#12 押しかけ従者

文字数 6,212文字

 マドハトという名を取り戻したコーギー頭の少年は、嬉しそうな顔で俺に向かって飛びかかってきた。
 嬉しそうな表情。その姿がハッタと重なった。まだゴブリンのときでさえも似ていると感じていたのに、この顔、この表情、なんかもう、ハッタだとしか思えなかった。

 ハッタがうちに来たのは俺が中一、英志(ひでし)が小六の、寒い冬の夕方のことだった。
 英志が学校からなかなか帰ってこない、ピアノの時間に遅れる、って母さんがオロオロしてたあの日。ようやく帰ってきた英志は一匹の子犬を抱えていた。
 返してきなさいと、母さんはそう言うだろうなと俺は傍観していた。その半月くらい前に俺が拾ってきた芝っぽい雑種の仔犬が、そういう運命だったから。
 だけど、そのコーギーの仔犬は飼われることを許された。純血っぽい。そんな理由で。
 でも俺は知っている。雑種が却下されたのは俺が拾ってきたからで、ハッタが許可されたのは英志が拾ってきたからだってこと。
 俺はそのコーギーに、母さんに、英志に、憎しみにも似た黒い感情を覚えた。でもそんな感情は、そのときが最初ってわけじゃない。うちは子どもにバイオリンとピアノを習わせる方針なんだけど、姉さんや英志が「将来有望」なのに対し、「でも楽しんではいるみたいですよ」な俺は、早々にバイオリンもピアノも辞めさせられた。
 丈侍(じょうじ)の家で遊んで遅くなっても注意されたことはないし、徹底して無関心な母さんと、家の事にはいっさい構わない父さん、こんな簡単なこと何でできないのといつもバカにする姉さんと、お稽古ごとで忙しいからと自分で拾ってきたくせにハッタの世話を全部俺に押し付けた英志。うちの家族の中で、俺だけ「どうでもいい子」だった。

 なのに、母親はその仔犬の世話を俺に押し付け、ピアノ教室へと英志を送っていった。こないだ犬を飼いたいなんて言ったくらいだから世話ぐらいできるでしょ、なんて言われて。
 捨ててやろうと思った。こないだ雑種が捨てられていた同じ場所に。でも、手の中で震える仔犬と目が合って、その弱々しい顔を見て、気がついたらバスタオルでくるみ、じいちゃんからもらった麦わら帽子の上に乗せていた。
 すぐに犬の飼い方をネットで調べて、いろいろ世話を焼いた。
 そのおかげか、英志がハッターと名付けたそいつは、俺に一番よく懐いた。まったく世話をしない英志の名付けた名前で呼ぶのが嫌で、こっそりハッタと呼んでいた。
 ハッタはいつも全力で俺に突撃してきた。どちらかというとバカ犬だった。でもそれが可愛くて、どんなに顔を舐められても俺はハッタを抱きしめた。

 あの家で、唯一の家族だった――だったんだ。俺が高等部に進学する直前に、ハッタは突然その生涯を閉じたから。
 最期に連れて行った動物病院には珍しく英志がついてきた。塾をサボってまでも。
 二人で聞いた医者からの言葉は、いつ思い出してもつらいものがある。この子は病気だった。生まれたときからだろうって、だから捨てられたんだろうって、そう言われた。
 病気だとわかったら捨てるなんて、なんだそいつは、って、めったに感情を見せない英志が怒ってた。意見が合うなんて初めてだ……と思ったのは最初だけ。
 俺、気付いたんだ。俺もだってこと。
 才能ないから今の家族から捨てられているようなもんじゃないか、という言葉を飲み込んで、その夜は自分の部屋に戻ってから一人で泣いた。

 俺はマドハトを抱きしめていた。
 顔も舐められるままに受け入れた。

「良かったな。マドハト」

 お前は、半成人を超えた年で病気がちで働けないでいるのに、家族に見捨てられないで。

「リテルさまっ!」

 ハッタが喋ったからギョッとした。
 いや、ハッタじゃないんだよな、こいつは。

「僕はっ! リテルさまのおかげで! 元の体、戻れたですっ!」

 ピョンピョン跳ねて喜ぶ元ゴブリン。

「ま、待てよ。お前が元に戻れたのは、カエルレウム様のおかげだろ?」

 『取り替え子』が元に戻れるなんて、きっとカエルレウム様が何かしたに違いないから。

「リテルさまとカエルレウムさまのおかげです!」

 待てよ? こいつ『取り替え子』だったときの記憶があるのか? となると、俺とリテルの状態も……もしも俺がリテルの体から抜け出ることができても、俺は、この気持や、魔法に関するあれこれを忘れないでいられるってこと?
 というか、名前を教えられる前に知ったということは、犬種(アヌビスッ)の体の記憶も取り戻しているよな――ああ、リテルにいつか体を返したときのために、やっぱり俺は紳士でいなければならないと改めて心に誓った。

「リテル、早く来るのだ」

 カエルレウム様の声で我に返る。
 カエルレウム様とルブルムはもう家の外に居た。
 ルブルムは逆手で片腕のゴブリンの首根っこをつかみ、肩に引っ掛けるようにして背負っている。ゴブリンも目は覚ましたようだが、大人しくしている。
 俺は元ゴブリンのマドハトとその家族とに頭を下げ、カエルレウム様たちの後を追った。

 ゴド村の門の外では、鹿の王様が待っていてくれた。
 帰りはゴブリンをつかんだルブルム、カエルレウム様、そして俺という順番で鹿の王様の背にまたがる。そこへ何かが飛びついてきた。マドハトだった。

「母さんに言ったです! リテルさまの見習い、するです!」

 ちょ、ちょっと待って。リテル自身だってまだ見習いだってば。狩人見習いとしてマクミラ師匠についてからまだ三年も経ってない。
 ケティに十五歳の誕生日まで待ってと言ったのは、狩人として独り立ちできるほどの見込みがあるかどうか見極めてからってリテルが考えていたからであり、実際にはまだ準成人として認めてもらえてもいない。

「俺だってまだ見習いだっ」

 と言い終わらぬうちに、鹿の王様は夜の中へ駆け出した。
 マドハトが俺の足にしがみつく手は弱々しい。そういや月の半分は寝たきりなんだっけ。そのままにしておくわけにもいかず、俺は膝の上にマドハトを引っ張り上げた。

「そうだな。リテルはもう見習いだな」

 マドハトではなくカエルレウム様がそう答えてくださる――それって、魔術師としても、ということなのかな?
 でも、それはありがたい。
 リテルの体から俺が抜け出たら、狩人としての技術や鍛えた体はリテルの方に残っても、俺には何もない。こちらの世界(ホルトゥス)には、家族も仕事も帰る家も友達も何もないんだ。それならば、肉体的な技術ではなく精神的な技術を磨いて、新しい肉体に移ってもその後生きていけるように今から学ぶ必要がある。魔術師ならば、それが可能な気がする。

「よろしくお願いします」

 カエルレウム様――カエルレウム師匠の背中に、見えてないだろうけど頭を下げた。
 それから『発火』と『生命回復』を交互に練習する。
 おかげで随分と寿命の渦(コスモス)のコントロールがなめらかになったように感じる。
 俺がそんなことをしているせいか、マドハトまで寿命の渦(コスモス)の操作の練習を真似し始めた。それがけっこう上手なんだよな。対抗意識ってわけじゃないけれど、俺も練習に身が入った。



 鹿の王様の速度が突然緩んだ。
 しかもこの凄まじい悪臭……酷いったらない。なんだこれ。呼吸を止めたくなるほどの……何?
 慌てて『魔力感知』をする――あれ?
 カエルレウム師匠の寿命の渦(コスモス)が見えない――のはさっきもだったけど、今度はルブルムさんの寿命の渦(コスモス)までかなり小さくなっている?
 どういうこと?

「あの……カエルレウム師匠とルブルムさんの寿命の渦(コスモス)……『魔力感知』でうまく見えなくて……」

 どこかでやり方を間違えてしまったのだろうか?

「リテル、なぜだと思う?」

 この臭い――リテルの記憶から、血の臭いだとわかる――だとしたら。
 こちらが風下から近づいているということ。

「……相手が……寿命の渦(コスモス)を見ることができる相手だったとき、こちらからの接近がバレないように、ですか?」

「そうだ。よく自分でたどり着いたな。偉いぞ。いいかリテル。魔術師は、自分で考えることを諦めてはいけない。常いかなる時も、思考を手放したりせぬようにな」

「はい」

「はいです」

 なぜかマドハトまで返事をする。
 でも魔術師……そうか魔術師か。胸がじわりと熱くなる――ということはさ、俺もできるってことだよな。全く見えないカエルレウム師匠のは最終的な目的として、まずはルブルムさんの小さい方を真似してみよう。
 寿命の渦(コスモス)を小さく小さくまとめてみる――のは、集中力が必要な上に集まってより明るくなったように感じる。ただ集めるんじゃダメなんだ。
 血の臭い。動物の解体経験もあるリテルの体はまだ耐えてはいるが、けっこうな集中力の阻害になる。というか俺、限界が近いかも――カエルレウム師匠の背中に、鹿の王様の背中に、マドハトの真上に、ぶちまけるわけにはいかない。
 限界が来る前に、俺は鹿の王様の背中から、そっと降りた。だがマドハトまで降りて寄ってくる。いやちょっと今は近づいてくるなって――マドハトは俺の右足にしがみついて、小刻みに震えている。
 尻尾も股の下に丸まって……ここはハッタと違うとこだな。コーギーは生後間もないうちに断尾されることが多いらしく、ハッタも尻尾はほとんどなかったから。

 ん?
 向こうの方。風上に同じ種類の寿命の渦(コスモス)を複数感じる。大きさと動きからすると動物で、地面の高さからすると狼くらいの大きさか。
 この血の臭い、もしかして誰かが狼に?
 だとしたらこんなところで悠長に吐いたりしている場合じゃない。嘔吐感をぐっと飲み込み、弓の準備をする。

「リテル。私が許可するまで射るな」

 カエルレウム師匠とルブルムさんも鹿の王様の背中から降りた。声もそれほど小声ではない。しかも無造作に近づいてゆく。
 俺も慌てて追いかける。
 十アブス(三十六メートル)も歩かないうちに、壮絶なその現場へと到着した。

 数えるのもイヤになるほどの無惨なゴブリンの死体の数々と、それぞれの死体から血をピチャピチャ舐めている何体かの狼と――何人もの犬種(アヌビスッ)の狼亜種の女性?
 でもなんでゴブリンの死体から血を? またアルティバティラエか?
 反射的に弓を握る左手に力が入る。

「リテル、敵意を見せるな。あれはモルモリュケーだ」

 モルモリュケー――狼の乙女――リテルの記憶にその単語があった。





● 主な登場者

有主(ありす)利照(としてる)/リテル
 猿種(マンッ)、十五歳。リテルの体と記憶、利照(としてる)の自意識と記憶とを持つ。
 リテルの想いをケティに伝えた後、盛り上がっている途中で呪詛に感染。寄らずの森の魔女様から魔法を習い始めた。

英志(ひでし)
 有主利照の実の弟。音楽の才能もある。ハッタを拾ってきたあたりから当たりが強くなった。

・ハッタ
 英志が拾ってきたコーギーの仔犬だが、利照が面倒をみていたので利照にとても懐いていた。
 利照が高校へ入学する前に天へと召された。

・ケティ
 リテルの幼馴染の女子。猿種(マンッ)、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
 リテルとは両想い。熱を出したリテルを一晩中看病してくれていた。

・エクシあんちゃん
 リテルの幼馴染の男子。犬種(アヌビスッ)、十八歳。二年前より領都フォーリーで兵士として働いている。
 イヤミが多いのが玉にキズだけど腕力はある。ケティのことを好き。姉がゴド村に嫁いでいる。

・ラビツ
 久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。

・マドハト
 ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、とうとう犬種(アヌビスッ)の体を取り戻した。
 ゴブリン時代にリテルに助けられたことを恩に感じ、リテルについてきた。

・ゴブリン
 ゴド村のマドハトと魂を入れ替えられていたゴブリン。
 犬種(アヌビスッ)の体に宿っていたとき病弱だったのは、獣種よりもゴブリンの方が短命だったため。

・ルブルム
 魔女様の弟子と思われる赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種(マンッ)
 リテルとマクミラ師匠が二人がかりで持ってきた重たい荷物を軽々と持ち上げた。槍を使った戦闘も得意。

・カエルレウム
 寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種(マンッ)
 魔法の使い方を教えてほしいと請うたリテルへ魔法について解説し始めた。ゴブリンに呪詛を与えた張本人。

・鹿の王
 手を合わせて拝みたくなるような圧倒的な荘厳さ、立派な角、存在感の大きな鹿。
 リテルたち四人を乗せても軽々と森を駆け抜ける。

・アルティバティラエ
 半裸に申し訳程度に白い布をまとい、怪我をした髪の長い獣種の姿に擬態して近づいてきた魔物。
 人を捕食する。数日前、カリカンジャロスと共に異門(ポールタ)を越えてきたっぽい。

・モルモリュケー
 ゴブリンの死体に群がる狼に混じり血をすすっていた、一見すると犬種(アヌビスッ)の狼亜種の女性。
 狼の乙女。リテルはその名を知っている。



■ はみ出しコラム【トイレ事情】
 ホルトゥスにおいては、糞尿は肥料として大切にされている。
 そのため農村部においては一般家庭にはトイレはなく、村に共同のトイレが設置され、そこで集められた糞尿を畑にて肥料として活用するのが一般的である。
 農村部のトイレは汲取式であり、大きく男女兼用、女性専用の二種類に分かれている。
 これは女性の場合、時期によっては糞尿に経血が混ざることがあるためであり、ホルトゥスの農村においては、家畜を屠蓄した際、その血液をも大切に使う(血のソーセージなどがある)ことから、経血入りの糞尿を通常の糞尿よりも「より生命の力が宿った肥料」として重宝する。
 畑で催した場合、わざわざ共同トイレまで足を運ばず、土を掘って埋めるのが一般的である。

 都市部においては、肥料用の公共トイレは存在するが、使用人を雇えるような中層以上の屋敷においては、各屋敷毎にトイレを持つことも少なくない。
 屋敷トイレの場合、その部屋にはトイレとして使用する陶器の容れ物が幾つか置かれ、その中に用を足し、普段は蓋を閉じておく。肥料を買い取りに業者が来た際にはそれを外へと持ち出し、中身を受け渡し、またトイレ容器を部屋に戻す。

・匂い消し
 屋敷トイレを有する屋敷の持ち主が裕福である場合、「香り粉」や「香水」をトイレに持ち込んで使用する場合も少なくない。
 「香り粉」とは、植物などを乾燥しすり潰した粉状のお香で、これを用いる場合は台所より炭の欠片をもらい、トイレへと持ち込んだ後で、上から香り粉をかけると、お香が燻されて香りを出すというもの。
 「香水」は、花など植物から精製したものを油に溶かしたもので、「香り粉」よりも高価。

・水洗トイレ
 大きな都市になると上水道・下水道の施設が充実しており、公共トイレ、屋敷トイレともに、水洗化されていたりする。
 とはいえ、それは水の流れる溝であり、便座のようなものが設置されることは稀で、大抵が溝にまたがって垂れ流すスタイルである。
 公共のトイレは、公共の風呂のすぐ脇に設置されていることが多く、風呂の排水を水洗用に二次利用している。

・局部を洗うもの
 野外においては草葉、水洗式の場合は手指をもって拭く。手指は下水の水でいったん洗う。外で採取した柔らかく広い葉をトイレ用として用いる富裕層もいる。
 また富裕層や貴族においては、海辺の地域にて採取されるスポンゴスという海藻を革袋に入れて携帯し、それに水を含ませて使用する場合もある。お財布事情によっては、スポンゴスが再利用されることもある。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み