なんでディーノにカジノの場所なんか聞いたんだよ」
「ディーノが口を噤んでいる以上、他にあの二人のことを知っていそうなのは、ジジとか言うマリオの友達くらいしかいないだろ? 居るかどうかわからないけど、彼を当たれば何かわかると思ったんだ。マリオとディーノが何者か。僕たちをつけ狙っている奴らがどんな奴なのか」
「で、それを突き止めてどうすんだ? まさか、警察に通報するって考えてるんじゃないよな?」
「いや……そうだけど……」
「ばっかお前、バカじゃねぇの!? 結局他人任せかよ!」
「僕たちが太刀打ちできる相手じゃないだろ……お互い、あまりに状況の変化が急過ぎて気持ちに折り合いがつかず残ったものの、次の行動理由が定まらないから足踏みしているわけだろ? 何が次への足掛かりになるかわからないのに、明確な目的が見出せないからと、ジッとしてるなんてそれこそ、バカみたいじゃないか」
 強がってみたものの、実際のところどうするかは、あまり考えていなかった。ただ、一つはっきりしているのは、ただなんとなく漠然と帰りたくなかったから、ここに残ったと言うわけではなかった。
「寂しかったんだ。居場所も無いし友達もいなくて。観光中も頭の片隅で安住の地を探すことを止められなかった。ドン・ドニーノに巡り会えたことが純粋に嬉しかったんだ。このまま身を寄せてもいいかなと思ってるし、迷惑だと突っぱねられたとしても、ドン・ドニーノとディーノと、君ともずっと繋がっていたい。空中分解を起こしたままほっぽり出したくないから残ったんだよ」
 幸いこの身を捧げる組織に属してもいなければ、捧げてもいいと思えるものも無い。身を案じてくれる友達もいなければ、自分が借りている部屋を除いて僕の居場所は母国のどこにも無い。そんな境遇の中、自発的に身を寄せていたいと思えたのがドン・ドニーノという異国の食堂であり、ディーノという男だった。
 ドン・ドニーノはとても良い場所だ。母国で働いていた企業よりもずっとずっと良い場所だ。生きる為だと、バカみたいな仕事にバカみたいに齧り付き、どうにか上司に自分の必要性を見出されようと媚を売り、好きでも無い仕事に良さを見出そうと躍起になる必要も無い。ここにいる時の僕は、何も取り繕うことなく自然体でいられる。
 正直、ディーノやマリオがなんなのかなんてどうでもよかった。確証は無いが、少なくとも彼らは悪人では無い。それだけわかればもう充分だ。
 僕がここにいられないのは、僕が誰かに狙われている標的で、マリオのようにディーノやドン・ドニーノにも被害が及ぶかも知れない恐れがあるからだ。だったらその事実を払拭し、無害だけど、ある意味危険人物なんてふざけた現状を正さなくてはならない。
「だからヨキ、ここでイライラしてるくらいなら、一緒に行こう。今、ドン・ドニーノにいるのは危険だし、どこかへ行かなければならないなら足掛かりを探しに行こう」
「まぁ確かにそうだけどよ……どうしたんだよお前。うじうじとクダ巻いてるどうしようもない奴だと思ってたのに。呑気じゃないお前はらしくない」
「グダグダしてることに飽きた無職の無鉄砲さを舐めるなよ。失うものなんて何もないから何しでかすかわからないぞ」
「それだったら次の就職先くらい簡単に見つかるだろ……」
「そうかもなぁ。だけど生憎、僕は自分の国も、人間も、言葉もさほど好きじゃないんだ。うまく言えないけどなんというか一々、面倒臭くて」
 わからねぇ奴、と椅子から腰を浮かせたヨキはさっさと裏口へ歩いて行く。その後を追いながら、ディーノが消えたドアを振り返るが、彼が戻ってくる気配は今のところ無かった。ディーノを怒らせ呆れさせ、失望させてしまったけれど、これは決別ではない。仲違いをしたのは切なくはあったけど、寂しくなどなかった。
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