第27話 祈り

文字数 3,590文字

 力尽きた高遠をシャッター前に残し、私たちは階段を駆け上がった。
 香久さんが手を合わせ何事か唱えている。どうやら「すまん。ありがとう、高遠」と言っているようだ。それは私も同じ気持ちだ。きっと他のメンバーも。
 私は走りながら、高遠に思いをはせた。
 私たちはあの老人とはほとんど交流はなかった。己が組織の黒幕。敵対する勢力の幹部。話したことといえば、初めてこの館に連れてこられたときのわずかばかりの事務的な説明と質疑応答だけだった。彼にとって私たちは敵だったはずだ。しかし彼は私たちを助けてくれた。私たちを操り、立ちはだかり、最後に命を救ってくれた哀しきマッチョ爺。工場で「自分は幸せとはどんな気持ちか知らない」と言った。果たしてそうだろうか。別れ際にみせた彼の表情は、その言葉が本当ではないと私に教える。彼はきっと知っている。その涙に濡れる瞳の先に、いつもそれを見ていたのだろう。

 地上には、髑髏十字の黒衣の兵士たちが所狭しとうごめいていた。
 消火作業にいそしむ者。武器を手に警戒する者。右往左往する者。様々だったが、皆のこのこと姿を現した私たちの姿を発見すると、血眼になって襲いかかってきた。
 私たちは一丸となって彼らをなぎ倒し、前に進もうとするがいかんせん人数が多い。無我夢中で突き進むも突破口が開けず、いつの間にか完全に包囲されていた。
 私はじりじりと後ずさりながら、隣で拳を構える鈴木さんに声をかける。
「自慢の火炎放射器はどうしたの」
「工場に置いてきちまった」
 モヒカンをしならせながら鈴木さんが肩を落とす。
 その時だった。突然包囲の一角が騒がしくなったかと思うと、大量の水が包囲の向こうから噴出して、黒衣の兵士たちを洪水のように押し流した。火炎放射器の水バージョンみたいだ。そんな感慨に浸りながら水の噴射された方に目を向けると、ゴーグルとマスクをつけた消火班と思しき数人が放水機を構えているのが見えた。
「はやく。こっちに来て」
 そう言ってゴーグルをとった、その人物は、梨々香だ。
「こいつらは任せろ」
「みんな洗い流してやるぜ」
 言いながら彼女に続く消火班の面々が次々にゴーグルをはずす。黒田黒川ペアに、世紀末無頼漢たち。みんな、助けに来てくれたんだ。
「煙が立つのが見えてよ。どさくさに紛れて突入してやったぜ」
「この放水機はいいな。ヒャッハー!」
 モヒカン男のひとり佐藤さんの号令とともに再度水が放出される。それはナイアガラ瀑布のごとく黒衣の男たちに襲いかかった。男たちは両手足をバタバタさせながら、次から次へと流されていく。まるで遊んでいるみたいだ。飛び散った水しぶきが私たちにも降りかかる。
「俺もやりてぇなあ……」
 鈴木さんがうずうずしている。火遊びの次は水遊びがしたいようだ。
「あんたは火炎放射器で遊んだから、いいでしょ」
 彼をたしなめるも、私も胸躍るのを抑えられなかった。差し込む光を浴びてきらめく水滴の向こうから、梨々香が私を見ている。彼女は鼻の下をかきながら得意げにほほ笑む。その姿を眺めていると、なんとも言えず嬉しくなった。梨々香よ。あんた、なかなかやるね。ありがとう。
 私は梨々香に向けて親指を立てるジャスチャーをしてから、その手をあげる。
「全員、突撃ー」
 号令とともに、梨々香たちの開いてくれた突破口に向けて、全員で駆け出した。

 包囲を突破した先にあったのは、例の中庭だった。
 広大な庭の中央に立つ幸福の樹は、相変わらずの満開だ。白い花に覆いつくされた枝々が重たそうに垂れている。館は蜂の巣をつついたような騒ぎなのに、その樹の周辺だけ別世界のように静寂で、夕方の陽をうけてわずかに暮れ色に染まった花々が、そよ風が吹くたびに音もなく揺れるのだった。
 ひとり、その樹の前にたたずんで、花に埋め尽くされた梢を見上げる女の人がいた。
 安寿さんだった。
「まだよ……。まだ、終わりではないわ」
 青ざめた顔にひきつった笑みを浮かべながら、彼女はうわ言のようにそうつぶやいていた。
 安寿さんを遠巻きにする私たちの集団から、ひとり香久さんが前に進み出て、安寿さんに寄り添った。しばらくふたりで静かにそよぐ梢をみあげたあと、やがてためらいがちに父は娘の肩に手を置く。
「もう、やめよう。こんなことは」
 香久さんが穏やかな声で話しかける。短い言葉だったがそれは、労わるような、慰めるような、そして震える人を毛布で包むこむような、やさしい声かけだった。
 安寿さんがうなだれる。その背中がふるえている。きっと父親の優しい言葉にほだされて、この後彼女は香久さんの大いなる胸に顔をうずめるのであろう。……そう思っていたら、彼女のとった行動は、私の想像の逆だった。
 大きく首を左右に振った安寿さんは、香久さんの腕を払いのけたのだ。
「こんなことが、今の私のすべてなのよ」
 彼女はそう言って香久さんを睨み、私たちを睥睨した。
「私はこの世の中が憎い。私から何もかも奪ったこの世が。だから私はこの世から奪ってやるの。この世でいい思いをしている連中全てから、何もかも」
 そして幸福の樹に近寄って、その瘤だらけの幹に手をついた。
「こんなことやめて、どうしろっていうの? また世界の幸福を祈れと言うの? そんなのまっぴらごめんだわ。この樹は、もうそんなことに使わない。私はこれを使って、みんなをやっつけてやるんだから」
 安寿さんが口を閉じると、世界に静寂が訪れた。盛大な世界との絶交宣言に、森羅万象が唖然としたといった感じだった。私たちはもちろん、庭の外で私たちを遠巻きにしている髑髏十字の皆さんも、かたずをのんで身動きひとつしない。香久さんもだった。彼は大広間でのように卓袱台返しもしなければ、娘の頬をはたくこともしなかった。ただ、泣きじゃくる幼子を前になすすべのない若い親のように、途方に暮れた表情で突っ立っているのだった。
 私は一瞬躊躇した。これは香久家の問題。香久さんと安寿さんの問題だ。限りなく部外者な私が、しゃしゃり出ていいものではないかもしれない。的外れなことをして、事態をさらに悪くするかもしれない。だけど、私は足を前に進めてしまった。言いたいことがあったから。部外者だけど、関わってしまったから。関わってきて、思うことがあったから。あの片目の不幸な娘の闇に、自分のそれと重なるものがあったから。放っておけなかったんだ。だから私は、彼女に声をかけた。
「世の中がクソで、意地悪で、そんな世の中が憎たらしくてしょうがない。それはあんたに同意だね。私もこんな世の中が大嫌いだ」
 樹の枝が風にさざめくように、その場が少しざわついた。何やってんだこのクソ女が……という非難の視線が遠くからいくつか投げられている気がするが、かまわず私はつづけた。
「幸せになんて私も縁がないし、なれる気もしないけど。でもね、あんたに言いたいことがある」
 息を吸うと、水の香りがしたような気がした。暮れ時の川辺の風景が私の脳裏によみがえる。金色の光の粒を散らす水面。宇宙まで見通せそうな深い空の色。土手道を行く人々の穏やかな顔。風にそよぐコスモス。豆腐屋のラッパ。汽車の音。そして空をかける鳳凰のような雲……。
「世の中には確かに美しいものがひそんでいて、そしてそれを見つけ出す能力を、人間は持っているんだ。私も、そしてあなたも」
 私は安寿さんの隣に立ち、そして彼女と同じように目の前の樹の幹に手を置いた。
「こんなものが、なくてもね」
 白い花に埋め尽くされ、折り重なる枝々を見上げる。そのひとつ、すぐ手の届く枝の先がビニール袋ほどの布で覆われていた。
 私は振り返り、香久さんにちょこんと頭を下げた。
「先に謝っておくよ。私ごときが出過ぎたマネをしてごめんなさい。あなた方は、もう、世界の幸福を祈らなくてもいいよ。そんなもの、背負わなくていいよ。それは、私がやるよ。私たちがやるよ。世の中すべてなんて大それたことはできないけど、身近な人の幸福を祈るよ」
 そして、その場にいる人々ひとりずつに視線をおいてゆく。
 香久さん。安寿さん。あなたの幸福を祈るよ。
 ブラックシスターズ。モヒカン男たち。二階堂さんに理絵さん。あなたがたの幸福も祈るよ。
 梨々香。よい人生をおくってね。
 南条君と恵子。お幸せに。
 キウラさん。あなたがこれからも楽しい日々を過ごせますように。
「さあ、終われ、幸福の樹よ。その千数百年の歴史に幕を閉じよ」
 私は枝の先を覆う布を取り払った。キウラさんから託されていた瓢箪を手に取り、あらわになったほんの数個のつぼみに向けて、その栓を抜く。解き放たれた七匹のてんとう虫が、吸い寄せられるように、残ったつぼみすべてにとまった。
 てんとう虫が蒸発し、瞬く間につぼみが膨らんで、白い花が開く。
 幸福の樹は、今、満開となった。
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