第22話 入相の鐘
文字数 3,117文字
「でも、マサオはどうするんだ? あんな奴、危なかっしくて山の上まで連れて行けないだろ」
四阿までの道はけっこう険しい。急な階段があったり、地面に所々木の根っこが出っ張っていたりする。道のりの大半は森の中だから、夜になれば真っ暗だ。マサオみたいな酔っぱらいが、そんな所を歩けるのだろうか。
「あいつはもう大丈夫。稲城が草むらで吐かせたら落ち着いたよ。今、シートで寝てるけど、もう少ししたら起こすってさ」
久寿彦はあっけらかんと答えた。
「見てくるか? 蓑虫みたいになってるぞ」
それから、いたずらっぽく片眉を吊り上げる。
久寿彦によれば、マサオは風邪を引かないようにと、ブルーシートで簀巻きにされてしまったらしい。隙間風を防ぐため、くずかごを漁って拾った新聞やダンボールを、シートと体の間に詰め込まれた。川崎と五所川原は、そこらへんのゴミやら草むらに落ちていたエロ本やらも一緒に突っ込んで、ささやかな復讐を果たしていたという。
「でも、何だかんだ言って、今日はあいつ中心に場が回ってた気がするよ」
真一はこの半日を振り返る。騎馬戦の馬を作って池まで練り歩いたり、胴上げや神輿投げをやったり――一連の流れはマサオが作ったと言っても過言ではない。マサオは、みんなに除け者にされつつ、みんなの中心でタクトを振るという、矛盾した奇妙な役を演じていた。そう考えると、彼はやっぱりジョーカーだったのかもしれない。
「ところで、あいつ、お前の知り合い?」
そういえば真一は、マサオについて何も知らない。顔の広い久寿彦なら、何か知っているだろうか。
「知るかよ、あんな奴。松浦たちの仲間じゃないの」
しかし、返ってきたのは、どこかで聞いたような当てずっぽうな答え。
「おいおい、お前、幹事だろ」
「そう言われてもなあ……。宇和島にメンバーの確認を取ったときにも名前が挙がってなかったし……」
困惑する顔に嘘はなさそうだ。
「じゃあ、あいつ何者なんだ?」
「わからん。日中、川崎や野田に訊こうとしたんだけど、なぜか訊きそびれちまったんだよ」
何だか狐につままれたような話だ。こんなことになるのなら、松浦を輿に担いだときに訊いておけばよかった。
久寿彦が言うには、マサオは、真一より一時間ほど早く広場にやって来たそうだ。それでもみんなよりは遅い到着で、気がついたら手酌で酒を飲んでいたという。
「どこかの酔っぱらいが、お前らを仲間だと勘違いして紛れ込んだんじゃないのか」
冗談めかして言ったら、久寿彦は軽く吹き出して、
「かもな」
本当にそうだったら面白い。見ず知らずの酔っぱらいが輪の中に紛れ込んでいたなんて、春の珍事だ。
第二広場に差し掛かったあたりで、会話が途切れた。長身で歩幅の大きい久寿彦に真一は遅れを取り、モッズパーカの背中を追って歩く。
仄かな花明かりを放つ遊歩道は、まだどこか騒然としている。日中歩いていた花見客の気配が消えずに残っている感じ。地面についた無数の足跡がそう思わせるのかもしれない。
この区間は、桜のトンネルがまっすぐ続いていて、見通しがいい。ずっと先まで垂れ込める花の雲から、薄紅色の雪片が絶えず舞い落ちている。地表を染める鹿の子模様もそれらが作ったもの。それにしても、見事な桜並木だ。このままずっと歩いていたくなる。遊歩道は公園を一周しているから、道なりに歩いている限り、花の回廊は永遠に終わることがない。
やがて、一段と華やいだ一角が近づいてきた。第二広場の斜交いに開けた待合広場。小ぢんまりしたスペースに、ペンキをぶちまけたみたいに春の色が氾濫している。中央のツツジにこそ花はないが、広場の外周に沿ってレンギョウ、ユキヤナギ、ボケ、椿などが妍を競い合い、鮮やかな色彩が目に痛いほど。今年は本当に色々な花が咲き揃った。花見に訪れた人たちは幸運だ。
「何か飲んでいくか? おごるよ」
久寿彦が足を止めて振り返る。まっすぐ帰るつもりなら、ここで久寿彦とはお別れだ。久寿彦が働いているレストランは、待合広場から東に向かって進み、森の坂道を下った所にある。
真一は腕時計に目をやる。もうすぐ六時。ホテル時代の先輩と約束した時間は七時だから、時間があるといえばある。
少し考え、やっぱり帰ることにした。コーヒーの一杯でも飲んだら、帰り道が慌ただしくなってしまうだろう。
「んー、今日はいいや。また今度誘ってよ」
黙ってうなずく久寿彦。だが、すぐに別れは告げず、後ろ向きに歩きながら、真一と会話を続ける。
遊歩道から少し逸れたところで、ふと足が止まった。桜の花がなくなったその場所で、空を見上げている。
「もう青春時代も終わりかなあ……」
誰に向けられた言葉でもなかった。あたかも、空に言わされてしまった、という感じだった。
「はあ?」
あまりの脈絡のなさに、真一は片眉を吊り上げる。
「……いや、なんとなく」
久寿彦はバツが悪そうに鼻の下をこすって、そっぽを向いた。ただ、真一に久寿彦を問い詰めるつもりはない。どうせ、大した意味などないだろう。幹事をやった疲れが、今になって出て来たのかもしれない。
「フッ、何だそりゃ。じゃあ、またな」
別れの手を挙げると、前を向いて歩みのペースを上げる。
じゃ、とやっぱり決まり悪そうな声が背中に届いた。
龍神池へと向かう坂を下りつつ、桜並木の合間に覗く暗い水面に目を向けた。瀬戸のような池面を挟んで向き合う二つの山の頂こそ、まだ夕陽に照り映えているが、池畔の景色の大部分はうっすらした闇に沈んで、形や色が判然としなくなりつつある。
対岸の山の麓に点々と連なる雪洞の灯が、池に浮かんだ狐火のようだ。暖色の灯火は、桜の薄紅色や夕闇の青とうまく調和して、夢幻の世界を作り上げた。すべてが中間色で統一された、淡くぼんやりした世界。白色の照明が点灯したときの光景を見たことがないから、おいそれと甲乙はつけられないが、薄暮の桜並木も夜桜に負けないくらい風情があると思う。
坂の終わりで、池を巡る遊歩道と合流した。青い闇が満ち始めた池畔に、いつの間にか人が戻りつつある。夜桜を待つ人々は誰も、どこか落ち着かない様子。祭りの第二幕に期待している心が窺える。
だいぶ大気が冷えてきた。水面に滲む春灯も、寒さで引き締まったかに見える。
スクーターの運転に備えて、ナイロンジャケットのジッパーを目一杯引き上げた。ちょうど入相の鐘が鳴った。公園の外れにある寺で衝かれている鐘だ。
透明な夕空に、さえざえと響き渡っていく。
人々に一日の終わりを告げる音。
前を行く人が足を止めて、空を見上げる。
真一は立ち止まることなく、鐘の余韻に耳を澄ませた。
薄れゆく音が胸に染み渡る。
だが、その音が自分の人生における一つの季節の終焉を密かに告げていることに、真一はまだ気づいていない。
◇◇◇
弁天橋の前を通りかかったとき、島側の橋の袂から眺めた光景が頭に蘇った。
石垣の上に連綿と咲き連なった桜並木。見事な夕焼け色に染まっていた。
風が止んで池の漣が凪ぐと、しんと澄み定まった水面に、写真と見紛うほど精緻な水影が浮かび上がった。
静寂の中に生み落とされた束の間の奇跡。もう一度風が吹けば、跡形もなく消えてしまう。
真一はそのとき、巧まざる芸術作品のたった一人の鑑賞者だった。周りに人はなく、声も聞こえなかった。
凄艶な光景に、思わず息を呑んだ。
咲き誇る桜は、水面の倒影もろともこちらへ迫ってきそうな勢いを感じさせた。空気は張り詰め、水を打ったような静けさの中、無数の花の爆ぜ返る音が木霊している気がした。
そう――
桜の花は、今、まさに、盛りの絶頂にあった。
四阿までの道はけっこう険しい。急な階段があったり、地面に所々木の根っこが出っ張っていたりする。道のりの大半は森の中だから、夜になれば真っ暗だ。マサオみたいな酔っぱらいが、そんな所を歩けるのだろうか。
「あいつはもう大丈夫。稲城が草むらで吐かせたら落ち着いたよ。今、シートで寝てるけど、もう少ししたら起こすってさ」
久寿彦はあっけらかんと答えた。
「見てくるか? 蓑虫みたいになってるぞ」
それから、いたずらっぽく片眉を吊り上げる。
久寿彦によれば、マサオは風邪を引かないようにと、ブルーシートで簀巻きにされてしまったらしい。隙間風を防ぐため、くずかごを漁って拾った新聞やダンボールを、シートと体の間に詰め込まれた。川崎と五所川原は、そこらへんのゴミやら草むらに落ちていたエロ本やらも一緒に突っ込んで、ささやかな復讐を果たしていたという。
「でも、何だかんだ言って、今日はあいつ中心に場が回ってた気がするよ」
真一はこの半日を振り返る。騎馬戦の馬を作って池まで練り歩いたり、胴上げや神輿投げをやったり――一連の流れはマサオが作ったと言っても過言ではない。マサオは、みんなに除け者にされつつ、みんなの中心でタクトを振るという、矛盾した奇妙な役を演じていた。そう考えると、彼はやっぱりジョーカーだったのかもしれない。
「ところで、あいつ、お前の知り合い?」
そういえば真一は、マサオについて何も知らない。顔の広い久寿彦なら、何か知っているだろうか。
「知るかよ、あんな奴。松浦たちの仲間じゃないの」
しかし、返ってきたのは、どこかで聞いたような当てずっぽうな答え。
「おいおい、お前、幹事だろ」
「そう言われてもなあ……。宇和島にメンバーの確認を取ったときにも名前が挙がってなかったし……」
困惑する顔に嘘はなさそうだ。
「じゃあ、あいつ何者なんだ?」
「わからん。日中、川崎や野田に訊こうとしたんだけど、なぜか訊きそびれちまったんだよ」
何だか狐につままれたような話だ。こんなことになるのなら、松浦を輿に担いだときに訊いておけばよかった。
久寿彦が言うには、マサオは、真一より一時間ほど早く広場にやって来たそうだ。それでもみんなよりは遅い到着で、気がついたら手酌で酒を飲んでいたという。
「どこかの酔っぱらいが、お前らを仲間だと勘違いして紛れ込んだんじゃないのか」
冗談めかして言ったら、久寿彦は軽く吹き出して、
「かもな」
本当にそうだったら面白い。見ず知らずの酔っぱらいが輪の中に紛れ込んでいたなんて、春の珍事だ。
第二広場に差し掛かったあたりで、会話が途切れた。長身で歩幅の大きい久寿彦に真一は遅れを取り、モッズパーカの背中を追って歩く。
仄かな花明かりを放つ遊歩道は、まだどこか騒然としている。日中歩いていた花見客の気配が消えずに残っている感じ。地面についた無数の足跡がそう思わせるのかもしれない。
この区間は、桜のトンネルがまっすぐ続いていて、見通しがいい。ずっと先まで垂れ込める花の雲から、薄紅色の雪片が絶えず舞い落ちている。地表を染める鹿の子模様もそれらが作ったもの。それにしても、見事な桜並木だ。このままずっと歩いていたくなる。遊歩道は公園を一周しているから、道なりに歩いている限り、花の回廊は永遠に終わることがない。
やがて、一段と華やいだ一角が近づいてきた。第二広場の斜交いに開けた待合広場。小ぢんまりしたスペースに、ペンキをぶちまけたみたいに春の色が氾濫している。中央のツツジにこそ花はないが、広場の外周に沿ってレンギョウ、ユキヤナギ、ボケ、椿などが妍を競い合い、鮮やかな色彩が目に痛いほど。今年は本当に色々な花が咲き揃った。花見に訪れた人たちは幸運だ。
「何か飲んでいくか? おごるよ」
久寿彦が足を止めて振り返る。まっすぐ帰るつもりなら、ここで久寿彦とはお別れだ。久寿彦が働いているレストランは、待合広場から東に向かって進み、森の坂道を下った所にある。
真一は腕時計に目をやる。もうすぐ六時。ホテル時代の先輩と約束した時間は七時だから、時間があるといえばある。
少し考え、やっぱり帰ることにした。コーヒーの一杯でも飲んだら、帰り道が慌ただしくなってしまうだろう。
「んー、今日はいいや。また今度誘ってよ」
黙ってうなずく久寿彦。だが、すぐに別れは告げず、後ろ向きに歩きながら、真一と会話を続ける。
遊歩道から少し逸れたところで、ふと足が止まった。桜の花がなくなったその場所で、空を見上げている。
「もう青春時代も終わりかなあ……」
誰に向けられた言葉でもなかった。あたかも、空に言わされてしまった、という感じだった。
「はあ?」
あまりの脈絡のなさに、真一は片眉を吊り上げる。
「……いや、なんとなく」
久寿彦はバツが悪そうに鼻の下をこすって、そっぽを向いた。ただ、真一に久寿彦を問い詰めるつもりはない。どうせ、大した意味などないだろう。幹事をやった疲れが、今になって出て来たのかもしれない。
「フッ、何だそりゃ。じゃあ、またな」
別れの手を挙げると、前を向いて歩みのペースを上げる。
じゃ、とやっぱり決まり悪そうな声が背中に届いた。
龍神池へと向かう坂を下りつつ、桜並木の合間に覗く暗い水面に目を向けた。瀬戸のような池面を挟んで向き合う二つの山の頂こそ、まだ夕陽に照り映えているが、池畔の景色の大部分はうっすらした闇に沈んで、形や色が判然としなくなりつつある。
対岸の山の麓に点々と連なる雪洞の灯が、池に浮かんだ狐火のようだ。暖色の灯火は、桜の薄紅色や夕闇の青とうまく調和して、夢幻の世界を作り上げた。すべてが中間色で統一された、淡くぼんやりした世界。白色の照明が点灯したときの光景を見たことがないから、おいそれと甲乙はつけられないが、薄暮の桜並木も夜桜に負けないくらい風情があると思う。
坂の終わりで、池を巡る遊歩道と合流した。青い闇が満ち始めた池畔に、いつの間にか人が戻りつつある。夜桜を待つ人々は誰も、どこか落ち着かない様子。祭りの第二幕に期待している心が窺える。
だいぶ大気が冷えてきた。水面に滲む春灯も、寒さで引き締まったかに見える。
スクーターの運転に備えて、ナイロンジャケットのジッパーを目一杯引き上げた。ちょうど入相の鐘が鳴った。公園の外れにある寺で衝かれている鐘だ。
透明な夕空に、さえざえと響き渡っていく。
人々に一日の終わりを告げる音。
前を行く人が足を止めて、空を見上げる。
真一は立ち止まることなく、鐘の余韻に耳を澄ませた。
薄れゆく音が胸に染み渡る。
だが、その音が自分の人生における一つの季節の終焉を密かに告げていることに、真一はまだ気づいていない。
◇◇◇
弁天橋の前を通りかかったとき、島側の橋の袂から眺めた光景が頭に蘇った。
石垣の上に連綿と咲き連なった桜並木。見事な夕焼け色に染まっていた。
風が止んで池の漣が凪ぐと、しんと澄み定まった水面に、写真と見紛うほど精緻な水影が浮かび上がった。
静寂の中に生み落とされた束の間の奇跡。もう一度風が吹けば、跡形もなく消えてしまう。
真一はそのとき、巧まざる芸術作品のたった一人の鑑賞者だった。周りに人はなく、声も聞こえなかった。
凄艶な光景に、思わず息を呑んだ。
咲き誇る桜は、水面の倒影もろともこちらへ迫ってきそうな勢いを感じさせた。空気は張り詰め、水を打ったような静けさの中、無数の花の爆ぜ返る音が木霊している気がした。
そう――
桜の花は、今、まさに、盛りの絶頂にあった。