第13話 形勢逆転
文字数 2,414文字
!?
首が回り切らないうちに、両手で口を覆う美汐の横顔が目に入った。手前にいる岡崎も、後ろを向いた状態で固まっている。指先から立ち昇る煙草の煙が、そこだけ命を与えられたように揺らめいて、一風変わった騙し絵を見せつけられているようだ。
「何だあれ、大丈夫か」
隣のグループの面々も、一様に同じ方向を見つめている。
視線の集まるところに、仰向けに倒れている奴がいた。四肢を鉤形に折り曲げ、死んだゴキブリみたいに動かない。マサオだ。
いったい何があったのか。事の経緯がまったくわからない。今しがた、鈍い音を聞いた気もするが……。
岡崎に尋ねようとしたとき、
「あいつらに投げ飛ばされたんだよ」
隣のグループの稲城という男が、野田に話しかけていた。今日、初めて見た顔だ。岩見沢から聞いて名前は覚えたが、まだ言葉は交わしていない。
あいつら……?
ブルーシートの片隅に目を移す。
松浦と五所川原があぐらをかいて談笑している。そばに横たわる川崎は……昼寝でもしているのだろうか。こちらに背を向けて、表情はわからない。
しかし、奇妙な光景だ。松浦たちの和やかな雰囲気にそぐわず、あたり一面、ひどい散らかりよう。オードブルの食べ物、引きちぎられた紙皿、中身をぶちまけた紙コップ、果ては将棋の駒までがそこら中に散乱し、足の踏み場もない。将棋盤は……と思って視線を彷徨わせたら、遥か彼方の芝生の上に板の片割れが落ちていた。
「どうしたんだ、あれ」
益田が真一たちのグループを代表して訊いた。マサオたちから目を離していたのは、真一だけではない。ほかの仲間たちもトランプに夢中で、四人のことを気にしなくなっていた。隣のグループも事情はだいたい同じ。誰もがマサオの大声に慣れ切ってしまい、ちょっとやそっとの騒ぎでは振り向かなくなっていたのだ。
全員の視線を受け止めた稲城が小さくうなずく。
稲城によれば、マサオは松浦と五所川原に両脇を固められた状態で投げ飛ばされた。酔っぱらっているため、うまく受け身が取れず、中途半端に体をひねったままシートに叩きつけられた。危険な倒れ方だったが、松浦と五所川原がマサオを気遣うことはなかった。それどころか五所川原は、当初横向きに倒れていたマサオの尻を思い切り蹴り上げ、松浦に至っては、笑いながら何発も蹴っていたという。二人が悪ノリしていたのは明らかだった。あっという間の出来事で、稲城が止めに入る間もなかった。
この証言で、シートの空気が微妙に変わった。松浦たちが迷惑を被っていたのは事実。だが、一方で、彼らもマサオをからかって面白がっていた節はなかったか。川崎はともかく、五所川原と松浦は。
川崎がむくりと起き上がる。嫌な風向きを感じて、おちおち寝ていられないと思ったのだろう。ひっくり返っているマサオのそばへ駆け寄ると、しゃがんで顔の横のシートをバシリと叩く。
「おい、起きろ、てめえ!」
川崎は納得がいかない。痛い目に遭わされたのは、マサオだけではない。川崎だって頭突きの直撃をもらったのだ。不意打ちで、息が詰まりそうになった。今も、あばらのあたりがずきずき痛む。
マサオには、散々嫌な思いをさせられてきた。乱暴に肩を揺さぶられ、首に抱きつかれ、酒臭い息を吐きかけられ、大声でどやしつけられ……思い返すだけで腹が立つ。
マサオは目をつぶったまま動かない。本当に動けないのか、たぬき寝入りを決め込んでいるだけなのか……。いずれにせよ、酒とツキアイを強要してきたコミュハラ男は、ここへ来て木石のごとく押し黙ってしまった。
「ゴキブリ野郎、見え透いた演技してんじゃねえ!」
片や、さっきまで仏頂面を保っていた男は、今やお不動様のごとく怒りを露わにしている。
川崎の頭の片隅には、マサオが夏の終わりの死にかけたセミのごとく、突如復活して襲いかかってくるのではないかという懸念も多少あったが、そんな動きはいささかも見られなかった。
しびれを切らした川崎は、マサオに馬乗りになった。胸ぐらをつかんで前後に揺さぶる。腕の動きに合わせて、マサオの口が開いたり閉じたりを繰り返す。
だが、これはやりすぎだった。見かねた宇和島が立ち上がる。
「やめろよ、まだどこか痛いのかもしれないだろ」
背後から川崎の肩をつかんだ。
振り返った川崎は、宇和島の真顔と出会って、マサオのスウェットから手を離す。
このままマサオに跨っているのはまずい。仲間たちの印象を悪くするだけだ。
と、頭ではわかる。
しかし、気持ちは簡単に割り切れなかった。
自分たちは理由があって飲めないのだ。自分と五所川原は、みんなの送迎を頼まれている。松浦にもバイトがある。どちらも真っ当すぎるほど真っ当な理由だ。にもかかわらず、マサオはしつこく酒を強要してきた。先にちょっかいを出してきたのもマサオだ。どう考えても、悪いのはマサオではないか――。
そこまで達すると、胸の中で熱いものが弾けた。
「大げさなんだよ」
立ち上がり際、マサオの顎を拳で小突いた。ガチ、と歯と歯がぶつかり合う音がし、仰向けの体が突然スイッチが入ったみたいに跳ね上がった。横に転がったマサオは、両手で顎を押さえてエビみたいに丸くなる。
「あー、ひでえ。今の見た?」
野田が稲城の肩に手を置いて叫ぶ。稲城の顔つきは険しい。けっこう大きな音がしたから、痛がり方は演技ではないだろう。
シートの隅の五所川原が慌てて立ち上がった。今の行いで、場の空気がマサオに同情的になってしまった。ふて腐れて突っ立っている川崎に、よけいなことしやがって、という一瞥をくれ、小走りでマサオのそばに駆け寄る。
「おい、大丈夫だろ」
しゃがんでマサオの肩に手を置く。だが、マサオは目をつぶったまま、それを払いのける。五所川原がもう一度肩に手を置くも、ごろんと反対を向いて拒絶する。ごろん、ごろん……。同様のやり取りがコントのように繰り返された。
首が回り切らないうちに、両手で口を覆う美汐の横顔が目に入った。手前にいる岡崎も、後ろを向いた状態で固まっている。指先から立ち昇る煙草の煙が、そこだけ命を与えられたように揺らめいて、一風変わった騙し絵を見せつけられているようだ。
「何だあれ、大丈夫か」
隣のグループの面々も、一様に同じ方向を見つめている。
視線の集まるところに、仰向けに倒れている奴がいた。四肢を鉤形に折り曲げ、死んだゴキブリみたいに動かない。マサオだ。
いったい何があったのか。事の経緯がまったくわからない。今しがた、鈍い音を聞いた気もするが……。
岡崎に尋ねようとしたとき、
「あいつらに投げ飛ばされたんだよ」
隣のグループの稲城という男が、野田に話しかけていた。今日、初めて見た顔だ。岩見沢から聞いて名前は覚えたが、まだ言葉は交わしていない。
あいつら……?
ブルーシートの片隅に目を移す。
松浦と五所川原があぐらをかいて談笑している。そばに横たわる川崎は……昼寝でもしているのだろうか。こちらに背を向けて、表情はわからない。
しかし、奇妙な光景だ。松浦たちの和やかな雰囲気にそぐわず、あたり一面、ひどい散らかりよう。オードブルの食べ物、引きちぎられた紙皿、中身をぶちまけた紙コップ、果ては将棋の駒までがそこら中に散乱し、足の踏み場もない。将棋盤は……と思って視線を彷徨わせたら、遥か彼方の芝生の上に板の片割れが落ちていた。
「どうしたんだ、あれ」
益田が真一たちのグループを代表して訊いた。マサオたちから目を離していたのは、真一だけではない。ほかの仲間たちもトランプに夢中で、四人のことを気にしなくなっていた。隣のグループも事情はだいたい同じ。誰もがマサオの大声に慣れ切ってしまい、ちょっとやそっとの騒ぎでは振り向かなくなっていたのだ。
全員の視線を受け止めた稲城が小さくうなずく。
稲城によれば、マサオは松浦と五所川原に両脇を固められた状態で投げ飛ばされた。酔っぱらっているため、うまく受け身が取れず、中途半端に体をひねったままシートに叩きつけられた。危険な倒れ方だったが、松浦と五所川原がマサオを気遣うことはなかった。それどころか五所川原は、当初横向きに倒れていたマサオの尻を思い切り蹴り上げ、松浦に至っては、笑いながら何発も蹴っていたという。二人が悪ノリしていたのは明らかだった。あっという間の出来事で、稲城が止めに入る間もなかった。
この証言で、シートの空気が微妙に変わった。松浦たちが迷惑を被っていたのは事実。だが、一方で、彼らもマサオをからかって面白がっていた節はなかったか。川崎はともかく、五所川原と松浦は。
川崎がむくりと起き上がる。嫌な風向きを感じて、おちおち寝ていられないと思ったのだろう。ひっくり返っているマサオのそばへ駆け寄ると、しゃがんで顔の横のシートをバシリと叩く。
「おい、起きろ、てめえ!」
川崎は納得がいかない。痛い目に遭わされたのは、マサオだけではない。川崎だって頭突きの直撃をもらったのだ。不意打ちで、息が詰まりそうになった。今も、あばらのあたりがずきずき痛む。
マサオには、散々嫌な思いをさせられてきた。乱暴に肩を揺さぶられ、首に抱きつかれ、酒臭い息を吐きかけられ、大声でどやしつけられ……思い返すだけで腹が立つ。
マサオは目をつぶったまま動かない。本当に動けないのか、たぬき寝入りを決め込んでいるだけなのか……。いずれにせよ、酒とツキアイを強要してきたコミュハラ男は、ここへ来て木石のごとく押し黙ってしまった。
「ゴキブリ野郎、見え透いた演技してんじゃねえ!」
片や、さっきまで仏頂面を保っていた男は、今やお不動様のごとく怒りを露わにしている。
川崎の頭の片隅には、マサオが夏の終わりの死にかけたセミのごとく、突如復活して襲いかかってくるのではないかという懸念も多少あったが、そんな動きはいささかも見られなかった。
しびれを切らした川崎は、マサオに馬乗りになった。胸ぐらをつかんで前後に揺さぶる。腕の動きに合わせて、マサオの口が開いたり閉じたりを繰り返す。
だが、これはやりすぎだった。見かねた宇和島が立ち上がる。
「やめろよ、まだどこか痛いのかもしれないだろ」
背後から川崎の肩をつかんだ。
振り返った川崎は、宇和島の真顔と出会って、マサオのスウェットから手を離す。
このままマサオに跨っているのはまずい。仲間たちの印象を悪くするだけだ。
と、頭ではわかる。
しかし、気持ちは簡単に割り切れなかった。
自分たちは理由があって飲めないのだ。自分と五所川原は、みんなの送迎を頼まれている。松浦にもバイトがある。どちらも真っ当すぎるほど真っ当な理由だ。にもかかわらず、マサオはしつこく酒を強要してきた。先にちょっかいを出してきたのもマサオだ。どう考えても、悪いのはマサオではないか――。
そこまで達すると、胸の中で熱いものが弾けた。
「大げさなんだよ」
立ち上がり際、マサオの顎を拳で小突いた。ガチ、と歯と歯がぶつかり合う音がし、仰向けの体が突然スイッチが入ったみたいに跳ね上がった。横に転がったマサオは、両手で顎を押さえてエビみたいに丸くなる。
「あー、ひでえ。今の見た?」
野田が稲城の肩に手を置いて叫ぶ。稲城の顔つきは険しい。けっこう大きな音がしたから、痛がり方は演技ではないだろう。
シートの隅の五所川原が慌てて立ち上がった。今の行いで、場の空気がマサオに同情的になってしまった。ふて腐れて突っ立っている川崎に、よけいなことしやがって、という一瞥をくれ、小走りでマサオのそばに駆け寄る。
「おい、大丈夫だろ」
しゃがんでマサオの肩に手を置く。だが、マサオは目をつぶったまま、それを払いのける。五所川原がもう一度肩に手を置くも、ごろんと反対を向いて拒絶する。ごろん、ごろん……。同様のやり取りがコントのように繰り返された。