第26話 若者の旅に地図はいらない

文字数 1,869文字

「まったく自業自得なんだよ!」

 腹立ち紛れに、岡崎が足元の小石を蹴り上げた。玉石だらけの川原を、小石があちこちぶつかりながら転がっていく。最後に大きく跳ね上がって、ほかの石の間に紛れ込むと、岡崎はそこを睨みつけ、忌々しげに煙草を口に運ぶ。

 岡崎が煙草に火をつけたのは、バス停があった空き地を出発して以来のこと。あれからすでに一時間以上経っている。

「そうカリカリするなって。お前だって、こうして一服できたんだし」

 川下へ棚引いていく煙を目で追いながら、真一は岡崎をなだめた。

 真一は岡崎と向かい合って、川原の真ん中に立っている。二人の間を満たす清らかな瀬音。春の渓谷を渡る風は、きりっと冷たい。

「でも、いつになったら出発できるんですかね。あの様子じゃ当分無理でしょ」

 眇められた目の先で、小林が前かがみになったマサカズの背中をさすっている。川原の川下側の先端。大丈夫か、とさっきから何度も声をかけているが、マサカズは曖昧に返事をするだけで顔を上げられない。

「おぅえええっ」

 見ているそばから、またえづき出した。小林がちょうど振り返って、真一たちのほうに来ようというところだったが、襟首をつかまれたみたいに取って返す。

 チッ、と岡崎が舌を鳴らす。

「ほっときゃいいんですよ、あんな奴。さんざん注意したでしょ、俺たち。言うこと聞かなかったあいつが悪いんですから」

 岡崎の怒りはもっともだ。こうなった原因は、ひとえにマサカズ自身にある。

 今を遡ること約一時間半前。マサカズは空き地の向かいの商店で、アイスモナカと駄菓子を少々、それに本日発売の漫画週刊誌を二冊買った。どちらの漫画も毎週発売日を心待ちにしていたマサカズは、車に乗り込むなり一冊を手に取って、むさぼるように読み始めた。道中ずっと静かにしていたのは、漫画に熱中していたからだ。

 真一たちは再三忠告した。そんなもん読んでいたら車酔いになるぞ、と。

 だが、マサカズは生返事を返すばかりで、一向に行いを改めようとしない。やがて、遠くに見えていた山並みが近づいてきて、車は山懐に吸い込まれた。

 マサカズはここで一旦漫画を閉じた。カーブの多い山道で活字を追うのは難しい。真一たちは、さすがにあきらめたのだろうと思った。

 だが、読書熱旺盛なマサカズは、こんなことくらいではへこたれなかった。少ししてまた表紙を開くと、体が右へ左へ揺さぶられるのも構わず、ページをめくり続けた。ときに真一に寄りかかり、ときに窓ガラスに頭をぶつけて痛そうな音を立てながらも、なお漫画を手放さない執念は、もはや称賛に値した。

 ここまで来ると、もうマサカズを注意しようとする者はいなかった。「オナニーを覚えた猿と一緒だな」、と岡崎が吐き捨てたのを最後に、真一たちは自分たちの会話に没頭することにした。

 それからしばらく――

「ちょっと……停めて……」

 かすれた声が会話に紛れ込んだ。本当に蚊の鳴くような声だったので、最初は空耳かと思った。だが、ふと隣を見たら、ドアとシートの間にマサカズがぐったりもたれかかっている。顔は死人のように真っ白、自慢の眉毛もしなびたモヤシみたいに力なかった。

 そもそも、知らない道を行ってみようと言ったのはマサカズだ。国道をだらだら走っていても面白くない。いずれ出てくる観光名所は、どこも中身が知れたところばかり。入場料を取る所はなおさら行く気がしない。真一が何げなく道端の看板に書かれたレジャー施設の名を読み上げたら、マサカズに一笑に付された。そこは、マサカズたちが子供の頃、遠足やら子供会やらでさんざん連れて行かれた場所だという。

「四人でゴーカートレースでもやりますか。いい年こいて」

 真一の意見がさもつまらないといったふうに、マサカズは大げさに肩をすくめてみせた。

 だが、岡崎はマサカズの突飛なアイデアには乗り気ではなかった。小林の車にナビなどという気の利いたものはついておらず、かといって地図も持ってきていなかった。退屈でも国道を走っている分には迷う心配はない。天気もいいし、どこかで海でも眺めながらメシが食えれば十分じゃないか――岡崎はそう言った。

 真一も岡崎の意見に賛成だった。これから初夏を迎えようという海岸では、菜の花によく似たハマダイコンの花が見頃のはず。雲のように咲き群がる白や紫の小さな花を眺めながら、腹ごなしに海辺の道を歩いてみるのもいい。

 だが、マサカズは真一たちの考えを、つまらない、消極的、となじった上で言い放った。

 若者の旅に地図はいらねえ、と。

 出たとこ勝負だ、と。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み