第28話 このクソみたいな世に祝福を

文字数 3,305文字

 白い花ですべての枝が満たされた幸福の樹は、しばらく何事もないかのようにそこにたたずんでいた。その様子を、誰もが固唾をのんで見守っている。静かだった。さっきまでかすかにそよいでいた風も全くやみ、世界のすべての時間が止まってしまったかのようだった。
 微動だにしない花々をじっと見つめているうちに、やがてその一部がわずかに光っているように思えた。気のせいかと思って瞬きをし、さらに目を凝らしてみる。気のせいではない。枝々の数か所から発生した光は少しずつ、しかし着実にその周囲の花びらに広がってゆく。そしてあれよあれよという間に、幸福の樹全体が白い光に包まれてしまった。
 それはまるで時間が昼に戻ったかのように明るくこの庭を照らし、その眩しさに私は思わず目をすがめた。しかし幸福の樹が庭を照らしたのはほんのひと時だった。その光は爆発のように私達を照らしたと思ったら、次の瞬間には一斉に散り、無数の光の粒に分かれて空に舞いあがったのだ。
 私は、みんなと同様に、口を開けながら啞然と空を見上げていた。樹を埋め尽くしていた白い花びらのすべてが、一斉にその枝から解き放たれ、中庭と夕空を舞っていた。白く輝きながらそれは、春の終わりの桜吹雪のように私達を飲み込んで樹の周囲を渦巻いた後、風に乗って四方の空へと流れていった。

   〇  〇  〇

 あれから数ヶ月がたった。
 時間はあっという間に流れた。あの不思議な出来事に遭遇したあと、日常に戻った私は、以前と同じような日々を過ごした。
 私を巡る日々は、笑ってしまうほどに以前と変わらない。なにか新しい環境が目の前に開くこともなく、新しい能力に目覚めることもなく、素敵な人と結ばれることもない。ただ忙しく退屈な日常が、淡々と続いていくだけだ。
 変わったことがあるとすれば、星乃雑貨店と無頼亭という遊び場ができたことくらいか。
「ありがとうございましたー。またのお越しを~」
 やる気のない声で、私はほとんど自動音声のように店をあとにするお客さんに呼びかける。あと十分で今日の仕事は終わり。お昼食べたあと、午後は何をして過ごそう。
 店頭に立って、ぼんやりと土曜の昼の往来を見つめる。寒い冬は終わり、もう春が来ようとしている。一点の曇りもなく晴れ渡った空からは、三月の明るい陽光がさんさんと注いでいる。白い光を浴びながらまだ葉のついていない街路樹が楽しげに揺れ、その下を様々な人たちが笑顔をはじけさせながら歩んでいく。
 仲のよさそうな女子高生のグループ。
 ベビーカーをひいた母親。
 手をつないだカップル。
 スーツ姿のビジネスマン。
 日傘をさした上品そうな淑女……。
 彼らのその笑顔には今この時間への満足が、未来への希望が、隠しようもなくにじんでいるようだ。みんなみんな、望むものを手に入れ、人生を謳歌しているしているように見える。
 でも、きっとそうではないのだろうな、と私は思う。哀しみはきっと誰の中にもある。そしてそのうえで、あの笑顔もまた偽りではないのだろう。
「相変わらずですねえ。ボケっとして。お昼ごはんのことでも考えているのですか」
 突然声をかけられて振り向くと、店先からキウラさんがニヤニヤしながら私を見ていた。
「それとも、想い人のことにでも思いをはせていましたか」
 私は苦笑してその言葉をはらうように手を振る。彼女の言いたいことがわかったから。彼女の言う想い人とは南条君のことだ。彼は今日、恵子と結婚する。
 キウラさんは相変わらずいやらしい笑みを頬に浮かべて、邪悪な犬歯をのぞかせた。
「せっかくだから、ふたりであの人たちを祝いに行ってやりましょうか。以前のあの略奪女の時のように」
 弁護しようのない卑猥な表情でそんな物騒なことを言いだすものだから、今度は首をぶんぶん振って断った。
「いいよいいよ。私はいかない」
「でも、招待状をもらったのでしょう?」
「うん。でも、捨てちゃった」
 半分は嘘だ。招待状は捨てた。だけど、それと一緒に彼から手紙をもらったのだ。私に対する友情のこもった手紙。それは大事にとってある。私を照らす光。私の宝物だ。
 私の返事に、キウラさんはつまらなそうに鼻を鳴らした。今度は招待客として堂々と入場できたのに。そうすれば派手に暴れてやったのになあ……。などと、つぶやいている。ほんと、相変わらず物騒な人だよ。
 ちなみに髑髏十字はあの幸福の樹が枯れた日に解散した。その後キウラさんはしばらくおとなしくしていたのだが、最近また似たような組織をつくったらしい。
「世の横暴な者どもを成敗する、正義の組織ですよ。真子さんも参加しませんか」
「どうせ、やばい組織なんでしょ」
「やばい組織です」
「気が向いたら手伝うよ」
 その時、ポケットに入れたスマホのアラームが鳴った。終業時間だ。
「仕事終わり。キウラさん。お昼食べにいこ。そのあとちょっと付き合ってよ。新しくできたクレープ屋さんがあってさ」
 クレープときいて、キウラさんはかき氷を口にした虫歯患者のように顔をしかめた。そんな甘いものを食べるなんて女ドラキュラの沽券にかかわるとでも言いたげだ。しかし嫌がるそぶりをみせながらも、嫌ですとは言わない。私知ってるんだ。この人本当は甘いものも好きだって。素直じゃないんだから。

 昼食を食べたあと、私とキウラさんは行列に並んで買ったクレープを携えて、近所の公園に立ち寄った。
 もうすぐ桜の季節だ。何本かある桜の木々はまだ裸ではあるけれど、その枝先に点々とつく蕾たちは、開く時を待ちわびてぷくぷく桃色に膨らんでいる。その桜の枝の下のベンチに腰掛けて、プラプラと子供みたいに足をゆらしながら眺めると、昼下がりの公園はのどかそのものだった。
 晴れ渡った空から注ぐ陽光は、先週よりも明るく柔らかい。訪れつつある春の暖かさとにぎやかさを予感させるような眩しい光が、木々の梢や、池の面や、地面に萌える可愛い草に散っている。空気も少し浮き立っているようだ。身を切るような冷たさはなりをひそめ、肌にあたるそれは陽の暖かさと混ざり合って、ぬくぬくと私を眠りに誘おうとする。
 身も心もくつろいだ気持ちになって、私はクレープにかじりついた。
 口の中がクリームとカスタードの甘さで満たされる。体の中もお日様の光を浴びたみたいにポカポカする。
「ふっごいおいひぃ~」
 思わず声を漏らして隣を見ると、キウラさんは頬にクリームをつけて、小動物みたいにもくもくとクレープを咀嚼していた。その口もとは笑みの形になっていて、頬はかすかに桜色。彼女もまた、私と同じくその美味に舌鼓を打っているようだ。
 夢中になってクレープを腹に収めた私は、大きく伸びをして、満足のため息をついた。
 食後の一服とばかりに、さわやかな風が私の鼻先をかすめる。水と土と若葉の匂いをのせた、清涼感のある風。そこにかすかに甘い香りが絡んでいることに気がつく。
 見上げると、桜の枝の向こうに、白い大きな花で埋め尽くされた樹を見つけた。木欄だ。
 私はふと、香久安寿さんのことを思い出す。幸福の花の散ったあとの中庭に、あの木欄のように空を見上げて立ち尽くしていた。その後父と一緒にあの館で暮らすようになったという彼女が、今どのように生きているのか私は知らない。
 だけど、私は思う。彼女に向けて、自分にも向けて、祈るように思う。
 生きることは相変わらずしんどい。仕事は忙しいし、嫌な人間や面倒ごとにも日々遭遇する。将来なんてまるで見えないし希望もない。
 だけど、悪いことばかりではない。
 小さいけれど良いことだってちゃんとどこかに潜んでいる。世の中が不公平だろうが理不尽だらけだろうが、私たちはそれを見出すことができる。だから、いつでもとはいわないけれど時々、耳を澄まし心を静めてしっかり感じようじゃないか。香りみたいにはかない、でもこの世のどこかに必ずある、幸せを。
 私は立ち上がり、両腕を大きく伸ばして空を見上げた。柔らかそうな雲の浮かぶ、晴れ渡った春の空。大きく息を吸い、その空に向かって胸の中で大きく叫ぶ。
 このクソみたいな世に、祝福を!




   おわり
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