#73 落とし所

文字数 11,496文字

「申し訳ない……本当に申し訳ない」

「もう言わないでおくれよ……もう言うなよ、リテル」

 エクシ(クッサンドラ)が、エクシの喋り方を再現するべく俺へ会話を要求するのを、マドハトは疲弊した様子で眺めている。
 時折はクッサンドラの死体にも視線を動かしながら。

「結果的には、ただ許してばかりだったおいらの……クッサンドラの行動は、エクシの心の醜さを増しこそすれ、救うことは出来なかった。だから今回の事件はエクシ……俺一人の罪じゃないんだ。俺たち家族の罪だから……だから、俺にちゃんと償わせてほしい。それに……」

 エクシ(クッサンドラ)は天を見上げた。
 森の樹々の枝葉が重なる天蓋から覗く空はもう赤みを帯びている。

「本当だったら、お、俺が生き延びたというのは、やるべきことが残っているからのように感じている。やらなきゃいけないことはたくさんあるよ。宵闇通りのあの子……エリナとの約束を、守らないといけないし」

 宵闇通りのあの子、と言われた時点でチェッシャーのことを思い出し、その後、違う名前が出てきたことにホッとした自分に気付く。

「エリナはね、鼠種(ラタトスクッ)のハリネズミ亜種の半返りの子なんだ。半返りや先祖返り特有のたてがみ(コマ)……背中の毛がね、先祖獣(アンテセッソール)のハリネズミと同様に鋭く尖っていて、それでよくお客に迷惑かけて、周囲の娼婦からも酷く言われて、とにかく自分に自信を失くしていた。誰にも必要されていないって。エクシは……俺は、宵闇通りに行くきっかけは、自分を虐待から守ってくれていた姉を半返りに奪われた腹いせに、半返りや先祖返りばっかりの宵闇通りで娼婦相手に乱暴に支配欲求を満たして心の平穏を保とうとした、そんな恥ずかしい理由なんだけどね。だけどエリナにだけは優しくしてた。多分、エリナに自分を重ねたんだろうね。エリナの方も次第に心を開いてくれて……そうだ。エリナはね、料理が上手なんだ。キッチが作る料理にどこか似ていて……だから約束していたんだ。エリナと、いつかは店をやろうって」

 エリナという子のことを語るエクシ(クッサンドラ)は、幼い頃、自分が見つけた珍しい石とか面白い形のキノコとかをリテルたちに自慢するエクシにすごくよく似ていた。
 リテルがまだ好きだった頃のエクシに。

「……エクシ。そのときは絶対に行くよ」

「ありがとう」

 エクシ(クッサンドラ)はさっきよりかは少し晴れやかな表情になっている。
 エクシにも色々あったんだな。
 だからといってエクシの過去の言動全てを許せるかというと別問題だが、それでもこんな形以外にも「仲直り」の方法はあったかもしれないと考えると、自分のあまりにもの未熟さに胸が締め付けられる。
 ヘイヤのことだって。
 例えエクシ(クッサンドラ)が罪を被ってくれようとも、俺が殺したという事実は消えない。
 償いの方法については俺なりにちゃんと考えていかなければならない。

「皆様、おはようございます」

 ドマースがむくりと起きあがった。
 服の裂け目から見えるエクシのつけた剣傷は、確かに癒えている。

「助けてくださり、ありがとうございます」

「そ、そんな助けただなんて……」

 乱心したエクシの刃が傷つけたのだ。
 それにヘイヤは――思わず言葉に詰まってしまう。

「いえ、そういう話にしてください。これは高度に政治的な話なのです」

 ドマースは俺たち一人一人の顔を交互にじっと見つめる。

「さる偉いお方の名前を明かせぬのと同様に、これは非公式な、いえ、表に出してはいけない話なのです。ここで交戦があったことさえも。つまり私とヘイヤとは魔獣に襲われ、そこを助けていただいた、そういう話にしかなってはいけないのです」

 名の明かせない、しかも政治的な、ということは俺に声をかけたいと言い出したのは、スノドロッフの利権に絡んだクスフォード虹爵(イーリス・クラティア)様と王様側とのやりとりに噛んでいる王様側の人である可能性が高い、ってことか。

「改めてお聞きしますが、リテルさん、貴方は将来的にもっと華やかな場所にてお勤めになったり、貴族に仕えたり、ということへの興味はございませんのですね?」

 答えた記憶はないし、華やかな場所という濁し方も気になるのだが、さっきエクシが叫んだ「交渉の決裂」を前提にしているのだろう。
 まあ実際、断るということについては間違っていない。
 リテルの進路を俺が勝手に決めるわけにはいかないから。

「はい。それについてはエクシの言った通りです」

「ではこの話はこれでおしまいです。ヘイヤの死因は魔獣との交戦、そしてエクシさん、リテルさん、そしてそちらのもうお一方には口止め料を、魔獣との戦いにて私を助けていただく際に倒れられたお仲間さんへの弔い金を上乗せしてお渡しして、何もなかった、ということにさせていただきたいのです」

 これは受け入れるしかないだろう。

「お、俺は、どんな罰でも受けるつもりだ」

 エクシ(クッサンドラ)が食い下がる。

「いえ、エクシさん。その件についてはこちらにも落ち度がございます。貴方へ最初に提示するべき金額が少なすぎました。貴方が宵闇通りへ通うために、フォーリー・アイシス間の定期便の護衛を請け負っていたことも、それだけでは足りずに最近は寿命売りまでなさっていたことも調べあげていたにも関わらず、貴方を満足させられなかったのは当方の落ち度に他なりません」

 エクシは娼館通いのために寿命売りまでしていたのか。
 それほどまでにエリナに入れ込んでいたなんて。

「なのでこれ以上、話を大きくしたくないのです」

 ドマース側の事情も察したが、これは素直に喜べることではない。
 この「黙っていたこと」を理由に、後からカエルレウム師匠や虹爵様にご迷惑をおかけするようなことになってはいけないからだ。
 俺には政治的な駆け引きはわからない。
 ということは、俺だけの判断で丸く収めようとしちゃいけないってことだよね。

「俺についてはお金は要りません。ただ、この件を秘密にする、というご提案を受けるわけにはいかないということを、ご理解ください。俺のこの旅のことについては、お師匠様へ報告することになっておりますので。それに誤解があったとはいえ、ヘイヤさんとの件についても」

「リテルさまがいらないなら、僕もいらないです!」

 マドハトが俺の言葉を遮る。

「い、いえいえ、そこまで拒絶されると……私の方も……というのも私は一人でここへ置いてゆかれても困るのです。戦闘に長けたヘイヤが居たからこそ、ここまで二人だけで来られたのです。ぜひとも次の……あなた方が寄られる町まで連れて行っていただきたいのです」

 理屈はわかるけれど、次の町でもしもヘイヤの死について尋ねられたら、という不安もある。
 魔法で嘘がわかるらしいこの世界では、口約束で終わりにするわけにはいかないだろう。

「……どうしたら信頼していただけるでしょうか。貴方がたがその気ならば私のことも野盗だと決めつけて切り捨てることもできるでしょう。私とて自分の安全を確保したいのです。さりとて私には後で渡せるお金くらいしか……あっ、そうだ。私の魔法を覚えていただけませんか? 魔法を魔導合一(クーペランテ)で教えるのは双方の信頼がないとできません。戦闘時に使う魔法でなければ、戦闘中に触れて覚えたわけではないとの証明にもなりますし」

 立場的に被害者であるはずの向こうがそこまで必死になられると、余計に怪しさが募る。
 いや、立場的に俺はそんなこと言えるご身分じゃないのだけど。
 もしもそこで変な――チェッシャーが使ったような魅了系の魔法でも使われようものなら、俺の意志に反して彼らに協力してしまう恐れだってあるから。

「おいおい。水汲みにどんだけかかってんだい」

 メリアンの声。
 その声は明るいが、寿命の渦(コスモス)には警戒の雰囲気を感じる――というか、そういう雰囲気を出して威嚇しているのかも。
 メリアンの傍らにはルブルムとレムまで居る。
 馬車(ゥラエダ)に残っているのはロッキンさんだけか。

「なんだい。色々と面倒臭いことになってそうだな」

 クッサンドラとヘイヤの死体、そして両手を挙げて敵意のないことを示しているエクシ(クッサンドラ)
 俺やマドハトも泥や血で汚れている。
 そもそも一人死んでいる時点で隠すことなど無理だっただろう。
 俺とエクシ(クッサンドラ)とが状況を説明し、ドマースが補足するという形で、マドハトの用いた『取り替え子』以外のほぼ全てをルブルムたちへ話し始めた。
 ドマースはエクシの中身がクッサンドラになっていることに気づいてはいない様子だが、メリアンたちはどうだろうか。
 ルブルムには当然後で話すつもりではいたが、レムやメリアンにはどこまで話していいのかいつも迷ってしまう。



「状況は把握した。ルブルムはどうだい?」

 メリアンがルブルムに尋ねると、ルブルムは「わかった」と短く答えた。
 結局、ヘイヤとクッサンドラの死については「魔獣に殺された」ということで合意した。
 ドマースにとってはこの交渉自体を秘密裏に行わなけらばならない約束らしく、メリアンが早々に「虹爵と交渉をなされたお方以外にいらっしゃらないだろ」と「さる偉いお方」を指摘してしまったせいで、交渉は終始こちらのペースで進んだ。
 一応、ドマース的には、上昇指向の強いエクシに食いつかせるのに「王都での働き口をご紹介できる」という提示と、「さる偉いお方」という表現は分けて使用していたのだが、エクシの中では短絡的に結びついてそのような表現になってしまった、というのが原因のようだ。
 ただ、これをぶっちゃけられたことでドマースの必死さの裏付けができて、変な探り合いなしに交渉ができたのは良かった。

 決まったのは、次の町ニュナムまでドマースを乗せてあげること、俺がドマースから魔法を教えてもらうこと、口止め料を兼ねた「魔獣からの救出のお礼」をニュナムにて支払うことなど。
 カエルレウム師匠へ伝えることについては、ルブルムが「寄らずの森の魔女」という名前を出した時点で、ドマースの表情が諦めに変わった。
 寄らずの森の魔女は政治に興味がなく、自分の興味がないことについては例え国王の誘いであっても乗らない、ということは王国内の貴族や魔術師であればかなりの者が知っていることらしい。

「さすが、寄らずの森の魔女様のお弟子さんたちです」

 どうやらその事実を持ち帰れば、交渉に失敗したことについてそう大きくは責められないだろうとのこと。
 また、クッサンドラの死については、ニュナムにてエクシ(クッサンドラ)自身が連絡する、ということに。
 ちなみに肝心の魔獣については、人を殺すほどの危険な魔獣を取り逃がしている場合、捜索隊が用意されることもあるとのことなので、もしも尋ねられた場合はクー・シーとクリップとに犯人役になってもらおうということになった。
 ロッキンさんにも後でそう説明することにした。

 領をまたいでの旅人については、町への出入りはしっかり確認するものの、そのうちの一人が帰ってこないことを厳密に追求したり捜索したりということはないそうだ。
 それだけ町の外における平時の危険度が高いということなのだろう。

 クッサンドラ(エクシ)とヘイヤの死体については、死亡届けの代わりに胸元の実績紋の部分のみを切り取り、あとは死せる旅人(ヴィエートル・モルトス)となってもらうべく、穴を掘って埋めた。
 穴を掘るとき、ドマースたちが座っていた折りたたみ椅子をバラして道具として使ったが、こんなに穴を掘るのであれば、シャベルのような道具を作って馬車(ゥラエダ)に積んでおいても良いかもしれない。
 ちなみにドマースたちが使っていたあのテーブルについては、ドマースの魔術『憂鬱な食卓』の中で作られた幻影だったようで、椅子やドマースたちの荷物を取りに行ったときにはもう消えていた。

 実績紋の切り取りと埋葬とを済ました後で、ようやくロッキンさんとも合流した。



 穴を掘っている間は少し抑えられていた罪悪感が、食事の時間になると再び戻ってくる。
 自分や自分の大切な人が殺されたとしたら、勘違いでしたなんかじゃ済まされない。
 ドマース曰くヘイヤは「家族とはとっくに音信不通」だから、誰かに伝える必要もないと言ってはくれたが、そういうことではやりきれない気持ちがこの胸の中に確かに存在する。
 唯一、ディナ先輩だったら「当然の行いだ」と言ってくれそうなのが救い。
 そうなんだよね。
 次に同じような状況になったとき、俺がこの一件を思い出してためらったら、そのせいでリテルやルブルムの命が失われてしまうかもしれないもんな。
 頭ではそれが理解できていても、自分の中にどこか納得できない気持ちが居座り続けている。

「よくあることさ、戦場では。善も悪もない。味方か、そうじゃないか、だけ」

 メリアンに急に肩を叩かれた。

「向こうが腹の中で本当は何考えてたか、なんてのは誰にもわからないさ。もしもそのとき身を守らないでいたら、殺されていたかもしんないんだ。それに戦場ではな、かつての味方が今は敵ってのもその逆もよくあるんだ。それでもいちいち手心なんて加えないぜ? いつだって自分が生き延びる道を探し続ける。後悔しても戻らないものに心をつかまれちまうとな、死んじまったあと、死に忘れになっちまう」

「死に忘れ?」

「ああ。寿命が残っているうちに死ぬとな、肉体と離れた魂に残っている寿命が引っ付くんだ。そんな魂のうち、未練を抱えたままなやつのことを戦場ではそう呼ぶんだよ。死に忘れは時としてそこいらの死体やら武器やら何やらに取り憑いてゾンビー化することもあってね」

 肉体を失った魂と残っている寿命の渦(コスモス)とがくっついたモノのことは確か「アニマ」と呼んだはず。
 すると死に忘れ(アニマ)ってことになるのか。
 しかもゾンビーの材料になるとか――俺の魂がこの体から出た後についてはまだ何も考えがなかったけど、ゾンビーと同じような方法を使えば最悪この世界では消えずに留まることができるかもしれない。
 そうすれば、少なくともリテルをこういう危険な旅に巻き込まずに済むし、何よりケティも喜ぶはず。
 僅かでも希望は心を回復してくれる。
 殺さなくても良かったかもしれない人を殺したという事実にはまだまだ向き合い続けなきゃいけないけれど、それでもリテルの未来のために前へ進もうという気持ちにはなれる。

「リテル」
「お兄ちゃん」

 ルブルムとレムが俺の両腕をそれぞれ左右から抱き込んだ。

「生きていて良かった」
「生きててくれてありがと」

 二人の優しさに涙がこぼれそうになる――のを、ぐっと堪える。
 今の俺にはやらなきゃいけないことがあるし、将来的にやらなきゃいけないこともある。
 罪は消えないが、それを理由に現在と未来の大切なものから目を背けてはいけない。
 今の俺は紳士には程遠いけれど、みっともなくとも泥臭くともいいから足掻いて、優先すべきことを一生懸命頑張るべきなんだ。

「いや、こちらこそ、ありがとう」

 予定は大幅に遅れているんだし、いつまでも呆けているわけにはいかない。
 食事が終わったら急いで片付けだ。
 もう日が暮れかけている。
 早くラビツたちに追いつかなければ。
 双子月は半月を過ぎ、かなり欠けている状態。それでも二つあるせいか、地球の満月とそんなに変わらないくらいの明るさはある。

「悪いけどお勉強はなしだ。多少荒くなるから、舌を噛まないよう注意してくれ」

 メリアンが御者席へと座る。
 お勉強というのは、ここまで交代で御者をしていたことだろう。
 エクシ(クッサンドラ)とロッキンさんも交代で馬車(ゥラエダ)に乗り込み、二人を乗せていた馬たちも交互に荷物なしで走ってもらうことにする。
 そして俺はドマースから魔法を習う。
 万が一を考えて、俺が魔法を教えてもらっている間はルブルムとレムには起きていてもらっている。

「まず、最初にお教えするのが『腐臭の居眠り』という魔法です。さきほど、クッサンドラさんとヘイヤの肉片にかけたものです。この魔法は、死んでいる一塊の肉を眠らせることで、一回かけると数ホーラ(時間)から一晩くらいは鮮度を保つ効果があります。獣種の遺体を対象にするのは大きすぎて無理ですが、小さな獣であればまるごと大丈夫です」

 実際に魔法を使ってもらうと、その思考や構造が理解できる。
 魔法代償(プレチウム)が二ディエスで、効果としては「腐敗」を眠らせる。
 これはベイグルさんから教えてもらった『遠回りの掟』と同じような考え方。俺もなんとなく慣れてきた。
 そして効果時間だが、これが興味深い。
 「月にまかせて」という思考。
 地球の言葉に直すと「運を天にまかせて」みたいな感じ。月齢が日毎変わるように、時の流れに身をまかせる、みたいな。
 最小は二ホーラ(時間)で最大は半日ほど。要はランダムな効果が得られるみたい。平均値の時間を確保するよりかは低コストで魔法を構築できるっぽい。
 魔法代償(プレチウム)を減らすのにこんなやり方があったなんて。
 それにこの効果時間がランダムというのが、丈侍たちと地球で遊んでいたTRPGを思い出させる。
 ゲーム用語的に言うならば効果時間は2d6ホーラ(2~12時間)と言ったところか。十進法で、だけど。

「もうひとつは『目覚まし』です。王都の大広場にある水時計に着想しました」

 『目覚まし』の魔法構成は、水ではなく時間が入る大きな瓶を用意し、そこに時間が貯まると、時間が溢れて瓶がひっくり返り、その瓶が鐘になっていて脳内に音が鳴り響く、といったものだった。
 瓶の大きさは、魔法発動時点で一ホーラ(時間)から十ホーラ(時間)までの各段階を選ぶことができるとのこと。こっちは十二進数で。

「ありがとうございます」

 礼を言うと、ドマースは少し照れくさそうにする。

「私が自分で作った魔法は睡眠に関わるものばかりなんですよ」

 そして自身の生い立ちを勝手に語り始めた。
 彼はもともと貴族の出身だったが十男で、末っ子なのに優しくされた経験もなく、毎日の学習の成果を発表させられ、彼の不出来を引き合いに自分の上の兄弟たちを褒め称えるという引き立て役にしか扱われてこなかったという。
 彼にとっては食卓というのは憂鬱な場に他ならず、食卓に着くと眠くなるのはそのせいらしい。
 食卓の幻影を見れば見るほど眠くなるという『憂鬱な食卓』という魔法は、この経験がもとで作られた魔法だという。
 かつてこの『憂鬱な食卓』を魔術師仲間に教えたことがあったが、その人にとって食卓というのは幸せな場であり、その考え方の違いのせいで、魔法が発動しなかったという。

 自分にしみついている思考は、例え他者に魔法を教えたとしても使用ができない、というのは魔法を奪われるかもしれない近接戦で魔法を使用せざるを得ないとき、約に立つかもしれない。
 例えば十二進ではなく十進で思考して魔法を組み立てれば、それを相手に読み取られても使えそうで使えない魔法になりはしないだろうか。

 思考を魔法の構成に向けると集中できる。
 ドマースの自分語りは、親兄弟と縁を切り、家を出て魔術師の道へ進んだところまでさしかかっていたが、ぼんやりするとすぐに頭に浮かんでくるヘイヤのことから逃げるように、俺は魔法のことばかり考え続けた。



 日が昇り、沈む。
 アイシスからニュナムまで普通に馬車(ゥラエダ)で走れば五日の行程だが、三箇所目の共同夜営地「ニュナム二・アイシス三」には二日目の夜遅くに到着した。

「今夜はここでしっかり休もうと思う」

 夕飯の準備をする前に、メリアンがそう言い出した。

「特にリテル。ちゃんと寝ろ。無理して起き過ぎだ。クッサンドラが居ない今は、ルブルムとリテルが交代で索敵を担当しているだろう。自分の状態を管理するのも大事なことだ」

「すみません」

「謝ることじゃない」

 また「すみません」を言おうとして言葉を飲み込む。
 元の世界でもこの世界(ホルトゥス)でも、日本人は謝り過ぎなようだ。

「あの、皆さん! 今夜の夕食には私の食材を提供いたしますよ!」

 ドマースが長い布に巻かれた塊肉を出してくる。
 『腐臭の居眠り』をちょくちょくかけることで鮮度を保っているという。

「何の肉だい?」

 メリアンが尋ねると、ドマースは笑顔で答える。

「ウサギです」

 ヤバい。
 ヘイヤを思い出す。
 というか、先祖返り……頭部はほぼまんまウサギのヘイヤと一緒に行動していたドマースは、平気なのか?
 遺体の埋葬を一緒にしたのだって昨日の夕方のことだろ?

「あたしはいらないよ。身内に鼠種(ラタトスクッ)の兎亜種が居てね」

「私も。妹が鼠種(ラタトスクッ)の兎亜種だから」

 メリアンとルブルムが辞退する。
 様々な獣種が居るこの世界(ホルトゥス)では、肉に関しては基本的に自分の先祖獣(アンテセッソール)は食べないのが普通だが、身内に居るからというパターンもあるのか。
 「先祖食い」をする人は珍しい、みたいなことを前にメリアンだかが言っていたから、全く居ないというわけではないようだけど。
 ちなみに先祖食いの回避は個人の問題なので、同じ鍋に入れたりしない限りは横で食べることについて特に何も言われない、とも聞いている。
 俺の場合、そういった肉食事情とは全く関係なく、目を閉じればあの生々しいヘイヤの死体が浮かんでくるせいで今は食べられないのだけれど。

「申し訳ないです……俺も……今はまだ肉は食べられそうにないです」

「しょうがないなぁ。私もお兄ちゃんに付き合ってあげるよ?」

 ドマースの兎肉は切り分けて枝に刺し、鍋をかけた火の周りで炙り、ドマース、マドハト、ロッキンさん、そしてエクシ(クッサンドラ)の四人だけが食べた。

「確かに新鮮ですね」

 ドマースが貴族出身であったことを明かしてからは、同じ貴族の非長男として苦労をしてきたらしいロッキンさんがやけに彼に優しい。
 一人だけ事情を知らないこともあるのだろうけど。

「肉を食べてない人は多めに具を取ってね」

 鍋の具は人参とジャガイモで、今回の味付けはレムが担当。
 いつもは物足りなさを感じる薄い塩味が、この優しい味が、今夜はやけにありがたい。





● 主な登場者

有主(ありす)利照(としてる)/リテル
 猿種(マンッ)、十五歳。リテルの体と記憶、利照(としてる)の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
 ゴブリン用呪詛と『虫の牙』の呪詛と二つの呪詛に感染。レムールのポーとも契約。とうとう殺人を経験。

幕道(まくどう)丈侍(じょうじ)
 小三から高一までずっと同じクラスの、元の世界で唯一仲が良かった友達。交換ノベルゲームをしていた。
 彼の弟、昏陽(くれひ)に両親も含めた家族四人全員が眼鏡使用者。一緒にTRPGでも遊んでいた。

・ケティ
 リテルの幼馴染の女子。猿種(マンッ)、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
 リテルとは両想い。フォーリーから合流したがリテルたちの足を引っ張りたくないと引き返した。ディナ先輩への荷物を託してある。

・ラビツ
 久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
 アイシスでもやはり娼館街を訪れていて、二日前にアイシスを出発していた。ギルフォドへ向かっている可能性が大。

・マドハト
 ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、今は犬種(アヌビスッ)の体を取り戻している。
 元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。変な歌とゴブリン語とゴブリン魔法を知っている。地味に魔法勉強中。

・ルブルム
 魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種(マンッ)
 魔法も戦闘もレベルが高く、知的好奇心も旺盛。親しい人を傷つけてしまっていると自分を責めがち。

・アルブム
 魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種(ラタトスクッ)の兎亜種。
 外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。

・カエルレウム
 寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種(マンッ)
 ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。

・ディナ
 カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去がある。
 アールヴを母に持ち、猿種(マンッ)を父に持つ。精霊と契約している。トシテルをようやく信用してくれた。

・ウェス
 ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種(カマソッソッ)
 魔法を使えないときのためにと麻痺毒の入った金属製の筒をくれた。

・『虫の牙』所持者
 キカイー白爵(レウコン・クラティア)の館に居た警備兵と思われる人物。
 呪詛の傷を与えるの魔法武器『虫の牙』を所持し、ディナに呪詛の傷を付けた。フラマの父の仇でもありそう。

・メリアン
 ディナ先輩が手配した護衛。リテルたちを鍛える依頼も同時に受けている。ラビツとは傭兵仲間。
 ものすごい筋肉と角と副乳とを持つ牛種(モレクッ)の半返りの女傭兵。知識も豊富で頼れる。

・エクシあんちゃん
 絶倫ハグリーズの次男でビンスンと同い年。ビンスン、ケティ、リテルの四人でよく遊んでいた。犬種(アヌビスッ)
 父による虐待により歪み、妬みからリテルを襲い、自身が傷つけたクッサンドラの体に『取り替え子』で入れられ、死亡。

・エリナ
 鼠種(ラタトスクッ)のハリネズミ亜種の半返りの娼婦。半返りや特有のたてがみ(コマ)に棘がある。
 エクシに優しくされ、心を開いた。料理上手。いつかエクシと一緒に店を開く約束をしている。

・エクシ(クッサンドラ)
 ゴド村で中身がゴブリンなマドハトの面倒をよく見てくれた犬種(アヌビスッ)の先祖返り。ポメラニアン顔。
 クスフォード領兵であり、偵察兵。若干だが魔法を使える。マドハトの『取り替え子』により現在、エクシの体に入っている。

キッチ
 誰にでも優しく愛されていたエクシの姉。ハグリーズからエクシへのDVを止めてくれていた。
 リテルとリテルの兄ビンスンの初恋の人。結婚を機にゴド村へ移り住み、クッサンドラにも優しくした。

・アーレ
 マドハトの兄。キッチを嫁にした犬種(アヌビスッ)の半返り。

・レム
 爬虫種(セベクッ)。胸が大きい。バータフラ世代の五人目の生き残り。不本意ながら盗賊団に加担していた。
 同じく仕方なく加担していたミンを殺したウォルラースを憎んでいる。トシテルの心の妹。現在、護衛として同行。

・ウォルラース
 キカイーがディナたちに興味を示すよう唆した張本人。過去にディナを拉致しようとした。金のためならば平気で人を殺す。
 ダイクの作った盗賊団に一枚噛んだが、逃走。海象種(ターサスッ)の半返り。

・ロッキン
 名無し森砦の守備隊第二隊副隊長であり勲爵(エクウェス)。フライ濁爵(メイグマ・クラティア)の三男。
 現在はルブルムたちの護衛として同行している。婚約者が居て、その婚約者のためにヴィルジナリスの誓いを立てている。

・チェッシャー
 姉の薬を買うための寿命売りでフォーリーへ向かう途中、野盗に襲われ街道脇に逃げ込んでいたのをリテルに救われた。
 猫種(バステトッ)の半返りの女子。宵闇通りで娼婦をしているが魔法を使い貞操は守り抜いている。リテルに告白した。

・ヘイヤ
 鼠種(ラタトスクッ)の兎亜種の先祖返り。茶色い夏毛の兎顔。身なりのよさそうなコート、動きやすさ重視の軽革鎧。
 膝までのブーツ、胸元に蝶ネクタイ。ドマースに同行していた武闘派だが、リテルの過剰防衛により死亡。身内はいない。

・ドマース
 鼠種(ラタトスクッ)先祖返り。ハムスター似。貴族の十男だった魔術師。身なりのよさそうなコートに蝶ネクタイ。
 スノドロッフの住民拉致事件の関係者に接触を図ったが、エクシへのアプローチに失敗。次の町まで同行。

・レムール
 レムールは単数形で、複数形はレムルースとなる。地界(クリープタ)に生息する、肉体を持たず精神だけの種族。
 自身の能力を提供することにより肉体を持つ生命体と共生する。『虫の牙』による呪詛傷は、強制召喚されたレムールだった。


■ はみ出しコラム【時計】
 ホルトゥスにおける時計について説明する。

・機械時計
 以前のはみ出しコラム【砦の指揮系統】にて軽く触れたが、ホルトゥスにおいては脱進機付きの振り子式時計が使用されている。
 こちらについては砦時計のほか、大きな町の大広間や、貴族の居住施設などにも設置されている。
 ちなみに機械時計の回る向きは地球と同じだが、「時計回り」という表現は一般的ではない。

・水時計
 上下水道設備の整った都市部において、水を用いた水時計が設置されているところもある。
 王都キャンロルの水時計は、単なる時計としての用途に留まらず、一定時間ごとに人形が現れて動くなどのギミックが施されており有名。

・日時計
 地方の農村部などにおいては、日時計が用いられている。
 晴れていないときには使えないが、人々は日の出や日の入りを基準にして行動しているため、時刻をもとに行動することもなく、特に困ってはいない。

・砂時計
 「スクール」と呼ばれる学校的な場にて講義が行われるときに用いられる時計。
 二回ほどひっくり返して約一ホーラ(時間)という、地球でいう二十分計が一般的。
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