第25話 春愁

文字数 1,939文字

 昨日の夕方、岩見沢の家に行った。借りていた漫画を返すためだ。岩見沢の仕事は早出で、真一が訪ねて行った六時頃には夕食も済んでいて、インターホンのボタンを押すとすぐに応答があった。

 用事が済んで、しばらく門の前で立ち話をしていたら、大学から帰ってきた岡崎がスクーターで目の前を通りかかった。岡崎の家は、岩見沢の家のすぐ近くにある。岩見沢の家の前の道路は、幼稚園の頃から使っている歴史ある通学路なのだとか。

「こいつの就職先が地元に決まったら、通勤にもこの道を使いますよ」
「家を二世帯住宅にしたら、子供も使うな」
「そうなったら、『岡崎通り』 って命名して、役所に申請してやります」

 岩見沢とそんなことを言って岡崎をからかった。

 その後、岡崎が駅で中学時代の友人に会ったと切り出すと、岡崎と岩見沢だけの会話になった。地元の人間ではなく、当然ながら同じ学校に通ってもいない真一に、二人の話はわからない。スクーターに跨りながら、聞くともなしに聞いていた。

 岡崎が友人に会ったというのは、四、五日前の夕方のこと。大学の講義が終わって家に帰る途中、駅で偶然友人の姿を見かけ、岡崎のほうから声をかけた。雨が降ったその日、岡崎はバスと電車を乗り継いで通学していたのだ。久しぶりに岡崎の顔を見た友人は大いに驚き、改札前の広場で立ち話となったが、長くなってくると彼のほうから、どこかで座って話そう、と持ちかけてきて、近くのファストフード店に入った。コーヒーを飲みながら、積もる話に花が咲いたという。

 真一が聞いていたのは、どこにでもある話だ。何組の誰それはいっこ上の何とかという先輩と結婚したとか、同じ部活だったあいつは転勤して今地元にいないとか……。さして面白味のある話ではなかったが、話に出てくる人物たちの顔を知っている岩見沢は、時折驚きの声を上げたり、質問を挟んだりして、興味深そうに耳を傾けていた。

 いつの間にか、夕闇の色が濃くなっていた。
 どこかの家から漂い出る煮炊きの匂いが強く印象に残っている。
 岩見沢の家の門灯が煌々と灯っていたので、二人の表情はよくわかった。

 二人を包み込んでいたのは、いつもと同じ空気。そこにはいつもと同じ時間が流れ、いつもと同じ感情に満たされ、いつもと同じ温度が保たれている……。

 何の変哲もない言葉のやり取り。目の前で展開されていたのは、ありふれた日常のひとこまに過ぎなかった。

 自分はこの世界をよく知っている。
 ずっと昔から慣れ親しんできた。

 スクーターに覆いかぶさりながら、ぼんやりとそう思った。

 ただ、一つだけ、いつもと違う点があった。
 自分がその世界の中にいない、とはっきり感じた。

 どうしてそう思ったのか。

 二人の会話についていけなかったから、という理由は的外れだ。あのときの自分を捉えていたのは、そんなありきたりな感覚ではなかった。

 静かな発作のようなものだった。はっきりと違和感を自覚しながら、あたかも他人の身に起こった出来事を観察するように、冷静に自分自身を見つめていた。まるで感情を一切宿さない監視カメラにでもなってしまったかのように。

 ――彼らと自分は決して相容れない。世界を異にする別種の存在同士なのだ。

 そんな考えが突然ひらめき、頭の中に居座った。

 二人が纏っていたある種の雰囲気。彼らの世界に固有のカラー。
 そこに決定的な断絶を感じた。

 ――水と油を同じ容器に入れても混ざり合うことはない。
 ――身体の免疫システムは自己と非自己を区別する。
 ――死んだ人間の魂は、この世に留まることを許されない。

 わかりやすく例えるなら、こういうことなのだ。

 それは、蓬莱公園で味わったこととは、微妙に内容が食い違っていたかもしれない。
 だが、表面的な違いがどうあれ、二つの体験は同一の淵源に根ざしていると思う。

◇◇◇

 どこからか虫の羽音が近づいて、トレーナーの袖口に細長い虫がとまった。ハンミョウに似ているが色が違う。ベニカミキリだ。腕を這い上がろうとしたところを指先で軽く弾くと、深みのある赤い鞘翅を広げてどこかへ飛んでいった。

 風に乗って小林たちの笑い声が届けられる。振り返ると、菜の花の花群の合間に、談笑する三人の顔が隠れ見えた。ベンチ中央の岡崎が煙草を吸っていないところをみると、そろそろ出発の時間だ。

 U字ブロックから腰を上げ、ペットボトルのキャップを締めた。お茶はあまり減らなかった。

 ズボンの後ろをはたいたとき、足元に白いタンポポが咲いているのを見つけた。白いタンポポは関東地方では珍しい。青草の合間にひっそりと咲くその花を見つめていたら、またふつふつと思考が巡り始めそうになったが、ちょうど真一を呼ぶ声がして、三人の所へ戻って行った。
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