第7話 クソクレーマー、ゲジ河童

文字数 3,290文字

 その日、出勤するとみんなの様子がいつもと違った。足取りが重くて掛け声も暗く、その顔色は例外なくお通夜のように沈んでいる。
「どうしたの?」
 近くにいたスタッフに呑気に訊ねると、彼女は声を落として教えてくれた。
「ゲジ河童さんがまた来たんですよ」
 その一言で、何が起きたのか私はすぐに理解した。
 そいつはこの店にたまに来る要注意人物だ。六十代くらいのじいさんなのだが、スタッフを捕まえては訳の分からない質問を浴びせ、答えられなかったり戸惑ったりしていると急にキレて怒鳴りだす。知らんよ。なんでその商品がそんな名前なんだとか。なんでその値段なのかなんて。彼の思った商品が置いていなければ、やっぱりキレて怒鳴りだす。こちらが説明しようとしても聞く耳など持たない。私たちの声にかぶせるようにして、ますます大きく怒鳴り散らす。気に入らなければ二度とこなければいいのに、時々思い出したようにやってきて、そして難癖付けては怒鳴っていく。多分ストレス解消にでもしているのだろう。それでてめえはすっきりなのだろうが、それに付き合わされるスタッフにも居合わせた他のお客さんたちにもいい迷惑だ。
 非常に尊大な態度で店員を奴隷のように扱う。そのあごや手で人様に指図する仕草はいかにも「俺はお客様だから偉いんだ」と言わんばかりだ。実際何度も「俺は客だ」と言ってスタッフを黙らせている。風のうわさでは、どこかのお偉いお役人だったらしい。痩せていて頭髪は薄く、まるで老いた河童のような風貌だ。顔はしわだらけでつりあがった狐のような目をしていて、げじげじのような髭をつけている。故にゲジ河童。
 その要注意人物が、今日は一体何をしでかしたのか。
 私にゲジ河童襲来を教えてくれたスタッフが言った。
「今日はね。引田さんが標的になったの。ゲジ河童さんが書籍コーナーにある雑誌のビニールをはがしていたから注意したのだけど……」
 引田さんは、今年入社した新人君だ。小柄でちょっと気弱なところがあるけど、とても頑張り屋な子だ。真面目で仕事熱心で、スタッフ皆から可愛がられている。
 その引田さんがゲジ河童の毒牙にかかったらしい。案の定、奴は逆切れをし、何でビニールをはがしたらダメなんだと彼女に詰め寄った。そんなの当たり前だろ、脳みそ溶けてるのか……と言ってやりたいところだが、引田さんは誠実に説明し、理解を求めた。しかしそれで引き下がるゲジ河童ではない。彼女の説明や態度に難癖をつけ、重箱の隅をつつくような質問を重ね、彼女が言葉に詰まったところで待ってましたとばかりに怒鳴り始めたらしい。それはもう、叱責などというレベルを遥かに超えていた。あらゆる罵りの言葉、相手を傷つけると思われる言葉の限りを尽くした、暴力だった。それは引田さんが何度も謝っても止まることはなかった。その暴力的かつ攻撃的言葉と怒声は、彼女がめまいを起こして倒れるまで続いたという。
 話をきいているだけで心が痛む。
「それで……引田さんは?」
 私が尋ねると、そのスタッフは眉をひそめて休憩室の方を目で示した。
 休憩室に灯りはともっていなかった。薄暗くがらんとしている、その休憩室の隅に、人がひとりうずくまっている。それが引田さんであることを、私はすぐには認識できなかった。彼女は元気で明るくて、そんなふうに背中を丸めていることはなかったから。
「引田さん……大丈夫?」
 私が声をかけても、彼女は顔をあげなかった。
「阿久津さん。すみません。もう少ししたら店に出ますので。もう少ししたら……」
 そうひとりごとのようにつぶやいて鼻をすする。彼女は泣いていた。背中を震わせて、休憩室の隅の暗がりでシクシクとひとり泣いていた。
 私の腹の底に激しい炎が燃え上がる。おのれ許すまじゲジ河童。次の標的はお前だ。

 髑髏十字世田谷支部の礼拝堂もどきでは、今日もキウラさんがひとり似合わぬシスター姿でくつろいでいた。タブレットを覗き込んでいるのは、きっとあの日の動画を閲覧しているんだろう。
 あの略奪女の披露宴をめちゃくちゃにした日、ムービーが流された後の会場の様子を、さとみさんが撮っておいてくれたのだ。後日、彼女からお礼の文とともに送られてきた、その映像をキウラさんは山吹色の菓子をもらった悪代官のように喜んだ。以来、ここに来るたびに私は、タブレットを手にして抱腹絶倒するキウラさんの姿を目撃することになった。
「ククク……。見てくださいよあの顔。ヒャヒャ。必死に止めようとしてる。無理ですよー。あっ。なんか飛んできた。え、エビだ。エビ……エビ! ブフ。エビが頭にヒットしたぁ」
 腹を抱えて肩を震わせる。もはや言葉を出すこともかなわず、ヒイヒイ声を漏らしながら、袖でしきりに目をこする。涙流すほど笑ってんのかこの人。
「まったく、好きですねぇ」
 私が声をかけると、目尻にためた涙を拭きながら彼女は振り返った。
「貴女だって楽しんでたじゃないですか。どんどん机を叩きながら喜んで。そんなクールを装ったって、本性は知れてるんですからね。ひょっとして真子さんはむっつりスケベ?」
 あながち間違いではないので反論できない。ムッツリと彼女の隣に座ると、調子に乗ったキウラさんが肩で私をどついてきた。
「私はこれでご飯三杯いけますよ。ほらほら、我慢しないで一緒に見ましょうよ~。貴女も好きでしょ。この桃色ムッツリ娘」
 とても不名誉なその呼び名を全力で打ち消そうとした矢先、お下劣ムービの映し出された壁を必死に掻きむしる花嫁の映像が目に入って思わず吹き出してしまった。いかんいかん。今日はキウラさんと一緒に笑うために来たんじゃなかった。
「実は、今日は新しいご飯のお供を提供しに来たの」
 咳払いして、ゲジ河童の話をした。奴の悪行の数々を。やつに泣かされた多くのスタッフの怨念を込めて。
 話し終わると、しかしキウラさんの反応は思いの外薄いものだった。 
「なんか、気乗りしませんねぇ」
「どうして。ひどい奴だよ。やっつけがいがあると思うけど」
「だって。聞く限り、そいつはただの嫌われ者の哀れなじいさんじゃないですか」
 哀れなものか。あいつはひどく粗野で横暴で……。頭の中で悪口を並べ立てながら不満に頬を膨らませる私に、キウラさんはたしなめるような視線を向ける。
「いいですか。私たちは、正義の味方じゃないんです。標的は常に幸福を独り占めにしている者。その幸せしか知らないような人間の人生に一つの汚点をつくってやることなんです」
 ものすごく真面目な顔と口調だけど、言ってることはとてつもなく卑劣極まりないな。……などと今さら突っ込んではやるまい。私もそれを承知でここにいるのだから。
「幸福と得意の絶頂にいる奴を叩き落す。これこそ我々の本懐なのであります」
 キウラさんの言葉に私もうなずく。もちろんそれは承知だ。私は正義の味方ではなく、どちらかと言えば悪の味方。だけど……いや、だからこそ、あいつをやっつけようと思うんだ。
「それなら、ゲジ河童だって得意の絶頂だよ。いつも大いばりで店員をいじめて喜んでいるもの。それにえらい役人だったって噂だから、きっとお金もたくさん持っている。仕事をしなくてよくて、豊富な年金もらって悠々自適。出かけた先で言いたい放題の、何もかも思い通りの幸せ者なんだ。それに……」
 ひょっとしたらあいつにはあいつなりの苦悩なり、何かしら背負っているものがあるのかもしれない。だけど私はそれを考慮しない。私は悪だから。だから、ただ許せないという感情にまかせてあいつをやっつけてやる。私の仲間を泣かせた報いを受けさせてやるんだ。一方的に、無慈悲なやり方で。
「人を責めるばかりの人間と攻撃されるばかりの人間がいるのは、不公平よ。人を泣かせて威張っているような奴には、そいつが幸せであろうがなかろうが、致命的な汚点を刻んでやるべきよ」
「貴女も、言いますねぇ」
 私の演説を黙って聞いていたキウラさんは、しばらく沈思したあと、白い犬歯を光らせた。
「でも、一理あります。そいつはしかるべき攻撃にさらされるべきだ」
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