第70話 岬の広場に到着

文字数 2,393文字

 坂を上り終えた頃には、すっかり茹で上がっていた。滝のように全身から汗が流れ、軋んだ手足の関節にうまく力が入らない。鏡を見たら、顔も真っ赤になっているはずだ。

 だが、道はまだまだ続く。額の汗を拭って、休まず進む。

 ずいぶん高い所まで上ってきた。左手に緑のパノラマが見渡せる。眼下の谷間から向かいの山にかけて、森の葉並がびっしりと覆い尽くしている。茶色い山肌が覗く所は一箇所もない。文字通り、緑一色。どんな種類の木々が森を構成しているのだろう。スダジイ、タブ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、ヤブツバキなどの名前が思いついたが、ヒメユズリハやホルトノキなど、南方系の木々も少なくないはず。こんな密林の中を歩いて来たのかと思うと、何だか感慨深かった。本当に川口浩探検隊の一員になった気がしてくる。

 久寿彦たちは、道の先に小広く開けた空き地で真一を待っていた。

「何だよ、先に行ってくれてよかったのに」

 彼らの背後では、フウトウカズラが盛大に絡み付いたモチノキを挟み、道が二又に分かれている。右の道を取れば目指す砂浜の入り江に行くことができると、あらかじめ久寿彦から聞かされていたから、判断を間違えることはないのだが。

「いや、万が一ってこともあるからな」

 久寿彦は真面目な顔で答える。うっかり左へ迷い込んでしまうと危険だということも聞いている。この先、道はさらに細かく枝分かれし、それぞれの道が釣りのポイントへ続いているのだが、痩せ尾根があったり、崖が落ち込んでいたりで、漫然と歩いていたら遭難しかねない。実際、ゑしまが磯は釣り人の転落事故――崖を上り下りする過程で背負子を岩に引っ掛けて、というパターンが多いらしい――があとを絶たず、「人食い磯」 という異称があるほどだ。釣りの腕だけでなく、登山の技術も要求される。こんな場所で夜釣りをした真名井さんたちの気が知れない。真一にそこまでの度胸はない。

 歩き始めてすぐ、また背後に坂戸の叫び声を聞いた。

「アーアアー」

 上り坂の終わり付近。眼下に広がる雄大な森を見て、野生の血が騒いでしまったのか。

「何でターザンなんだよ」

 岡崎がツッコんでいる。川口浩探検隊ならターザンではなく、バーゴンだろう――真一も一瞬そう思ったが、シリーズではターザンを探す回もあったかもしれない。何せ子供の頃に見ていた番組だ。よく覚えていないところも多い。

 やがて、道は尾根の上を伝うようになった。周辺の木々の背丈が低くなり、時々四谷の荷物が頭上の枝葉を擦る音がする。道は木漏れ日が降り注いで気持ちいい。空気も少しカラッとしてきた。セミの大合唱は相変わらずだが、トンビの声が交じって、海が近いと悟る。

 森のトンネルを抜けると、白く乾燥した道の両側をマサキやトベラなど、より背の低い木々が占めるようになった。しかし、長くは続かず、スカシユリやハマカンゾウが点々と咲く草地が取って代わり、さらに進むと、木の柵に囲まれた真っ白い広場に辿り着いた。広場には木のベンチもある。久寿彦が、途中の岬に公園みたいな所がある、と言っていたが、どうやらそこに着いたようだ。ここまで来れば、残りの道のりは三分の一ほど。きつい上り坂もない。

「うおー、疲れたー」

 背負子をベンチに立てかけるや、真一は行き倒れの旅人のように地面に大の字に転がった。全身の関節が悲鳴を上げてバラバラになりそうだった。地面に寝そべったことで、たっぷり汗を吸い込んだTシャツの背中が土まみれになったことに気づいたが、構っていられない。背中の汚れなどどうでもいいと思うほど、くたくたに疲れ切っていた。鍛えていない体に、あの坂は堪える。若いからって無茶をするものではないと痛感した。

「シンさーん、飲み物下さーい。もう喉がカラカラだー」

 しかし、休ませてもらえない。真っ青な空に浮かぶ雲を眺めている暇もなく、広場に到着した岡崎に急かされた。あちこち痛む体に鞭打って起き上がる。飲み物は真一が背負ってきた。

 背負子のロープを解いてクーラーボックスの蓋を開けると、仲間たちが我先にと手を伸ばしてきた。

「おい、押すなって」
「誰かポカリ取って」
「俺はアクエリアス」
「Jウォーターある?」
「ゲータレードならあるよ」

 缶はどれもキンキンに冷えている。真っ先につかんで頬に当てた真帆が、うひゃあ、と悲鳴に近い声を上げた。その気持ちはわかる。この暑さの中、冷蔵庫並みの冷たさを保っている缶はなかなか想像できない。

 真一も一本つかみ取る。近くのベンチに座って、ごくごく喉を鳴らして中身を飲み始めると、干からびた体にたちどころに水分が浸透していく気がする。例の上り坂でたっぷり汗を搾り取られたから、飲み慣れたスポーツドリンクの味が最高においしい。

「ふう」

 一本飲み切って人心地つくと、周りを見渡す余裕が生まれた。

 大方の仲間たちが背負ってきた背負子は、地面から頭を出した岩やベンチに立てかけられてある。飲み物や食材が入ったクーラーボックス、発泡スチロールの箱、食器や調理器具をまとめたダンボール、水が入ったポリタンク、バーベキューコンロ、炭、タープ、テント、折りたたみテーブル……結わえ付けられた荷物の種類は様々だ。アウトドア用品のいくつかは、波田だけでなく松浦も貸してくれた。松浦の家は造園業を営んでいるからか、この手の用品がけっこうあるらしい。客にバーベキューのできる庭でも提案しているのだろうか。詳しいことは知らない。真帆が背負ってきた竹製の背負いかごは、公園の倉庫から借りてきた。これはシュノーケリングのフィンやゴムボートのオールなど、尺のあるものやかさばるものを持ち運ぶのに便利。体力に劣る夏希は、背負子の代わりに美緒のボディボードを背負ってきた。ゑしまが磯は風光明媚な海岸だ。美緒は気が向いたら、ボディボードであちこち巡ってみたいと言っていた。
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