第27話 水切り

文字数 1,817文字

「あー、腹減ったな、ちくしょう。いったいどこなんだよ、ここ」

 谷間の狭い空に、悲痛な叫び声が吸い込まれていく。岡崎が川原にあぐらをかいて見上げている空は、絶望的までに高い。両側に立ちはだかる切り立った谷壁と急斜面。前後も山々が視界を塞ぎ、深いクレバスに落ち込んでしまったかのようだ。

「どっかに食い物売ってる店ねえかなあ……ってあるわけないか、こんな山奥に」

 岡崎はあきらめ切った顔で、新樹が彩る右手の急斜面に目を移す。うぐいす色の描点の奥、道があることを示すガードワイヤーのそばに、小林の白いステーションワゴンが見える。谷川沿いの狭隘な道には、所々対向車をやり過ごすための待避所が設けられていたが、小林は川原へ下りる小道の口が開けていた所に車を停めた。

「出前でも頼むか」
「シンさん携帯持ってないでしょ」
「……そういう問題かよ」

 和ませようと思って言ったのだが、じろりと睨み上げられてしまった。岡崎の空腹感は、すでに冗談の通じない域に突入している。大学生らしく――かどうかは知らないが、普段から朝食を食べない岡崎は、腹に備蓄がないのだ。

 携帯といえば、真一はまだ携帯を持っていない。携帯電話やPHSは昨年あたりから爆発的に普及し始め、若い世代の間では、すでにポケベルに代わる新たなツールとして定着した感がある。持たざる者が周りからどんどん減っていく中、真一も年明けくらいには入手しようと思っていたのだが、バイトが替わったりして、色々ごたごたしている間にここまで来てしまった。

「でも、最後に見た店まで戻るにしてもなあ……」

 頭の中で、ここまでの道のりを逆に辿ってみる。

 道が山に入る少し前、やっているのかいないのかもよくわからない商店があった。一見、物置きか何かと勘違いしてしまいそうな粗末な店。屋根瓦に雑草が生え、こげ茶色の板壁で大村崑が 「おいしいですよ!」 と笑っていた店だ。旧型の郵便ポストと満開の八重桜が並んでいたので、見過ごす心配はない。

 そこまでだいたい三十分。ただ、マサカズの体調を考えれば、あまり車を飛ばすわけにもいかず、往路より時間がかかってしまうことは確実だ。運良く店がやっていたとしても、弁当などは置いていない。腹持ちがいいものがあるとすれば、せいぜい菓子パンくらいか。あとは、お湯を沸かしてもらって、カップ麺をすするという手もあるが……。

「……でも、まあ、ちゃんとしたメシを食いたきゃ国道まで戻るしかないな」

 結局、そういう結論になってしまう。

「国道かあ……遠いっすね……」

 岡崎は天を仰いで、谷底までまっすぐ降り注いでくる陽射しに目を細めた。それからポケットをまさぐり、空き地の前の田舎商店で補充した煙草を引っ張り出す。玉石の間に突き立てられたコーヒー缶は、小林が車の中で飲んでいたもの。待避所に車を停めたとき、岡崎はドリンクホルダーから抜き取って、勝手に灰皿にしてしまった。

 岡崎が話しかけてこなかったので、真一は川瀬のほうに足を向けた。

 水際で平べったい石を一つ拾う。
 子供の頃よくやった遊び、水切り。

 石の縁に指をかけ、比較的流れの緩やかな場所に狙いをつける。大きく腕を引いて、低い体勢から振り抜くと、指先からビッと飛び出した石は、浅葱色の水面を削って、対岸の湿っぽい崖に当たって砕けた。

 川面の上空に群がっていたカゲロウが驚いて逃げていく。陽射しの下で再び群がり、透明な羽がガラスのようにキラキラ輝く。

 また石を拾おうとして身を屈めたら、ぐうー、と腹の虫が鳴いた。真一にしても、腹が減っていないわけではない。出発してからかれこれ二時間以上経っている。本来なら、とっくに昼食にありついている時間だ。

 空き地を出発したときには、ラーメン屋の一軒くらいは見つかるだろうと高を括っていたが、期待は見事に裏切られた。田舎の一本道にはラーメン屋はおろか、廃れた大衆食堂のような店さえ見当たらなかった。コンビニ、ファミレスは言うに及ばず。唯一見かけたのは、道から少し外れた田んぼの真ん中にぽつんと立っていた小体な居酒屋。「四時歌」 と書かれた看板が道端に出ていたが、常連だけで成り立っていそうな店だったし、そもそも日中に営業しているとは思えなかった。今更言っても始まらないが、道が山に入った時点で引き返すべきだった。いずれどこかへ抜けるだろう、と安易に構えていたせいで、こんな秘境めいた場所に迷い込んでしまったのだ。
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