第74話 タコは飛ばない

文字数 3,749文字

青い海、眩しい太陽、水着姿の女の子たち――
第七章は、夏も青春も全開です。少し長めの章ですが、夏を構成するあらゆる要素が詰まっています。主人公たちと一緒に、1996年の夏の一日をぜひ味わってみて下さい。

◇◇◇

 二巡目の飛び込みが終わって、木陰に入って休んでいたら、真帆と葵と夏希がやって来た。少し前に、岩棚の真ん中あたりを歩いていたのが見えたが、雑談している間に島の近くまで来ていた。おーい、という声に気づいて顔を上げると、先頭の真帆が島に手を振った。

「どこから上がればいいの?」

 きょろきょろ岩場を見渡す真帆に、久寿彦が上陸する場所を教える。

「岩の切れ間だね」

 人差し指で場所を確認した真帆は進路を変え、一旦振り返って、葵と夏希を手招く。真帆は白いパイピングが入ったオレンジのビキニ、葵はパステルグリーン、夏希はパステルブルーのビキニを着ている。パステルカラーのビキニは最近の流行で、海に行くと似たような水着を着た女の子をよく見かける。パイピングのビキニも同様。世界的に七十年代リバイバルの流れが根強く続き、ちょっとレトロなテイストのものがウケる傾向がある。

「面白そうなことやってたね。砂浜から見えたよ」

 島に上がって開口一番そう言った真帆の後ろで、葵が岩の段差でまごつく夏希を引っ張り上げている。

「やってみたい?」

 真帆は大概こういうことに積極的。訊いた真一に小麦色の顔を輝かせ、やるやる、と声を弾ませた。

「へえ、木陰もあるんだ。これなら長居できそうだね。風通しも良くて涼しそうだし」

 遅れて葵がやって来た。夏希と二人、セミの声が喧しい森とその下の木陰を見比べる。

 三人とも水着姿が眩しい。水着姿だと、普段より三割増しくらい可愛く見えてしまうから、男心はゲンキンだ。男だけで遊んでいてもそれなりに面白いけど、やっぱり女の子が来たほうが気分が上がる。この島が一気に夏の中心になった気がする。

「途中、何してた? 潮溜まり覗いてたけど」

 久寿彦が立ち上がって訊いた。

「ああ……」

 葵が答えようとするが、

「タ、タコがいたの。葵が捕まえようって言い出して……」

 こわごわ振り返った夏希が、岩棚の一角を指さした。さっき真一が三人の姿を見つけた場所より少し砂浜側に戻った所だ。引き潮で真一たちが島へ渡ったときより、だいぶ棚が露出している。

「あー、潮溜まりでのんびり昼寝してたからね、ラッキー、捕まえちゃえって思ったんだけど」

 残念そうに頭を掻きながら、葵が夏希の言葉を引き継いだ。

「タコなんていたか?」

 真一は久寿彦を見る。さあ、と首を傾げる久寿彦。岡崎と四谷も見なかったらしい。すると、葵が盛大にため息をつき、

「まったくどこに目が付いてるんだろうね、このボンクラお兄さん方は。昼ごはんのおかずは自分で調達するんじゃなかったの」

「お前だって取り逃がしたくせに」

 真一が言うと葵はふんと鼻を鳴らし、

「私は、あと一歩のところまでタコ坊主を追い詰めたけどね」

 タコは潮溜まりのごく浅い所にいた。しっかり岩に擬態していたが、葵の目はごまかせなかった。じっとしてて、と真帆と夏希の歩みを止めると、抜き足差し足、タコに忍び寄っていった。網があればよかったのだが、なければ素手で捕まえるしかない。海育ちの葵には心得がある。興味津々の真帆、引きつった顔の夏希の視線を感じつつ、屈み込んでゆっくりタコに手を伸ばした。だが、いける!、と確信したそのとき、油断して岩から足を踏み外してしまった。水音に驚いたタコが、身を細くして泳ぎ去る。葵もすかさず潮溜まりに入ってじゃぶじゃぶ追いかけたが、タコは墨を吐き散らしながら逃げ回り、最終的にわずかな岩の切れ間を見つけて、潮溜まりの外へ出ていってしまった。

「あのタコ美味しそうだったのに!」

 逃した場面をはっきりと思い出したらしい葵は、悔しそうに指を弾いた。美味しそう、というのは、確かにそうだろう。このあたりのタコはイセエビをエサにしていると聞く。上等なものを食べているタコの味も上等なはずだ。ちなみに、ゑしまが磯で、タコは漁業権の対象から外れている。つまり、一般人が獲ってもお咎めはナシ。

「でも、まだ潮が引いてるんでしょ。だったら、チャンスあるんじゃない」

 夏希が励ますと、葵は俄然やる気を取り戻し、

「だよね。一緒に獲りに行こっか」
「い、いい。ほかの人と行って」

 余計な一言だったようだ。途端に青ざめた夏希は、両手を前に突き出して、ぶんぶん首を横に振る。全力の拒絶がおかしくて、仲間たちが笑う。葵だけが憮然と腕を組み、

「なに生っちょろいこと言ってんのよ。あんただってたこ焼き食べるでしょ」
「でも、捕まえるのは絶対嫌っ」

 やはり全力で拒否したあと、潮溜まりで味わった恐怖を力説する。水の中をタコが泳ぎ回る映像は、夏希にとって衝撃的だった。タコという生き物はゆっくり岩の上を這うもので、泳ぐなどとはこれっぽっちも思っておらず、想定外の素早い動きに頭の中がパニックに陥った。タコに泳ぐことが可能なら、飛ぶことだってできるかもしれない。もしジャンプして自分のほうに向かってきたらどうしよう――最悪の光景がちらつき、葵に静止を求められなくても、足がすくんで動けなかった。

「安心しろ、タコは飛ばないから」

 久寿彦は夏希をからかったが、真一は案外あり得るかもしれないと思った。窮鼠猫を噛むという。タコだって追い詰められたら、何をしでかすかわからない。

 場が落ち着くと真帆が、飛び込みをやってみたい、と言った。

「あそこからいけばいいんだよね」

 島の南西の高台を指さす。高台までの行き方は説明不要だ。岩の上に濡れた足跡がついているから。真帆は早速サンダルを脱ぐと、真一たちがつけた足跡の道筋を辿っていく。

 高台に到着した。

 足下を覗き込む。南風がミディアムショートの明るい髪をさらさら撫でている。

 だが、なかなか飛び込む素振りを見せない。足元は平らで問題ないし、潮の流れも大したことないはずだが。

 やがてくるっと振り返り、岩の斜面をすたすた下りてきた。

「やっぱ、ここはキビシイなあ」

 仲間たちのそばまで来ると、困った笑顔で頭の後ろを掻いた。

 意外だった。真帆は高い所が苦手なのだろうか。ボディボードで波に巻かれるほうがよっぽど怖いと思うのだが。

 結局、場所を替えて飛び込むことになった。久寿彦の言う 「中級ポイント」。この場所なら、高台の半分くらいの高さしかないから、真帆が高所恐怖症だったとしても飛び込める。

「行きまーす」

 今度は元気よく手を挙げた。どうぞー、と久寿彦が言って、岸壁の両足を踏み切る。今しがたの失態の埋め合わせか、頭からの飛び込みだ。イルカみたいに伸び上がった体がきれいに放物線を描いて水面に突き刺さった。小ぶりな水柱を残し、オレンジの水着のシルエットがラムネ色の水の中を潜り抜ける。運動神経の良さがわかる飛び込みだった。緊張が解ければ、こんなことくらいそつなくこなす。水面に顔を出した真帆は、首を振って水を払い落とし、拍手に気づくと島に手を一振りして応えた。

「どう、水冷たい?」

 葵が岸壁の縁から尋ねる。

「最初だけ。でも、すぐ慣れるよ」
「じゃあ、私も行こっと」

 葵がサンダルを脱ぐと、真帆が水の中から手を挙げる。

「葵ちゃん行きまーす」

 真帆の声で、両足が踏み切られた。岸壁の向こうに葵の姿が消え、代わりに、ドッボーン、と夏らしい音が返ってきた。足からの飛び込みで、派手な水しぶきが立ち上がった。冷てっ、と岡崎が水を浴びて身を縮める。葵は一瞬水着を直す仕草をしたのち、平泳ぎで真帆のほうへ泳ぎ出す。水中の光の綾が白い背中を涼しげに彩っていた。

「気持ちいいね。水もすごくきれい」
「潜ったら何か見えるかもよ」

 立ち泳ぎしながら言葉を交わし、せーの、の合図で二人同時に水に潜る。

「何か見えた?」
「うーん、ぼんやりかな。やっぱり、水中メガネがないとダメだね」

 先に顔を出した真帆に、葵は首をひねって答えた。やはり、裸眼で水中の景色は見えづらいらしい。

 二人が島に上がってすぐ、益田と西脇がやって来た。頭にゴムボートを担いでいた益田は、島の手前で四谷にそれを引っ張り上げてもらい、次いで自身も上陸すると、海パンのポケットから使い捨ての水中カメラを取り出して、海にボートを浮かべて飛び込みを撮ってやる、と言った。カメラは真名井さんから借りたという。ただ、二十七枚撮りで、十枚くらいフィルムを残して欲しいと言われたから、たくさんは撮れないそうだ。

「あと、これ美緒さんから。飛び込みやるなら着ろってさ」

 西脇が二本のオールを突き出した。ブレードにTシャツ――ではなくて、ラッシュガードが被さっている。黒いほうは美緒、白いほうは真帆のものだろう。言われて気づいたが、水着で飛び込みをするならラッシュガードは必需品だ。特に、足から飛び込む場合は。でないと――。

「ポロリがあるよ」

 岡崎が素っ頓狂な声で言って、真一たちは爆笑する。

 そう、あらぬ事態になりかねない。ワンピースの水着なら問題ないのだろうが、今はビキニが主流。流行を意識したら手は伸びにくいはず。

 葵と夏希がすかさずラッシュガードをむしり取った。
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