第50話 灰と煙

文字数 3,197文字

「でも、正直言って、俺はもうついていけないよ」

「まあ、昔の勢いはもうないね……」

 口にしたくない言葉が、またこぼれてしまった。この流れでは、どうしたって言わざるを得ない。このまま会話を続けたら、胸の奥にしまい込んでいたものがどんどん引きずり出されていってしまいそうな気がする。

「連休前に、あいつらと飲んだんだ。花見の日の二次会みたいな感じで。俺や松浦は、あの日飲めなかっただろ? だから、その埋め合わせに」

「松浦も来たんだ」
「益田と岩見沢も来たよ」

 花見の日のメンバーは、久しぶりに顔を合わせた人間が多かった。お互い懐かしさに駆られて、もう一度飲もうという話になったらしい。

「まだあの日の余韻が残ってて、居酒屋に入って席につくと、すぐにわーっと盛り上がった。俺も周りの奴らと一緒に声を張り上げてた。何をしゃべってたかは、もう覚えていない。ただ、ある瞬間、ふと気づいたんだよ、妙に冷めてる自分に。ジョッキを掲げて、形だけは盛り上がってるんだけど、心は空っぽだった。騒いでても空回りしてるっていうか……。アレって思ったよ。おかしい、いつもと違うぞって」

 真一はギクッとして目を見開く。その状況は、まさに岡崎やマサカズとボウリングをしたときと同じだ。アレっ、という気持ちはよくわかる。真一もあのとき、どうして自分があんなに冷めていたのかわからなかった。

「そう思ったのは、その時が初めて?」
「……覚えている限りでは」

 きっぱりと言い切る言い方ではない。それ以前の日々にも、漠然と思い当たる節があるのかもしれない。ただ、久寿彦はそのことに関心はないらしく、立て続けに桑の実を口に放り込むと、プッ、プッ、と果梗を吐き出して言葉を継いだ。

「最初は気のせいだと思った。たまにはこんな日もあるだろうって。ただ、同じことが重なると、やっぱりね。周りに合わせてはしゃいでいるうち、いかにも無理してるなあって思えてきて……。バカバカしいと思うと同時にショックだったよ。ああ年貢の納め時だ、いよいよ俺にもヤキが回ってきたって」

 宇和島たちとは、連休中にも二回ほど飲んだという。地方に転勤になっていた仲間が帰省して、次はいつ会えるかわからないからという理由で。そのときも昔話で大いに盛り上がったが、久寿彦はやはり同じ気持ちを感じてしまったそうだ。

「一方で、必死に事実に抗おうとしている自分もいるんだよな。何も変わっていない、俺はまだ終わっていないぞって。拳握って、自分を鼓舞して」

 地面に散らばった果梗を靴底でかき集め、自虐的に笑う。

「お見苦しい限りだよ。そもそも自分でエンジンかけようってしてること自体、もうダメだって証拠なんだよな。昔はそんなことする必要なかっただろ? 常に気持ちが高揚してて、ささいなきっかけさえあればすぐに火がついた。ナチュラル・ハイっていうのかな、そういうのがあった」

 ああ、と真一は感嘆に近い声を漏らした。確かに、その通りだと思った。

「カラ元気なんか出すようになったら終わりだよ」

 ダメ押しするように付け加えた久寿彦は、真一に顔を向けると、早く飲めば、とベンチのサイダーを指さす。

 時間が経った缶はたっぷりと汗をかき、ベンチの座面まで濡らしている。缶を手に取った真一は、警戒しながらプルタブを引いた。プシュッ、と気の抜ける音がしたあと、しかし、泡は噴き出さなかった。

 ぬるくなったサイダーをすすると、岡崎やマサカズとボウリングをしたときのことを話した。人の話を聞いておいて、自分の話をしないのは公平さに欠ける。あまり話したくないことだったが、ここまで話が進んでしまったら、今さら話題を変えることはできない。

 久寿彦は桑の実を食べながら真一の話を聞いていた。手のひらの実が全部なくなったとき、真一の話も終わって、何度もうなずきながら、やっぱりそうだよな、と言った。

 ジッポーのキャップが開く音がした。煙草に火をつけた久寿彦が、センダンの木を見上げる。何かを思い出そうとしているのか、真一の目には横顔しか映らなくても、眉間にシワが寄っているのがわかる。

「例えば、誰かの部屋で夜中まで駄弁ってて、突然、海が見たい、って言い出す奴がいて、ほかの奴らも、いいね、って同調して、そのまま深夜の高速を走って海まで行っちゃうみたいな……ああいうノリって、もうないと思う」

「やたらと回りくどい例えだな」

 理解が追いつかなかった真一は、困ってその場しのぎの笑みを浮かべる。

「でも、高速下りたところでガス欠になっちゃって」
「何だよ。本当にあった話か」

 今度はずっこけそうになって、とっさにサイダーの缶を握り直した。
 久寿彦が真一のほうを向く。

「ああ、三年前のこと。バカみたいな話だろ。田んぼだらけの真っ暗な道を、往復二十キロ以上歩いたんだぜ。まだ携帯持ってる奴なんていなくて、公衆電話を探すしかなかったんだ」

「燃料メーターぐらい確認しとけって。メンバーは?」
「野田と、あとの二人はお前の知らない奴。どっちも俺の同級生」

 てっきりバイトの仲間かと思ったが、違った。

 久寿彦によれば、ガス欠になって車を停めた場所から二キロくらい歩いたところでコンビニが見つかった。田舎道とはいえ、高速のインターがある比較的交通量が多い道だったのだ。店に入ると、とりあえず缶コーヒーを買い、眠そうな店員に尋ねたら、ガソリンスタンド自体は道路沿いに何軒もあるが、深夜やっているスタンドとなると、十キロくらい先まで行かないとない、という回答だった。ただ、スタンドがやっていれば、ガソリンは運んでもらえばいい。そう思った久寿彦たちは、店の名前を教えてもらって、表の公衆電話に備え付けの電話帳で番号を調べて電話をかけた。

 ところが、十回以上呼び出し音を聞いてようやく電話に出たスタンドの店員は、木で鼻を括ったような声で言い放った。今、人手が足りないからそっちまで行けない、携行缶を貸すからお客さん自身で給油して欲しい――この手の客が多くて辟易しているのか、交渉する気などさらさらないという意思が受話器越しにはっきり伝わってきた。愕然とした久寿彦は、公衆電話のキャビネットに突っ伏してしまった。ただ、田舎に行けば、深夜営業しているガソリンスタンド自体がない場合もある。やっている店があるだけマシか、と何とか気持ちを立て直して歩き始めた。道のりは長かった。はじめのうちこそ冗談を飛ばす余裕があったが、途中から会話がなくなり、ひたすら足を動かすだけになった。携行缶を持って車に帰り着いたときには、すっかり夜が明けていた。

「浜辺で朝日を拝むつもりが、台無しだな」

 真一はからかい気味に言って笑う。

「でも、そんな目に遭っても笑い話になっちゃうんだよ、あの頃は、さ」

 久寿彦は反発することなく、懐かしそうに目を細めた。

 後先考えず突っ走ってしまう愚かさ。失敗を笑って流すことができる清々しさ。若い頃には、多かれ少なかれ誰もが持っていたもの――。

 十年後も覚えているだろうか。自分たちにも、そんな時代があったということ。

 あるいは、そんなことも思い出せなくなってしまうほど、年を取ってしまうのか。

「今は夜通し騒いで、朝帰りしたような気分だよ。何もかも燃え尽きて、冷めた意識だけ残って……」

 急にトーンダウンした久寿彦は、煙草の先に溜まった灰に目を落とす。

「ちょうどこの灰みたいに、さ」

 今の自分は真っ白な灰みたいなものだ、と言いたいのだろうか。見ている間に灰は根本から折れ、地面で音もなく砕け散った。

 どこかでヤマバトが鳴いている。それほど遠くないところ。ホーホーホッホー、ホーホーホッホー……。のどかな声が午後の静寂をいっそう深めていく。山地に多いカッコウのことを 「閑古鳥」 というが、平地で閑古鳥に相当する鳥がいるとすれば、このヤマバトではないかと思う。
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